六.アトゥー

 一月上旬に襄陽戦線から徳安戦線へ救援要請の急使を出し、それを承諾した徳安戦線から襄陽戦線へ、延べ十四日をかけて移動してきた兵力は実に五万に上った。

「俺はその中の一人に過ぎないよ。自前の兵力は五百くらいだし。でも、二十二、三の若造が人を率いる立場に就かせてもらえるというのは珍しいことで、ありがたいことだ」

 李通古はそんなふうに近況を語った。

 が、その直後、吾也が李通古に三千の兵を付けた。また、時と場合に応じては李通古が吾也に代わって全兵力を動かす権限を持つ、との通達が納合家の軍勢に行き渡った。

 李通古は困惑し、辞退を申し出たが、吾也は一笑に付した。李通古を除いては、納合家に属する者でその通達に驚いた者はいなかった。吾也に近しい士官はもちろん兵卒でさえ、吾也の不興を買い続ける道僧の代わりに李通古が徳安から招かれたことを知っていたのだ。

 一月二十六日の軍議には、徳安戦線からやって来たうちの主立った指揮官たちも参加した。副統印を持つ身として末席に連なった道僧は、徳安戦線における李通古の評価の高さを目の当たりにすることとなった。

 さつそくは新顔の指揮官たちを一人ひとり眺めながら混ぜっ返した。

「まだ若い通古が徳安戦線ではよく活躍した。それに対して誰も嫉妬しておらぬとは殊勝なことだ。通古の父は万人に嫌われており、母はめかけであり異民族でもある。そんな苦労人の武辺者とあらば、まさに民草の好む英雄譚だが、おぬしら貴族の趣味には合うまい」

 李通古は、くつくつと笑ってうなずいたが、ふと吾也の苦虫を噛み潰したような顔に気が付いて、慌ててあちこちに向けて頭を下げた。そんな仕草が卑屈に見えない。いちいち正直な態度は愛嬌を感じさせる。

 撒速は日頃から、長幼の別を問わず誰にでも発言の水を向ける。このとき発言の指名を受けたのは、李通古だった。

「通古よ、包み隠さず答えよ。徳安の勝利は堅いのだな?」

「私見を申し上げるなら、敵に降参と言わせて勝敗を明記した証文を交わすまでは、八割方の勝利だとか二割方の懸念だとかはないと思ってます。勝ち負けとは、割合で説明できるものではなくて、十か無かの二者択一です。徳安の金軍はまだ勝利していません」

 襄陽戦線の者たちがざわめき、徳安戦線の者たちは苦笑した。率直に過ぎる李通古の私見は、徳安戦線では有名だったのだろう。

 撒速はにやりとした。

「まだ勝利していないとは、具体的にはどのような状況なのだ?」

「徳安周辺の城市や村鎮は軒並み制圧しました。徳安だけは勝敗の決着がついていなくて、金軍は城壁のすぐそばを取り囲んでいます。徳安軍の打つ手はすべて封じましたから、実質は金軍が徳安の開城を待っている状態です」

「打つ手をすべて封じたか。なかなか豪気な言い草だ。たやすいことではあるまいに」

「最初は激戦でしたよ。徳安は襄陽と違って水に邪魔されることのない土地柄ですから、両軍ともに猛烈な撃ち合いになりました。そうすると、有利なのはやはり我が軍です。も砲弾も乏しくなった徳安軍は、じっと城壁内に引きこもっています」

「これを一思いにひねり潰すわけにはいかなんだか?」

「好ましい作戦ではないでしょう。きゅう猫を噛むといいます。あまり追い詰めて必死の反撃をされてしまうより、黙って圧力をかけて向こうが音を上げるのを待つほうが、損害が少なく済んで気が楽です」

 徳安には襄陽のように大きな濠はない。雲梯や洞子などで城壁に直接取り付くことが可能であるから、敵味方に多大な死者を出してよいとするならば、強引に徳安を攻略するという選択もできる。

 実際、徳安戦線でも苛烈な策を採るべきだとする声もあったようだ。城を包囲して待つだけの作戦では、兵の士気を維持することが難しい。もしも兵が腐って暴動でも起こせば、徳安戦線は内側から瓦解してしまう。

 李通古は、退屈すぎるという問題の解決方法を模索し、の軍勢と共に、思い付いたことを片っ端から試していた。おかげで李通古の部隊はいつでも元気だったので、徳安戦線のげんなりとした指揮官たちの間で話題となった。

「動かない敵を見張りながら待機する任務は本当に退屈だったから、孫子を始めとする兵法をあれこれ実践してみたんです。俺たち五百の兵力で誰々将軍の二千の兵力に勝てるだろうか、と課題を設定して討論したり。そこで、大事なことがわかりました」

「ほう、何がわかった?」

「戦では兵力が大きいほうが勝つ、ということです。あっ、笑わないでください。少数の騎兵が多数の歩兵を圧倒することもありますけれど、やっぱりそれは一時的、局所的、限定的な勝利でしかないんです。多さは強さです」

「しかし、知っておるか? 襄陽軍の奇襲は、五百の兵力で二千の兵力を打ち破るなど朝飯前にこなしてみせるのだ」

「存じ上げています。あれは異常です。華々しいけれども、兵法としては全く正しくありません。真似してよいものではないし、そういつまでも続けられるはずはないと思います。襄陽軍はそのあたりをわかっているんでしょうか?」

「承知しているはずだ。襄陽の守将は趙伯洌という男だが、本当に手強い」

「手強いとおっしゃりながら、御楽しそうですね」

 撒速は李通古に指摘されると、こらえ切れなくなったように、低く深い笑声を漏らした。

「趙伯洌は憎たらしく、腹立たしい。笑えてくるほどにな。徳安は優勢で、あとは降参を待つだけとなった。我が朋輩、ぼくさんりんわいなん攻めも、ほぼ攻略が成ったと聞く。四川は、宋賊の武将、が寝返って我らが金国に降った。しぶといのは襄陽のみだ」

 軍議の場がざわついた。

 道僧は、遠い席に就く李通古と目が合った。李通古は笑った。くしゃっとした義兄の笑顔につられ、道僧も眉間のしわを緩めた。

 撒速がまた李通古に問いを投げ掛けた。

「通古よ、おぬしは兵法に通じておるのだな?」

「ここにいらっしゃる皆様も通じておられると思いますよ。ただし、暇を持て余して兵器の模型を造りまくったり兵法書通りの模擬戦をやってみたりと、いちいち実践を試みた経験があるのは俺……あっ、私くらいのものかもしれません」

「かしこまらずともよい。では、おぬしが実践を試みた中で最も人手を必要とする攻城術は何だった? 直接攻撃でも兵器の製造でも、どのような型の攻城術でもよい。論じてみよ」

 李通古は即答した。

きょいんですね。城壁の高さに等しい土山を築いて、城壁まで一続きの地面にしてしまう戦術です」

「なるほど、距堙か。まず城壁から離れた位置で土山を築き、それを足掛かりにして徐々に城壁のほうへ伸ばしていき、最終的には土山が城壁に取り付いた格好となる。徳安ではどのような形でこれを試した?」

「俺の部隊を含む三万の軍勢が辺境の小さな城市を攻めることになったとき、雲梯や洞子の割り当てがあまりに少なくて、その場にあるものでどうにかしないといけませんでした。土や岩ならたくさんあったんです。それで、三万人で一斉に土山造りですよ」

「土山が城壁に到達するまでにどれほどの時を要した?」

「高さ二丈(約六.二メートル)で、上部の幅がその半分くらいで、長さは十丈くらい(約三十一.二メートル)になったかな、その土山を造って城壁に到達するまでに、六日かかりました。ただ、途中で一度、造り直したんですが」

「なぜ造り直した? 敵に破壊されたか?」

「いえ、頑丈に固めることができなくて、このままでは崩れると気付いたんです。黄土は、適度に水を混ぜて固めると、がちがちになります。ただ、兵学書には上手な固め方の技術までは載っていません」

「して、どうした?」

「もともと大工だという兵士の発案で、土山の中に木の骨組みを入れることにしました。ちょうど丸木小屋のようにがっしりとした柱と梁を組んで、内側には草や柴やのうをみっちり満たして、その外側を土で固めるんです。こうすると、びくともしなくなりました」

 おお、と、どよめきが起こる。道僧も感嘆し、熱い息をついた。

 古代より中国に伝わる兵法を、座学としてたしなむのではなく自ら実践した。権威ある兵学書にさえ記されていない工夫を、戦場の知恵の中から編み出した。

 李通古の体験談は、まるで神代とつながった古い時代の英雄譚のように、聞く者の胸を弾ませる。当の李通古はその実績を誇るでもなく、ただ率直に語るばかりだ。それがまた好ましい。軍議の参加者は皆、李通古の話に惹き付けられている。

 兄は素晴らしい戦士だ、と道僧は思った。李通古の中に流れる血の半分は漢族のものだが、彼は出で立ちのみならず、生き様もまた女真族の男にふさわしい。李通古は生まれながらにして戦士だ。そして、実直で知恵がある戦士は、女真族の男の理想像だ。

 撒速が手を打ち鳴らした。

「納合家の李通古よ、おぬしの献策を推そう。我らが金軍はみょうちょうより、距堙の策によって襄陽を攻略することを目指す。襄陽の濠は深く広い。土山を城壁に至らせるのはたやすくあるまいが、土山を築く大兵力を襄陽に見せ付けることが距堙を採る所以ゆえんだ。心して掛かれ」

 承知を告げる応答が議場全体から上がる。

 撒速は次いで、距堙の策の指揮官を選ぶと宣言した。議場は水を打ったように静まり返った。李通古の父である吾也が選ばれるのではないかと、議場を飛び交う視線が語る。

 短い沈黙の後に呼ばれた名は、吾也でも李通古でもなかった。このところ多大な犠牲を出し続けている蒲察家の長、すなわち多保真の父だった。

 ああ、と低い声が議場にあふれたが、落胆ではなく安堵だっただろう。吾也がこれ以上目立たなくてよかったと、多くの者が同じ思いをいだいた。そんなふうに、道僧は感じた。

 襄陽戦線の指揮官たちは皆、道僧に同情のまなざしや言葉を寄越す。同情の裏にある優しさも親しみも、はたまたやっかみも、道僧には重苦しいものだった。

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