八.舌戦を展開せよ

「ならば率直に言おう、襄陽守将よ。我らが軍旗の下にくだれ。襄陽を開城し、我らが金軍を迎え入れよ。さすれば、おぬしら襄陽の兵にも民にも決して危害は加えぬ」

「なるほど率直だな。敵に挑みもせずに投げ出せば、そりゃあ戦は回避できるだろうよ。だが、その後はどうなる? 俺たちは宋で生きていけなくなっちまう」

「我らが金国の民となるがよい」

「何?」

「厚遇を約束しよう。伯洌将軍を始め、すべての者に現在と同等以上の役職を保証し、ふさわしい位階を与え、衣食住には困らせぬ」

「断る! ふざけんじゃねえ。金賊のろくなんぞめるか」

「戦を回避したいのではなかったか?」

「無論だ。俺たちは食っていくために戦争屋をやってるが、血に酔い痴れるくちじゃあねえ」

「そなたらは劣勢、明らかに不利だ。我らが金軍によって既にいくつもの城市と砦が焼け落ちた。はんじょうに至っては、そなたら自身の手で焼かねばならなんだ。こうした破壊をまた重ねることは、そなたらの望むところではあるまい?」

 趙萬年は、趙淳の肩が小刻みに震えていることに気が付いた。恐れのためではない。怒りだ。握り締めた拳は関節が白く浮き出すほど力を加えられている。

 趙淳は毅然として言った。

「貴公らが軍をおこさねば、国境を預かる軍民の命がいたずらに失われることもなかった。兵を収めるべきは貴公らであろう。道理を曲げるな」

 普段の趙淳とは違った。わななく怒りの震えが、わずかに声にもにじんでいる。伝法な湖北訛りは鳴りを潜め、古風で雅な言葉が口からほとばしった。

 さつそくは満足げに両眼を輝かせた。

「浅学の漢族は聞くに耐えぬさえずりばかりを為すが、おぬしには気骨と気風が備わっておるらしい。申せ、伯洌将軍。宋賊が何を思うておるか、片端から申してみよ。儂も舌鋒に遠慮はせぬ」

「我が願いは一つ、父祖の築いた宋国の安寧と繁栄を守ることだ。願いを果たすため、この零落の身に何ができるかと、自らに問うて思いを巡らせ、手にする答えはただ一つだ。我が成し得るは戦うことのみ。ならば命の限り戦ってみせるまで」

「忠国の志がそなたの原動力か。父祖の血に縛られた、愚かで哀れな志よ。漢族は不毛にも、しばしばそなたの志に似たことをうそぶくものだ」

「不毛だと?」

「漢族のたっとき将軍よ、世が世ならば皇子であった者よ、過去ではなく現在を見よ。父祖ではなく子孫を思え」

「行く末を考えればこそ、私はこの地を守りたいと……」

「いや、考えておらぬ。そなたは賢き頭を働かせず、目を閉ざしたままに、ただ信念だけで物を言うておる。信念とは厄介なものよ。誇りと呼ばれるものもまた同様。人の言動と思考を縛り、過去の何者かが残したわだちから逃れるすべを奪う」

 趙淳は激昂を通り越して蒼白になっていた。とっに言葉を返すこともできない。

 女真族が笑ったように、趙萬年は感じた。撒速の背後に居並ぶ者たちを一人ずつ見やる。誰が笑ったのかはわからない。だが、確かに女真族が趙淳を侮蔑する気配があったのだ。

 趙萬年はほとんど無意識に腰の弓に触れた。その途端、趙淳が、趙萬年の眼前に手を伸ばした。

「武器にさわるな。両手を下ろし、動かずにいろ。阿萬だけではない。皆、いいな? 話の腰を折る非礼を為すならば、我が手でおまえたちを罰せねばならなくなる」

 静かな気迫に呑まれた。趙萬年は命じられた通り弓から手を離すことしかできなかった。

 王才が喘ぐように一つ息をついた。趙こうと旅世雄は身じろぎせず、成り行きを見守っている。

 撒速は、にやりとした。

「問いを変えよう。たび、先に侵攻を為したのは金か宋か、いずれであるか? 此度とは、我らの年号でたい、そなたらの年号でかいに入ってからのことを言うておる。すなわち、この三、四年の間に起こった国境地帯の紛争のことだ」

「どちらとも言えぬだろう。国境地帯に開かれた貿易市場、かくじょうでは、その利権を巡って小規模な争いが起こることは珍しくないはずだ」

「違うな。我ら金国が榷場を閉ざして自国の民を守らねばならなくなったのは、宋賊が明確な意図を持って国境を侵し始めたからにほかならぬ」

な」

「知らぬと言うか? とぼけておるのではあるまいな? すべては宰相のかんたくちゅうの目論みによるものである、彼奴きやつが自身の権勢拡大のために宋賊の悲願である華北への復帰を成さんとして軍を興しておるのだと、捕虜が皆そう申したぞ」

 趙淳は眉をひそめた。

「噂はある。韓?冑が野心をいだき、己にくみせぬ者を排除した上で、ほくばつを試みるに至ったのだと」

「ほう、ただの噂か。そなたらの情報網はどうなっておるのだ? その様子では、四川の現状も知らぬのではないか?」

「四川が何だと?」

「既に我らが金軍の手に落ちた」

 襄陽軍は各々、息を呑み、あるいは声を上げた。

「虚言だ、そんなことは……」

「起こり得ぬと思いたかろうな。しかし、事実だ。韓?冑によって四川防衛を命ぜられた軍閥、が独立を宣言し、我らが金軍に寝返った」

 趙淳が額を押さえてうめき、趙淏が天を仰いでつぶやいた。

「呉曦か。あの男ならやりかねん。独立など……金賊に利用されるだけだろうに」

 趙萬年は首筋のうぶが逆立つように感じた。

 金と国境を接する地域は、東のわいなん、中央の湖北、西の四川の三つだ。

 先程、撒速は、淮南と湖北を五十万ずつの兵が攻めると言った。ゆえに援軍の道が絶たれたと、趙淏が言った。更に四川が金に占領されたというのが真実なら、湖北は再び援軍を失うばかりか、挟撃される危険まである。

 撒速は悠然と襄陽軍を眺めやった。

 趙萬年も撒速と目が合った。底知れぬまなざしの強さに膝が屈しそうだった。威厳か王気か、そうした不可視の力というものは確かにある。敵はとんでもない男だ。趙萬年は震えながら耐えた。

「さて、伯洌将軍、および襄陽の諸君よ。そなたらは今、自軍の圧倒的な不利をよく理解した。ここで我が率直なる望みを繰り返せば、儂はそなたらを撃滅しようとは思うておらぬ。降伏せよ。金と宋と、一続きの大地に建つからには、一つの家の下に集うこともできよう」

「その一つの家とは、貴様らの完顔家だと言いたいのか」

「無論」

「ほざくな、賊めが!」

「宋の皇族の血を引くそなたに、故国は何をしてくれた? おぬしは位階も持たず、ろくな軍備もないままに辺境の前線へと追いやられ、援軍を得ることはもちろん正確な情報に触れることもできずに、ただ戦うことを強いられておる。哀れでならぬよ」

「貴様に哀れまれるいわれはない!」

「我らが軍旗の下に合するがよい、伯洌将軍。儂はそなたのような骨のある男が好きだ。そなたを手元に置きたい。我らが宮廷に参ずれば、その武威と知力とを存分に引き出してやれる。そなたが本来、送るべきであった貴族としての暮らしを約束しよう」

 呼吸ひとつぶんの間があった。

 趙淳は言い放った。

「はっ、くだらねえ。話はおしまいだな。俺はいまさら、貴族様の暮らしに未練なんぞ持ってねえよ。俺には守りてえもんがある」

「宋という国か?」

「それ以前に、俺は俺の手に届くところにいる皆を、その信念や誇りも引っくるめて全部、守ってやりてえ。趙家軍が趙家軍のまま、襄陽が襄陽のままで明日もこれからもいられるように。愚かで不毛だとあんたは言うかもしれねえが、これが人の生き様ってもんだろう」

「なるほど。その答えで後悔せぬのだな?」

「しねえよ。俺は譲らねえ。あんたらがここで兵を引かねえ以上、和平交渉は決裂だ」

 また、呼吸ひとつぶんの間があった。

 撒速は顔を曇らせた。ひどく残念そうな表情だった。

「儂も兵を引くことはできぬ。致し方あるまい。伯洌将軍よ、次にあいまみえるときは敵同士だ。くだらぬ失策など為して勝手に死ぬなよ。儂を失望させることなく、強敵として戦場に立ち現れてみせるがよい」

 撒速は椅子から立つと、舌を鳴らして馬を呼んだ。従順に歩み寄る馬に、撒速はひらりとまたがる。居並ぶ女真族がそれにならった。

 女真族は騎乗のままいかだに乗り、対岸へと去っていく。まるで風が吹き過ぎるかのように素早く、しなやかな行軍だった。わずか五人の襄陽軍に攻撃が加えられることは、一切なかった。

 趙萬年は、最後に筏に乗り込んだ若者のまなざしに胸を射られた。救いを求めるような、すがり付くような、苦しげなまなざしだった。あの若者は何を訴えたかったのか。

 くして白河口の対話は、完顔撒速の人となりをうかがい、金軍からいくつかの情報を引き出し、そして両軍ともに後に引かぬことを確かめ合って、終結した。

 戦は避けられないのだ。

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