五.ベーゼ

 どうそうはうっすらと目を開けた。

 落馬したのは子供の頃以来だった。とっに受け身を取ったので大怪我はまぬかれたものの、全速力の馬から放り出された衝撃はやはり小さくはない。あざの広がる右の体側だけでなく、全身の筋肉と関節ががちがちにこわばって痛んでいる。

 襄陽の東南に新設中のさいが襄陽軍の夜襲を受けたとき、道僧は偶然そこにいた。ばんざんから五百人ばかりを動員して資材を運んだ折、人手が不足しているからと引き留められたのだ。道僧は兵の半数を萬山に帰し、半数と共に残って夜警に当たっていた。

 帳幕の中で動く気配がある。

「道僧? 目を覚ましたの?」

 鈴を転がすような声に、道僧は慌てて体を起こした。途端、全身がきしむように鈍く痛む。うめく道僧のそばへと、しんが膝を進めた。

 道僧は息をつき、努めて平静な顔で多保真に向き直った。

「なぜここにいる?」

「あら、冷たい言い方。許婚いいなずけが怪我をして寝込んでいると聞いたら、黙ってなんていられないわ」

「見舞いに来てくれたことはありがたいが」

「だったら素直に喜んでくれていいでしょう」

「いや、だが、こうして帳幕の中で二人きりになるのはよくない。私たちは未だ夫婦ではないのだ。君の御父上に申し訳が立たないだろう。私はこの通り目を覚ました。心配いらぬから、君は帰ったほうがいい」

 天窓から差し込む光は、昼下がりの暖かな日差しだ。まつげにその光を宿し、黒い目をきらきらさせた多保真は、道僧の口元に手を伸ばした。

「ここ、痣になっているわ。痛まない?」

「父に殴られた。口の中に血の味がする」

 道僧は顔を背け、己の肌に多保真の手が触れるのを避けた。が、多保真の手は追い掛けてきた。しなやかな手に頬を包まれ、導かれて、道僧はまた顔を上げる。

「よく見せて」

「見ても愉快なものではないだろう」

「そうね。あなたが傷付いているのを見るのは嫌だわ」

「では、私はただ暮らしているだけで、君に嫌な思いをさせる」

「そんな言い方も嫌よ。あなたはいつも思い悩みすぎるの。御願い、少しの間、わたしのことだけ考えて。痛みも悩みも、わたしが消してあげたい」

 多保真が道僧に顔を寄せた。多保真の薄く伏せたまつげに、道僧は目を奪われる。息を呑んだ唇に、柔らかなものが触れた。

 体じゅうに甘い疼きが走る。道僧は目を閉じた。胸が締め付けられる。

 多保真の舌は道僧の血の味を感じただろう。とろけるような舌と弾みがちな息遣いは、傷を癒やそうとするかのようにひたむきに道僧の口内を撫でる。

 幾ばくの時を、そうして過ごしただろうか。

 多保真は道僧の目を見つめてささやいた。

「いけないことだと言わないで。わたしたちは戦場にいる。いつ死んでしまうかわからない。そう思うと、あなたに触れたい気持ち、あなたに触れてもらいたい気持ちが抑えられなくなる。怖いのよ。今日会えなかったことを明日には後悔するのではないかしら、と」

「多保真、しかし、それは」

「わたしの想いを理解してちょうだい。あなたがわたしを寨で待たせて前線に赴くたび、あなたが一人で戦火に近付くたびに、わたしがどれほどの恐怖や孤独を味わうか。わたしを一人にしないで。あなたがわたしのそばにいられないなら、わたしの体にあなたの……」

 道僧はさえぎった。

「今の私にその資格はない。君にそう言ってもらう資格も、儀礼より先走った振る舞いを為す資格も、私にはない」

「わたしたちは他人同士ではないのよ。わたしの父もあなたの御父様も、皇帝陛下やさつそく様だって、わたしたちの婚約を認めてくださったでしょう」

 道僧は唇を噛んだ。多保真の目を見つめていられない。

 婚約がくつがえされるかもしれない。吾也はもう、道僧を嫡男と呼ばないだろう。道僧の舌に血の味がよみがえってくる。殴られた頬より放たれた言葉のほうがずっと痛かった。

「私は兵権を失った」

「え?」

「父が、私には兵を指揮する能力がないと判断したのだ。私ははや、一兵を動かすこともできない」

「なぜ? 今まで道僧はきちんと仕事をこなしてきたわ」

「私はもとより父に嫌われている。それに加えて、今回の一件だ。襄陽東南の寨での損害は、はなはだしく大きかった。私は損害を食い止められなかったどころか、早々に落馬して、ろくに身動きも取れなかった」

「失敗くらい、誰にでもあることよ。次で挽回すればいい。道僧なら、失敗を次に活かして成果につなげられるでしょう?」

「正論だが、理想に過ぎない。現実は違う。父の判断は違った。戦うために湖北に来た私が、戦果を上げられず失態を犯し、ついには戦うための力を奪われた。こんな体たらくでは、蒲察家の令媛おじょうさまと釣り合うわけがない」

 役立たずと罵られ、瞬時に沸き立ったはずの怒りは、行き先が見出せないまま父の拳によって打ち砕かれた。怒りが本当にこの胸にあったのだろうかと、後になって思った。表に出すことのできない感情なら、初めからなかったのと同じではないのか。

 多保真の大きな目に、いつしか涙が浮かんでいる。

「道僧が御父様に認めていただけないのなら、わたしたちの将来はどうなるの?」

「わからない」

 多保真はかぶりを振り、叱り飛ばすように強い口調で言った。

「わからないだなんて、そんな言葉は聞きたくないの。例えあなたが納合家を飛び出すことになっても、わたしはあなたに付いていく。だから道僧、いよいよのときは、わたしをさらいに来て。わたし、覚悟はできているから」

「待て、多保真。そんなことは……」

 道僧の反論は、くちづけによって封じられた。道僧は思わず目を閉じる。まぶたの内側の闇を見つめながら、くらりと目眩めまいがする。

 多保真の手が肩に触れた。痛みが走り、道僧は喉の奥で息を詰まらせる。多保真の手は引っ込みかけて、しかし、結局そのまま道僧の肩をゆるゆると押した。道僧は多保真と唇を合わせながら、しとねの上に仰向けになった。

 ああ、何をしているのだろう?

 思考が、ぼうっと熱っぽい。目眩が収まらない。体がふわふわとして落ち着かない。多保真を抱き締めたい。

 痛くてたまらないはずのくたびれた体に、けだもののように激しい衝動が起こる。道僧は多保真の肩に手を触れた。

 そのときだ。帳幕の外から声がした。

「道僧? 中にいるんだろう? 起きているか?」

 若い男の声だ。

 多保真は、はっと体を硬くして道僧から離れた。道僧は起き上がり、外しっぱなしだった帽子を頭に載せてから、帳幕の出入口に掛かる垂れ幕の向こう側に応答した。

「起きています。どちら様でしょう?」

 男の声に笑みがにじむのがわかった。

「久しく会っていなかったから、わからないよな。つうだよ」

「……兄上?」

「そう、腹違いの兄の通古だ。父上に呼んでいただいて、徳安戦線からこっちに来た。ついさっき到着したところなんだが、道僧が怪我をして寝ていると聞いて、びっくりしたんだ。何でもそつなくこなす道僧が一体どうしたんだろう、と」

 張りのある李通古の声には確かに、道僧の知る少年時代の彼の声の響きが残っている。道僧は懐かしさに嘆息した。

「兄上、中に御入りになってください。ちょうど多保真も見舞いに来てくれています」

「ああ、令媛おじょうさまもおられるんだ。じゃあ、御邪魔虫になってしまうけれど、御邪魔しますよ。すぐに退散するから大目に見てくれ」

 李通古は冗談めかして宣言し、垂れ幕をくぐって帳幕に入った。

 優しげに垂れた目尻には、笑うとたくさんのしわが寄る。頬には縦長のくぼができる。くしゃっとした李通古の笑顔は昔のままで、道僧はまた懐かしさにとらわれて深く嘆息した。

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