二.シャグラン

 攻城兵器が群れを為して襄陽へと向かっていく。車輪の回るごりごりと硬く重たい音に、それらを押し転がす幾万の歩兵の息遣いと呻き声が重なって、はんの大地は騒然たるものだ。

 街道という街道には引きも切らず、投石機の行列が伸びている。道幅を超えるほどに巨大な、動く砦のどうしゃは、街道沿いの木を伐り払い、草を踏みしだいて進む。

 血のように赤い夕日に照らされ、大地には異様な形の長い影が数多あまた、折り重なってうごめいていた。

 道僧はつぶやいた。

「まさにもうりょうだな。戦場にあっては人間でさえ化け物めいているが、その化け物を簡単にひねり潰す道具が、あれらだ」

 ばんざんの東面で最も見晴らしのよい崖がここであると、道僧を案内したおうが言った。徳寿に召し抱えられていた元捕虜の王虎は、半日も経たぬ間にげっそりと顔付きを変え、幽鬼のようにたたずんでいる。

 徳寿が殺されて、その夕刻だ。訃報が対襄陽戦線のすべての寨を駆け巡るや、即座に総攻撃の準備が始められた。明日の朝、日が昇れば、金軍は襄陽を正面から攻める。

 道僧は今、蒲察家の寨に滞在している。取り乱したしんを落ち着かせることができるのは、道僧を置いてほかに誰もいなかった。ゆえに、周囲がてんてこ舞いになって戦支度をする間にも、道僧は多保真の帳幕から離れられずにいたのだ。

 多保真は先程、泣きわめくことに疲れ果てて眠りに落ちた。張り詰めた糸がぷつりと切れたかのようだった。暖かな季節を迎えるまでそのまま眠っていてくれてよいのに、と道僧は思う。その頃になれば、戦は終わっているはずだ。

 道僧は深く息をついた。

 趙萬年に予告した通り、金軍が徳寿の死を受けて黙っていないことは、道僧にもわかっていた。だが、いざ事態が大きく動き出したことを目の当たりにすると、あんたんとして恐れずにはいられない。

 王虎が控えめに声を掛けた。

「あの……納合たいろう

 納合家の坊ちゃま、と王虎は道僧を呼んだ。武人だが礼儀正しい男だと、徳寿が王虎を誉めていたことを思い出す。

「何だ?」

「風が吹いております。御体が冷えましょう」

「このくらいは寒いうちに入らん。今ここにある景色を記憶に焼き付けておきたいのだ。襄陽が万全の形を保っているのは、今日が最後かもしれない。万物は壊れ去るものだから、せめて記憶の中にだけでも留めておきたい」

「同じことをおっしゃるのですね」

「同じこととは?」

令郎ぼっちゃまがおっしゃっていました。襄陽の冬は暖かい、と。ここから見る景色も毎日少しずつ違うから毎日見ておきたい、と」

 道僧は、痩せた漢族の男に向き直った。王虎は苦しげに顔を伏せた。頭頂で結い上げてまとめ、布でくるんでかんざしで留めた髪は、白いものが多く交じっている。

「そなた、年齢は?」

 唐突に知りたくなった。敵軍の捕虜となり、後には敵軍の一員となることを選んだ男の人生に触れてみたくなったのだ。

 王虎は答えた。

「三十八でございます」

「宋では、統領という役職に就いていたと聞いたが」

「はい。五百名ほどの軍を指揮しておりました」

「その軍は私兵か? それとも、襄陽で結成されたような義勇軍か?」

「私兵です。父から譲られた傭兵団です。小生の郷里は国境沿いの小さな城市で、流れ者が多く、厄介事もまた多かったのですよ。小生は、若い時分には地方役人でよいから文官として出世しようと勉学に励んだものですが、結局は武人のまま」

「徳寿はそなたを気に入っていた。徳寿なら、そなたが望む通りの仕事を認めてやったに違いない」

「勿体ない御言葉です。小生は一度死んだも同然の身であります。この命など、令郎ぼっちゃまのためにいつでもなげうつ覚悟でしたのに、あのような……」

 王虎は声を詰まらせた。じゅうの胸をつかむ拳が震える。

 道僧は不意に王虎の苦しみを理解した。

「そなたが己を責めずともよい。確かに徳寿はそなたが臣従を誓ったことを喜んでいた。宋に生まれた者ともわかり合えると主張した要因の一つとして、そなたの存在があっただろう。だが、そなたが徳寿を殺したわけではない」

「しかし……しかし、小生のせいだと思わずにはいられないのです。小生は令郎ぼっちゃまのおかげで命を拾いました。ほかならぬ令郎ぼっちゃまのためであればこそ、故国を裏切るという恥をも受け入れて生きようと……この命を令郎ぼっちゃまに捧げる所存でありました。それなのに!」

「生きてくれ。恥などと言わず、これからも生きて、徳寿を思って働いてほしい。徳寿を死へと追い詰めた責任は、きっと私が負うところが大きい。迷いだらけの私は、徳寿と正面から語り合うことができず、徳寿を孤独にしてしまった」

 王虎は歯を食い縛ってきつく目を閉じた。えつと涙は消し去りようもなくあふれる。

 徳寿がここにいるならば、清らかに微笑んで王虎の肩を抱き、暖かい場所へ行きましょうと促すだろう。今、道僧が代わりにそれを為せば、王虎の心はなぐさめられるのだろうか、それともさらに傷付いてしまうのだろうか。

 道僧はもう一度、攻城兵器がひしめく夕景を見やり、それから体ごと振り返って、暗がりに沈みつつある木立のほうを向いた。

「のんびりしてもいられん。多保真の様子をうかがったら、私も襄陽へ行く。そなた、私の馬の支度をしておいてもらえないか? いや、蒲察家に属するそなたに私が頼むのは筋違いかもしれんが」

 王虎は黙ってかぶりを振り、抱拳の礼をした。道僧が歩き出すと、ひっそりと付き従う。

 蒲察家の寨には幾度も訪れているから勝手知ったるものだ。納合家の寨と比較すると、やはり立地がよい。納合家の本陣からも襄陽方面に向けて開けた景色が望めるが、蒲察家のそれには及ばない。寨を置く場所には家格が反映されるのだ。

 いや、家格云々を言うのなら、納合家が萬山に寨を置けること、それもずいぶんとよい席次を与えられていることは、いささか番狂わせだ。道僧が多保真と婚約しており、徳寿とも仲がよいためだと、口さがない者たちが噂を立てているのを、当の道僧も知っている。

 多保真は帳幕の中で眠っていた。顔を見たかったが、三人のとしかさの侍女たちは頑として道僧を帳幕に入れなかった。

「彼女が眠るまで、帳幕の中でなだめてやっていたのは私なのだが」

「それはそれ、これはこれでございます! 道僧様はいまだ多保真様の夫ではございません。礼節は守っていただきます」

 女だてらに戦の野営地に付いてくるだけあって、侍女たちも肝が据わっている。利かん坊を叱るようなやり方で追い払われながら、道僧は少しだけ心が晴れるのを感じた。

 多保真には、支えてくれる味方がいる。今はまだ絶望に心をふさがれていても、多保真は必ず、弟を亡くした苦しみからしなやかに立ち直ってくれるに違いない。

 道僧は納合家の寨に戻るべく、馬場に向かった。王虎は既に、道僧の愛馬の支度を終えていた。道僧が礼を言って王虎が静かに頭を垂れたとき、逢魔が時の薄闇の中、からの急使が駆け付けた。

「道僧様、今すぐに出立し、ほうおうざんへいらしてください」

「鳳凰山とは、襄陽の南にある山だな?」

「はい。さつそく様の本陣が鳳凰山に置かれています。撒速様から直々の御呼び出しです。道僧様、すぐに鳳凰山へ。吾也様もそちらにいらっしゃいます」

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