十.急行して決戦せよ

 全くの遭遇戦だった。

 趙家軍は馬を駆って漢江北岸を急行していた。霧がたまったくぼを抜けた。その途端、目の前に女真族の騎兵隊がいたのだ。

 趙淳のげきが飛んだ。

ひるむな、かかれッ!」

「おうッ!」

 趙萬年、趙こう、王才らは気迫の声をほとばしらせ、趙淳に応える。

 これが金軍との最終決戦となるだろう。両軍の闘志が早朝のはんに満ちる。冷えた空気が張り詰め、びりびりと、眉間からこめかみに痺れが突き抜けるようだ。

 先刻、敢勇軍から、さつそく率いる騎兵の一群が白河口の中洲を脱したとの報が入った。その数、五百から八百。混乱が相次いだ結果、他の軍勢とは離開した状態にある。

 撒速を討つには、またとない好機だ。

 趙家軍は、騎乗を得意とする三百の精鋭を選び、馬を船に乗せて北岸へ運び、はんじょうの廃墟を発して疾駆した。

 漢江北岸から金領へ至るには、まっすぐ北上する経路と漢江上流域へと西行して北に入る経路、大きく分けて二路がある。金軍はいずれの経路を取るだろうか。

 先頭を駆ける趙淳が山を張った。それが当たった。ばったりと出くわした数百騎の軍勢こそが、金軍の真の中核、完顔撒速とその最も近い腹心たちだった。

 互いに驚愕したのは一瞬のことで、両軍はすかさず散開し、戦闘態勢に入った。

 趙萬年の標的は初めから定まっていた。見えない糸できつく結び合わされたかのように、絡んだ視線が微塵も揺るがない敵手がいた。

「蒲察多保真……!」

 槍をつかみ、馬腹を締めて速度を上げる。激烈な突進の勢いを一撃に載せ、趙萬年は槍を突き出した。

 刃を打ち交わす。互いに弾く。

 再び槍を繰り出す。力任せにぶつけ合う柄が、へし折れそうに音高く鳴る。

 馬体が接近し、接触する。離れ、また激しく衝突する。騎手のみならず馬同士の力比べでもある。馬は額をぶつけ、噛み付き、唸るように低くいななく。相手に飛び掛かろうと隙を狙う。

 趙萬年は旋回した槍を多保真に叩き付ける。刃は標的に届かない。穂先をらされる。趙萬年はすかさず追撃を加えるも、多保真はひらりとかわす。

 槍の技量は趙萬年が上だろう。馬術の技量は多保真が上だろう。趙萬年は攻める手数が多い。だが多保真には当たらない。

 一撃ごとに多保真の槍は鋭さを増していく。

「死ね、趙萬年!」

「やなこった!」

「死ねッ! わたしはおまえを殺さなければ、死んでも死に切れない!」

 思念のこもった痛烈な刺突。

 趙萬年は体をひねって避ける。刃が頬をかすめた。耳のすぐ脇に多保真の槍の柄がある。それをとっに、趙萬年はつかんだ。

 一瞬、至近距離でこうちゃくした。

「放せ!」

 多保真は勢いよく槍を引く。その勢いに乗せて、趙萬年は多保真の槍を突き放した。

 ふわりと、多保真の体勢が後ろざまに崩れる。趙萬年は畳みかける。槍を振り回す暇はなかった。足を伸ばして多保真の馬の首を蹴った。

シャアッ!」

 多保真の馬が均衡を失った。

 短い悲鳴。多保真は投げ出される。ぬかるんだ地面に落ちる。泥水が跳ね上がる。宙を舞った槍が地面に突き立つ。数歩走った馬が結局、どさりと横転する。

 趙萬年は槍を持ち替え、刃を下に向ける。多保真が顔を上げ、趙萬年を睨んだ。

 そのとき、猛然と突進してくる騎兵がある。

「阿萬、危ねえッ!」

 王才である。

 警告に弾かれ、趙萬年も気付いた。金軍騎兵の弓に狙われている。彼らは多保真が趙萬年から離れる瞬間を待ち構えていたのだ。

 なりふりかまわず突っ込んできた王才は、槍を捨ててあぶみを蹴り、趙萬年を目掛けて跳んだ。趙萬年を抱きかかえる。勢いのまま地面を転がる。

 群れを為すが二人のすぐ上を飛んで過ぎる。

 趙萬年は、自分が槍を手放したところまでしかわからなかった。物凄い衝撃があって、上下も天地もめちゃくちゃに混じって、気が付いたら王才の体の上に乗っかっていた。

「おい、元直!」

「……痛えな、くそ。阿萬、無事か?」

「オレは何ともねえけど、おまえ、無茶すんなよ!」

「こんなもん、無茶のうちに入らねえ。しかし、阿萬、やっぱちっちぇえな」

「うるせえ!」

 金軍騎兵の追撃はなかった。どうにか起き上がった趙萬年は、多保真を救った騎兵の群れが泥を蹴り上げながら去っていくのを目撃した。

 別の方角から、穏やかな馬蹄の足音が近寄ってきた。

「大きな怪我はしていないか?」

 騎乗の人物は道僧だった。両の手首は体の前で革紐によって戒められているが、その手で器用にも、二頭のからうまの手綱を引いている。趙萬年と王才がそれぞれ乗っていた馬だ。

 趙萬年は道僧から手綱を受け取りながら、赤い傷の走る顔を見上げた。

「おまえも付いてきてたんだな」

「仲洌殿に無理を聞いてもらった。女真族の姿を目にするのはきっとこれが最後になるから、と」

「あの仲洌が、よく許可してくれたな」

「金軍の誰にも声を掛けぬこと、知人の目に決して触れぬようにすることを条件に、許可してくれた。先程、兄が父を連れて去っていくのを見た。多保真も大事ない様子で、北へ帰っていった」

 道僧は微笑んだ。その両眼に涙が光っているのを見なかったことにして、趙萬年は馬にまたがった。「痛え」とうめきながら起き上がった王才も馬上の人となる。

 決戦は最後の展開を迎えていた。

 かんの音が鳴りやまない。ただ一組の一騎討ちに、誰もが息を呑み、目を惹き付けられている。

 黒毛の馬を操る撒速がえんげつとうを打ち振るう。対する趙淳もまた偃月刀でこれを受け、赤毛の馬を躍らせる。

 唸りを上げる刃が朝日の光を切り裂く。

 甲高い金属音。火花。馬蹄の響き。跳ね上がるでいねい

 れっぱくの気勢がほうこうのように戦士の口から奔出する。黒と赤の馬の軌道はもつれ合い、縦横無尽に二振りの偃月刀は乱舞する。

 趙淳の頬と肩に血の色があり、赤い馬の尻には箭が刺さっている。撒速の姿を見出した趙淳は、女真族の騎兵による護衛の只中を突っ切って、黒馬の敵将に斬りかかったのだ。

 組んずほぐれつの一騎討ちとなれば、周囲は弩や弓を有効に使うことができない。未だ戦場から離脱せずにいる金軍騎兵は趙淳に狙いを定めようとするが、それでは撒速にまで弓引くことになる。

 撒速はわずかの間に汗みずくになっている。だが、にたりと笑った。

「趙伯洌! 貴様さえいなければ、我らが金軍は襄陽を落とすことができたであろう。さすれば、たびの戦の勝利を完全なものとすることができたのだがな。しぶとい男めが!」

 豪速の斬撃が趙淳を襲う。趙淳はこれを真っ向から受け、弾き返す。

「しぶといのはあんただろう! 五十の坂を越えた爺さんとは思えねえ腕だ」

「儂があと十年若ければ、おぬしの首は、とうに胴体と泣き別れよ」

「仮定の話など無意味!」

 趙淳は攻める。攻めて攻めて撒速の疲労を誘う。既に撒速は息が上がっている。趙淳の必殺の気迫を込めた一撃が、また一撃が、そのたびごとに着実に撒速を追い詰める。

 趙萬年は呼吸も身じろぎも忘れて戦いの行方を見守っていた。大哥あにきは勝つはずだ、誰にも負けるはずはない。そう信じている。願う気持ちにも似ている。

 風が吹いた。北の空から叩き付けるような、乾いた突風だ。

 戦場を支配する空気がせつ、変化する。

 防戦一方だった撒速が、動いた。偃月刀を横ざまに構え、刃を返した。研ぎ澄まされた刃の面に朝日の白い光が映り、跳ね返って趙淳の目を襲う。

 趙淳が低くうめく。撒速が横ぎの一撃を放つ。趙淳がのけぞりながら攻撃を防ぐ。

 趙淏が、じっと戦況を見据えていた趙家軍ふくすいが、その瞬間に馬を駆って飛び出した。趙淏の手にあるのは武器ではなく、大きな木牌たてだ。

 撒速が趙淳を目掛けて偃月刀を投じた。趙淳が目を見張る。ものを振るって打ち落とす。予想外の攻め手に焦りがにじんだ。急いで体勢を立て直す。

 だが既に遅い。撒速は弓を構え、箭を番えている。

 女真族の騎射は速い。そして狙いは違わない。

 箭が放たれる。

 紙一重の差で趙淏が割り込んだ。木牌たてに箭が突き立った。

 もう撒速は馬首を返して走り出している。遅れじと、金軍騎兵が撒速に倣う。

「待て!」

 趙淳は叫んだ。撒速は馬上で振り返る。手綱など取らない両手は弓と箭とを構えていた。撒速は笑みと共に、言葉の代わりに箭を放った。

 たん、と小気味のよい音を立てて、趙淏の木牌たてに箭が刺さった。ばねがこすれ合うほど、二本の箭は接近している。

 金軍の騎影が遠ざかっていく。

 趙萬年は息を吐いた。呪縛が解けたように再び動き出した体は、無意識のうちに弓を執り、箭を執った。弓を起こし、弦にはずを噛ませる。

「やめろ、阿萬!」

 趙淳の声が趙萬年を打った。

 撒速がまだ射程圏内にいる。騎行の後ろ姿は振り返らない。趙萬年は射てしまいたかった。やめろ、と趙淳が繰り返した。趙萬年は、だから射ることができなかった。

 金軍は遠ざかる。弓の射程から外れ、次第に遠ざかり遠ざかり遠ざかって、視界から消えた。

 王才が、勝った、と、つぶやいた。噛み締めるように、勝った、と、もう一度つぶやいた。

 趙萬年は、箭を番えた弓を下ろせずにいた。体が震えている。恐怖とは違う、興奮とも違う何かが体の奥から湧き起こって、じっとしていられない。

 これが終わりなのか。たくさんのものを得て、それ以上にたくさんのものを失った戦が、今この時を以て本当に終わったのか。

 感情が、衝動が、体の中で暴れた。趙萬年は叫んだ。腹の底から叫んで、泣きわめくように叫んで、声の限りに叫んで、馬首を巡らせる。眼前に漢江が横たわっている。

 趙萬年は箭を射た。

 ありったけの力を載せた箭は青空に向かって飛び、弧を描いて水面へと吸い寄せられていった。水音は聞こえなかった。

 春めく風がはんを渡った。木々を奪われた山に緑は萌え吹かず、なおも冬が続いていくかに見える。

 水面では、小さな波が日の光を浴びて、無数の宝玉がきらきらと産まれては消えた。夜通し降りしきった雨をも呑み込みながら、漢江は澄んだ水をたたえて、悠然と流れている。


【了】


BGM:大黒摩季「熱くなれ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

守城のタクティクス 馳月基矢 @icycrescent

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ