九.ペール

 水辺に近寄ることは敵の眼前に身をさらすことだ。決死の行為と相成ると、無論、吾也にもわかっていた。

 しかし、誰かがやらねばならぬのだ。橋を架けねば、金軍の中枢を担う者が皆、中洲に閉じ込められたままとなる。

 金軍の本陣は突然の豪雨によって寸断された。さつそくとその腹心、および護衛や近親者など、合して五千ほどが白河口の中洲に取り残されたのだ。

 つい先程まで馬の背に乗って渡れた浅瀬が、急激にみずかさを増した川の底に沈んでいる。浮き橋はあっさりと流されてしまった。

 新たな浮き橋を架けて金軍の首脳陣を救出しようと、いかだいたり担いだりした金軍兵士が岸辺を動き始めた。その途端、雨に煙る夜景に異様な灯火の群れが現れた。敢勇軍の戦船が集団で出現したのだ。

 豪雨の降りしきる音をも圧して、戦船は、両舷側に付いた外輪で盛大に水を跳ね上げながら猛然と金軍に襲いかかった。その速さ、車輪を推し転がして進める洞子など比べ物にならない。

 逃れる間もなく、金軍は戦船の射程に入った。と思うと、や砲弾が雨あられと降り注ぐ。浮き橋を架ける試みは瞬時にへし折られた。それは戦闘ではなく、一方的なせんめつだった。

 敢勇軍の戦船の群れは雨の鎧甲よろいをまとい、襄陽の東に広がる複雑な水系を自由自在に暴れ回った。金軍は水を避けて陸上に縮こまるよりほかにない。味方が襲撃を受けている気配を察しても、救いに行く手段がないのだ。

 金軍にとって絶望的な夜が更けていく。指揮を出す者を欠いたまま取り残された兵卒たちも不運だったが、動かすべき兵卒と分断された撒速たち首脳陣もまた、生きるか死ぬかの瀬戸際に陥りつつある。

「下流まで攻め進んだ戦船が転回し、再びこちらを目指し始めました! 我々を狙っているものと推測されます!」

 金軍の中に水練のできる者はきわめて少ない。決死の覚悟で暗い水面を泳ぎ、情報をもたらした兵士は、疲労を押して再び偵察に戻る。

 吾也は名乗りを上げた。

「私が橋を架けましょう。宋賊がこの中洲を取り囲むのも時間の問題。一か八かの賭けに出るにも、今しかありません」

 増水によって流されるより先に、数十の軽舟を陸に引き上げてあった。これらをつなぎ合わせ、上に木材を渡せば、女真族の騎兵を主とする五千の軍勢は漢江流域より北へ逃れることができる。

 降りしきる雨の中、撒速は吾也に即答しなかった。西へと視線を巡らせる。十里(約五.六公里キロメートル)を隔てた向こうには、襄陽があるはずだった。

「これまでか」

 撒速はうめくように言った。吾也は撒速に詰め寄った。

「再起を図ることは可能です。次の冬にまた参りましょう。宋賊の朝廷など、あってなきがごときもの。ろうじょうする襄陽に援軍を寄越すでもないのです。今少し包囲を長期化することが叶えば、襄陽は必ず音を上げましょう。ですから、今は戦略的撤退を」

「あいわかった。ならば行け、吾也よ。必ず血路を開いてみせよ」

 吾也は騎乗し、馳せた。

 浮き橋を架ける任務を、吾也は今までに幾度も仰せつかっていた。宋賊の見事な施工の秘訣を知るべく、とらえてきた兵士に拷問を加え、あれこれと事細かに吐かせたが、このことが大いに役に立っている。

「儂は間違っておらぬ」

 まじないのように、吾也は繰り返す。いや、まじないそのものだ。道僧が殴られながら謝罪の言葉を繰り返すのと同じように、吾也は道僧を殴りながら、繰り返すまじないによって己の強さと正しさを作り上げてきた。

 力を持つことは正しさだ。

 女真族は強い。ゆえに華北を領有し、圧倒的多数の漢族を支配している。力が緩み、甘さを見せて隙を生ずることがあれば、女真族は他の民族に取って代わられ、またたく間に衰えゆくだろう。そのような惰弱な未来像など、叩き潰さねばならない。

 残虐と罵られようとかまわない。そんな言葉は弱者のひがみと大差ないのだ。

 道僧にもそれを教えてきた。吾也が道僧を殴ると同時に、おまえも拳を固めてみせよと命じた。吾也が笞を執るときには、道僧もまた武器を携えていた。

 憎まれていることはわかっていた。憎しみを糧に力を振るう術を体得すれば、道僧は女真族で最も強い戦士となれるはずだった。

 だが、なぜだ。

「おまえは間違った。決定的に間違いおったのだ」

 吾也は唸る。獣のように唸り、行き場のない苛立ちを掌の中に握り潰す。吾也の節張った手は、己の爪を突き立ててできた傷だらけだった。

 道僧は宋賊にくだった。戦略あってのことではない。帰参の意思もないのかもしれない。二度と道僧と会うことはないのではないか。少なくとも宋賊には、道僧という捕虜を解放しようとする交渉の意思が見られない。

「儂は間違っておらぬ!」

 吾也の擁する五百の兵によって、荒れ狂う水面に浮き橋が架けられていく。吾也は自ら死に物狂いで軽舟の上に馬を進め、兵士の命綱を引っ張って作業の指揮を執る。

 松明たいまつかがりも風雨にあおられ、たちどころに消える。そのたびにまた火をともす。三日間に渡って土山が燃え続けたときには憎くてたまらなかった炎を、吾也は今、焦がれるほどに欲している。

 人手が足りない。撒速のもとには五十万の兵力があるはずだ。徳安戦線に兵力を融通してもなお、二十数万もの大軍を誇っていたはずだ。

 その大兵力が今、ここで何をしている?

 じりじりと時が過ぎる。朝が近付くにつれ、雨の勢いは弱まっていく。

 視界がいくらか晴れてくると、他家の兵力が二百、三百と集まってきて、吾也に協力を申し出た。否、浮き橋が完成すれば我先に脱出しようという腹なのだろうか。

 やがて、ついに浮き橋が成った。吾也は背後を振り返った。撒速の帳幕は無事だ。中洲は未だ宋賊の襲撃を受けていない。

 吾也は正面に向き直った。雨音にまぎれて、正面からけんげきの音が聞こえた。悲鳴が上がる。

「宋賊かッ!」

 吾也は槍を執り、浮き橋へと馬を躍らせた。放たれた箭のように疾駆する。

 小型の戦船が一艘、岸辺の岩陰に停泊している。そこに乗り組んでいたのだろう、三十人ほどの宋賊が、架橋作業の疲労と達成感で立ち上がれない金軍兵士を滅多打ちにしている。

 長柄の斧を手にした男が、突進してくる吾也に相対した。吾也は馬上から槍を繰り出す。斧の男は地を這うように腰をため、一撃を受ける。弾き返す。

 馬が興奮して跳ねた。斧の男は飛びのいてひづめの下から逃れる。吾也はすかさず槍を一閃する。斧の刃が穂先をらす。

 人馬一体となった吾也の攻撃を、斧の男は器用にかわし、いなし、受け流す。のみならず、油断のならぬ目をして反撃の隙をうかがっている。

しゃくなッ!」

 吾也の槍は雨粒ばかりを切り裂く。男が斧をぶん回す。槍で受ける。耳障りな金属音。一瞬、火花が散る。斧の男がひらりと身をかわす。間合いが開く。

「おっさん、大した眼光だな。おっかねえ。一睨みするだけで小子がきの一人や二人、殺しちまえるんじゃねえの?」

 斧の男が挑発的に笑った。

 次の瞬間、吾也の馬が真横から衝撃を受けた。人並み外れた大男が当て身を食らわせざま、馬の首に腕を絡めたのだ。

「おりゃあああああッ!」

 大男が吠えた。馬の首に猛烈な力が加えられた。骨の折れる音と共に馬が引き倒される。

 吾也は鞍上から投げ出される寸前、あぶみを蹴って跳んだ。無様な転倒を辛うじて回避し、地に降り立つ。すかさず槍を振り上げ、狙い澄ました斧の一撃をねのける。

「甘えんだよッ!」

 斧の軌道が蛇のように伸びた。

 吾也は槍を返す。間に合わなかった。

 槍をつかんだままの腕が宙を舞った。

 鮮血が弧を描いて噴き出すのを、吾也は目撃した。右腕ではなく心臓をわしづかみにされるような衝撃に、体が跳ねた。

 吾也は絶叫した。激痛にのたうちながら罵倒してわめき散らす自分がおり、傷口を押さえて止血を試みる冷静な自分もいる。

 転げ回る拍子に、腰に提げた弓が折れた。

 ああ、大切な弓が! いや、右腕がなくては二度と弓を引けないではないか!

 弓は女真族の戦士の誉れだ。宋賊の手に掛かり、この納合吾也は戦士たるほまれを永遠になくしてしまった。

 吾也は死を思った。だが、宋賊はとどめの一撃を加えることなく、さっと吾也から距離を取る。

 何事かといぶかしんだ吾也の耳に、女真語の響きが聞こえた。

「父上! 父上、御助けいたします!」

 道僧、と吾也は初めにつぶやいた。

 いや、違う。必死の形相で手勢を率い、駆け寄ってくるのは、漢族の女の柔らかな顔立ちを受け継いだ、混血の息子だ。

「通古か」

 吾也は体を起こした。激痛を呑み込んだ。体の半分が浮き上がるように軽く、まっすぐな姿勢を保つことが難しかった。だが、吾也は血まみれの手で槍をつかみ、震えながら立ち上がった。

 宋賊が戦船へと撤収していく。父の無残な姿を見て色を失う李通古を、吾也は一喝した。

「遅い! ここはもうよい、撒速様を御救いせねばならん! 中洲の様子を見てまいれ!」

 まだ死なぬ、と吾也は念じた。小児の一人や二人、たやすく睨み殺してしまいそうな眼光が、ひときわ凄絶に燃え立った。

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