七.イストワール

 夜明けの木陰の下にあって、多保真はおのずから輝きを発するかのようだ。

 羊の毛から成るせんの上着は、鮮やかな赤色。乗馬に適するよう身頃は引き締まり、すそは正面と両脇に切れ目が入った形をしている。その上着にも帯にも、すらりとした両脚を包むや履き口の浅い靴にも、さりげなくも見事なしゅうほどこされている。

 多保真は馬を進め、透き通るように光る朝日の中へと歩み出た。

 着物の赤色に映える白い肌と、騎行のためにうっすらと上気した頬。しなやかな柳眉と濡れたような瞳は気品と野性を兼ね備え、森の王たる女真族の貴種にふさわしい美貌だ、との呼び声が高い。

 道僧にとって、同い年の多保真は幼なじみの一人だった。ただし、あまりにも貴い家柄の御嬢様で、おいそれと近寄ってはならない相手だった。

 多保真の家、蒲察は、王妃の家系として知られる。王の家系であるかんがん家の婚家として大昔から定められているのだ。

 道僧はずっと、多保真も完顔家の誰かと結ばれるものと思っていた。それがどういう風の吹き回しか、漢語の読み書きが同年代の誰よりも得意だった道僧のことを多保真がいたく気に入り、納合家ならばまあよかろうと完顔家の御墨付きが下りたのが十三の頃だ。

 物心つく頃からの長い付き合いである。多保真は確かに美しいが、もはや見慣れてしまった。今さら見惚れたりなどしない。

 そんなふうに、道僧は思っていた。ほんの三日前まで。

 三日前、父にさんざん打たれた後のことだ。多保真が、ふと風のように動いた。

 わずか一呼吸分の触れ合いの隙に、道僧の心は強く強く揺さぶられた。多保真が道僧に口づけをした、ただその短い時間の出来事ひとつで。

 多保真の唇は、とろけそうに柔らかだった。血の気の引いた道僧の唇よりも温かかった。

 道僧は口づけの感触を思い出し、急激な胸の高鳴りを覚えて、多保真から目をらした。そっぽを向いてようやく、またしても多保真の美しさに見惚れていたと気が付いた。

 多保真は道僧の横顔に言った。

「あまり心配させないで、道僧。肩の痛みはどう?」

「大事はない。追ってきたのはそれを尋ねるためか?」

「八割方、そうね。怪我を負った許嫁いいなずけが一人で姿を消したと知ったら、心配になって探すものよ。当然でしょう?」

「残りの二割は?」

「わたし自身、皆の前から姿を消したくなったの。だって、いついかなるときにも護衛や従者や女中が付きまとっているのよ。こんな有り様では、中都で過ごすのと大差ないわ」

「それこそ当たり前だろう。君は、あの蒲察家の御令嬢だ。当世の女真族で一番、ひいては金国で一番の佳人であるとも噂される。護衛がなくては危うくて仕方がない」

「ありがとう。こんなふうに率直な言い方をしてくれるのは、道僧だけよ。まわりの皆は違う。大事にしているというより、腫れ物を扱うような態度だと感じてしまう」

「女だてらに剣や刀を習い、戦に付き従いなどするからだ。私が帰るまで、中都でおとなしく健やかに待っていてくれたらよかったのに」

 多保真は、ため息をつくような笑い方をした。

「わたしを危うい存在だと言いながら、護身術を磨くことに異議を唱える人ばかり。わたしは、ただ守られるだけの御嬢様ではいたくないのに」

「そういうところが危ういのだ。何にでも首を突っ込もうとする」

「あら、女真族の女は、勇気を出すべきときには危険をかえりみず困難に飛び込むものよ。昔、父祖の地にそびえる霊山、長白山が炎の悪魔に侵されて噴火したとき、勇気ある乙女が氷柱つららの剣を抱いて火口に飛び込み、悪魔を打ち倒して平穏を取り戻した」

「伝説の時代の出来事だ。現在の、現実の戦をそれと同等に扱うのは、話が飛躍している」

 道僧が多保真に向き直り、さらに小言を垂れようとしたときだった。

「姉上、どちらにいらっしゃいますか?」

 少し遠くから、多保真を呼ぶ声がある。くすくすと多保真は笑った。

「わたしの護衛がようやく追い付いたようね。とく寿じゅ、こちらよ!」

 多保真の弟、蒲察徳寿も道僧の幼なじみだ。一つ年下で、十七歳。地位は生まれながらにしてばんであり、この戦を終えて中都に戻れば、朝廷でなにがしかの役職を務めることが決まっている。

 徳寿が白馬を歩ませて木立の向こうから現れた。姉とよく似た繊細な美貌には、ほっとしたような笑みが浮かんでいる。

「姉上、張り切りすぎです。僕まで置いてきぼりにするなんて、ひどいですよ」

「あなたがのんびりしすぎなのよ。生粋の女真族の男が馬術と弓術で女に敗れるようでは、面目が立たないのではなくて?」

「そんなことをおっしゃっては、女真族の騎兵隊の九割が顔を上げて外を歩けなくなってしまいます。姉上より馬と弓が共に優れる戦士など滅多におりません」

「その類まれな戦士の一人が、こちらにいらしてよ。わたし、このかたには武芸だけでなく、学問でも一つも及ばないの。悔しくてたまらないわ」

 悔しいと口では言いつつも、多保真の流し目はいたずらっぽく楽しげだった。道僧は気まずくなって咳払いをし、馬上で徳寿に敬礼しようとしたが、徳寿がそれを制した。

「もうすぐ僕の兄となる人から、目上の者に対する礼など受けられませんよ。いえ、戦が起こらなければ、既にあなたは僕の兄になっていたはずです。まさかばつそうの軍が興されるまでに事態が発展するとは思いもしませんでした。嘆かわしい限りです」

 道僧は苦々しく吐き捨てた。

「もとより金と宋は八十年前に仲を違えて以来、かりそめのゆうが結ばれていたに過ぎなかった。この四十年余りは、表面的には穏やかな情勢が続いていたが」

 宋の国境侵犯が目立つようになったのは、二年ほど前の冬のことだった。金は自衛に徹した。金の北では、モンゴルという外敵が急速に力を付けつつある。宋の嫌がらせに兵を回したくなかった。

 事態が急変したのは半年余り前の初夏だ。宋の嫌がらせが度を越した。宋のじょうしょうかんたくちゅうが己の権勢の拡大を狙い、宋国人の悲願である「父祖の地の回復」を掲げて、子飼いの兵力を金領内へと差し向けたのだ。

 宋が何としても取り戻したい場所とは、かいほうを中心とする黄河中流域の一帯、華北だ。開封府は本来の宋の首都である。八十年前、金がこれを奪い、宋をわいの南へと追いやった。

 金はそのとき、無意味な強奪を為したのではない。宋にこそ不義があった。宋は約束を破ったのだ。首都の強奪と皇帝や皇族の拉致は、当然のむくいだった。

 宋が開封府を中心とする華北にあった頃、きったん族のりょうが豊かな華北を狙って宋に圧力をかけていた。宋は、はるか北方の森のそばに都を築いた女真族の金に協定を持ちかけた。

 力を合わせて遼を討ってくれるならば、宋は金に土地を分割し、年俸を授け、国の拡大を手助けしよう。隣国のよしみだ。共に栄えようではないか。

 金は、狩猟の民のひょうかんな騎兵戦術によって遼を討った。すると、宋は、唐突に態度をひるがえした。

 宋は遼を呼び戻し、金の後背を襲わせ、協定で約束した土地を奪い返した。

 金の王族は愕然とし、次いで激怒し、全兵力で以て華北へ攻め込んだ。彼らは容赦しなかった。華北の城市を次々と陥落させ、宋軍を撃破し、ついには開封府を奪ってじゅうりんした。

 宋は南へ逃れた。騒乱は繰り返され、岳飛を筆頭とする宋の軍閥に金は苦しめられたが、膝を屈するわけにはいかなかった。やがて岳飛は朝廷内のいさかいによって死に、金と宋の間に和議が結ばれる運びとなった。

「和議か。宋国人の辞書にある和議とは、我々の認識するそれと大いに異なる」

 思いを巡らせた道僧は、我知らず嘆息した。

 多保真が凛とした声で言う。

「わたしたち女真族の胸には、初めから、八十年前の憎しみがあるのよ。あのとき、わたしたちの祖先は、義を曲げる宋を許さなかった。このたびの伐宋も同じだわ。義のない者を許してはならない」

 義とは何か、と道僧は胸中で問うた。声には出さなかった。

 戦に義などあるものか。どちらの軍勢も人を殺すのだ。人殺しに義が認められてよいはずがない。

 道僧は眼下の景色を脳裏に焼き付ける。まもなくこの景色は破壊されるだろう。漢江の流れは人の血と炎の赤色に染まり、さいの築かれる野と山は常緑の木々を失う。

 厳然として建つ襄陽のまちさえ、粉微塵に砕け散るやもしれない。

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