三.オードゥヴィ

 夜気を隔てて頬に触れるかがりの光が、はっきりと熱い。道僧は額から伝い落ちる汗を拭い、さつそくの前にひざまずいた。吾也は撒速の傍らに、従者とも客人ともつかぬ距離で座っていた。

「御待たせいたしました、撒速様。私、道僧、只今到着いたしました」

「堅くならずともよい。今日は何かと慌ただしかったであろう。呼び立てて、無理をさせたか」

「いえ、じっとしているよりは、動き回りとうございます」

 早馬を飛ばす間に喉が干上がっていた。唾を呑み込んでみるも渇きは癒えず、道僧は小さく咳をする。

 撒速は、敷物の上にじかに置いた袋を手に取った。牛のはらわたを乾燥させて作った、酒を入れるための袋だ。それを道僧に差し出す。

「飲むがよい」

 従者の手を経て、袋は道僧のもとへ運ばれた。受け取った道僧は困惑した。これでは礼儀も何もあったものではない。吾也の刺すような視線を感じる。

 撒速は楽しげに、ひそかな笑声を立てた。

「堅いのう。何度言わせるのだ、道僧? 飲め。馬を駆って体も温まったはずが、相変わらず血の気の引いた顔をしておる。飲んで温まれ。話はそれからだ」

 道僧は、うなだれるように礼をした。

「かたじけなく存じます」

 天地の神に謝した後、酒の袋に口を付ける。乳酪から精製した白色の酒は、とろりとした口当たりの後、じりじりと喉を焼きながら胃の腑へ滑り落ちた。空の胃の腑がもだえ、熱が全身に染み渡る。

「美味いか?」

「はい」

「おぬしは今、己が考える以上に疲れておる。状況が状況ゆえ、ゆっくりと休む間を与えることはできぬが、酒の力を借りることくらいは大いに許してやれる。飲め。疲れて冷えたはらを温めろ」

「……はい。ありがとうございます」

 道僧は酒をあおった。むせ返りそうにきつい酒精が、かえって心地よい。口の端から一筋、冷たく熱い酒がこぼれた。それを拭いもせずに、急に感じた空腹を満たすように、道僧の喉は酒を求めた。

 撒速は道僧の様子に目を細め、おもむろに本題を切り出した。

「明日より、我らが金軍は大いなる愚行に取り掛かる。城攻めは下策中の下策よ。通常の城市でも、敵の五倍の兵力があって初めて囲むことが叶い、十倍でようやくまともに戦えるという。しかし、襄陽を見よ。城壁のみならず、漢江と濠によっても守られておる」

 吾也が撒速の言葉を受け、続けた。

「襄陽の北面に広がる漢江は致し方ありますまい。残る三面の濠は、いかだを渡せば城壁にたどり着けましょう。あるいは、いっそのこと濠を埋めてしまうか」

「内側から瓦解する見込みはないのだな?」

「私の放った間者が探ったところでは、襄陽の結束は固うございます。情報をかくらんして兵心の離反を促そうと試みましたが、いずれの策も見抜かれた様子。戻ってこぬ間者もおりますれば、ちょうじゅんという男をあなどってはなりませぬ」

「なるほど。やはり、愚直な正攻法を採るよりほかにあるまいて。しかし、襄陽には今、二万五千を超える兵民が籠城しておる。包囲を続ければ、じきにりょうまいも尽きよう。その期日が三箇月先になるか半年先になるか、ちとわからぬが」

 道僧は熱い息を吐き、口元を拭った。

ひょうろう攻めをなさるのですか? 襄陽に立てこもる者の半数以上は、戦う力を持たぬ民草であると聞いておりますが」

の民をも巻き込む作戦は、嫌か?」

 道僧は口を開いた。声を発しようとした喉は、しかし、すぼまって詰まった。吾也の視線が道僧を射たのだ。道僧は唇を噛んだ。

 吾也が言った。

「暑熱の季節が訪れれば、北方の気候に慣れた我々には不利となりましょう。せめて春が終わるより前に決着を付けたいものですな」

「今が晩冬、十二月の初めだ。年が明けて春が来れば、三月までのうちに片を付けよと、おぬしは申すか」

「長期の野営となっては、兵たちの士気も次第に衰えます。既にして、時に宴を開き、捕虜の女をあてがうなどして鬱憤を晴らさせておりますが、所詮は一時しのぎ。兵器を用いての攻城を決行する上は、すみやかに襄陽を落とし、滅ぼさねばなりますまい」

「滅ぼすとな。おぬしは昔から変わらぬ。厳格で苛烈だ。頼もしい男よ。のう、道僧?」

 水を向けられた道僧は、まず喘いだ。そして迷いながら、途切れがちに問うた。

「不勉強な質問をいたしますこと、御容赦ください。想像しかねるのです。如何いかにすれば、三十丈(約九十三.六メートル)もの濠を踏破し、二丈六尺(約八.一メートル)もの高さを持つ城壁を制して、城内に攻め入ることができるのでしょうか?」

 吾也が唸り声を漏らした。これに続くであろう罵倒の言葉を思い、道僧は身構えた。が、撒速がちらりと手を掲げて吾也の発言を封じ、自ら道僧の問いに答えた。

「おぬしの疑問は当然のものだ。濠は広く、また深くもある。襄陽は水に守られた城、と事前に重々聞かされてはおったが、実際に目にするまでは、その難攻不落ぶりを思い描くことなどできなんだ」

「取りそろえた攻城兵器のうち、最も多いものはうんていです。これは城壁にはしを架けて、直接乗り込むためのもの。城壁の傍らまで車輪を押し転がして進むことができなければ、用を成しませぬ」

「左様。ゆえに、濠に橋を架けるための木材や竹材、濠を埋め立てるためののうも前線へ運んでおる。筏もいくらか用意してあるが、濠の上に乗り出せば、真っ先に襄陽軍のせんだんの餌食となろう」

「より安全に濠を渡る策はないのでしょうか?」

「ない。そんなものが思い付くならば、千七百年の昔に孫子が説いた兵法を根本からくつがえし、新たな時代の大軍師と持てはやされるぞ」

「では、たびは数による勢いを信じて強引に押し切るしかない、と?」

「そうだ。投石機の砲撃とて、たちどころに分厚い城壁を破壊するほどの威力はない。濠を隔てれば、なおさら有用性も落ちる。だから道僧よ、下策と言うておろう。より確実な手段があるならば、申せ」

 道僧は目を伏せた。酒精のために、視界がじわりと熱い。毛を染めてこごらせた敷物の模様が、いやに近くに見えた。

 撒速の居所に不用意に近付く者はいないものの、鳳凰山の寨は全体として騒然としている。攻城兵器の運搬を終えた兵士が寨に帰還し、明日に始まる総攻撃を話題に語り合っては興奮を高めているのだ。

 襄陽の西の萬山から西南の華泉殻を経て、東南に広がる漁梁平、東は漢江流域に点在する渡し場や中洲の要所まで、金軍は数珠つなぎに寨を築いている。その各方面から襄陽の濠のほとりへ運んだ攻城兵器は、出来上がった状態で金から持ってきたものだ。

 各々の寨で新たに攻城兵器の製造がおこなわれている。まず、濠を一挙に渡り切る長さの巨大な梯子の作成が試みられた。が、三十丈(九十三.六メートル)も木材を継いでは重すぎて動かせず、強いて運ぼうとすれば自重によって半ばで折れてしまう。

 では、濠を渡らずに城壁を破壊できないか。そこで考え付くのは投石機の威力を高めることだったが、これも実現は不可能だった。

 投石機で砲弾をとうてきする仕組みには、の原理を用いる。台座に支えられた腕木は、片方に砲弾を引っ掛けるための革袋が提げられ、反対側からは数十本の引き縄が伸びている。引き縄を引くことで腕木を撥ね上げ、砲弾を投擲するのだ。

 現存する最大の投石機は、二百五十人ほどの砲手が縄を引き、百斤(約六十四公斤キログラム)の砲弾を飛ばすものだ。これ以上の大型化は、木材の強度や一台あたりの砲手の数などの制限を受けるため、不可能だと言われている。

 道僧は目を上げた。撒速は、出来の悪い学生の回答を待つ鷹揚な教師の顔で、薄く微笑んでいた。

「撒速様、私には何も思い付きませぬ。間者を城内に潜り込ませて隙をうかがいながら、正面から攻めるよりほかには、やはり道はないと考えます。徳寿のやり方も、間違いではなかったにせよ、あまりに稚拙でありました」

「徳寿か。惜しい若者を亡くした。この戦が終わって都に帰参すれば、皇帝陛下の御息女を徳寿とめあわせることが決まっておったのだが」

「それは、初耳です。徳寿が陛下の娘婿に……祝ってやりとうございました。徳寿ならば、の地位の重圧に押し潰されることなく、政を取り仕切る職務も全うできたことでしょう。目の前で死なせてしまったことが悔やまれてなりませぬ」

 撒速はうなずいた。

「まことに残念であった。遅かれ早かれ徳寿は戦死するのではと想定しておったが、わかっていてなお徳寿の死は残念だ」

 道僧は耳を疑った。頬に熱を運んだ酒精が、いちどきに冷めて消え失せた。

「想定しておられた? 徳寿がここで死ぬ、と?」

 撒速はまたうなずいた。鷹揚な教師の笑みを顔に浮かべたままだ。

「この戦に当たって、儂は幾十もの道筋を想定した。正直に申せばのう、道僧、おぬしか徳寿か多保真か、三人のうちのいずれかが殺害されて総力戦の引き金になる可能性は高いと考えておったのだ。おぬしらはどうにも危ういゆえに」

「危うい……」

「美しい理想は尊い。なぜ尊いか。たやすくは叶えられぬからだ。戦の起こらぬ世であっても、善良であり続けることはきわめて難しい。ましてや、ここは戦場ぞ。美しいままでいられようはずもない。汚れるか、さもなくば死するか。道僧、おぬしはどちらを選ぶ?」

「御待ちください、撒速様、徳寿の危うさをわかっておられて、そんな……それでは、なぜ、御止めくださらなかったのです?」

「儂が命ずれば、いくら徳寿や多保真とて危うきには近付かなんだろう。儂はえて止めなかった。そして徳寿の訃報を耳にするや、すかさず総攻撃の命を発した。全軍、攻城の準備に抜かりはなかった。発令より以前に、支度は整っておったのだ」

 きっかけがあればすぐにも襄陽を攻められるよう、金軍に通達が行き届いていた。その事実を、撒速は告げたに過ぎない。

 しかし道僧は、言葉の裏に一本まっすぐに通った物語の存在に胸を抉られた。物語は、撒速が描いたものだ。

「徳寿を好きに振る舞わせて、殺されると予測しながら……徳寿の死を、宣戦布告の名目として利用するために……」

 口の中だけでつぶやいた。己の言葉をはんすうし、目眩めまいに襲われる。

 撒速の耳に、道僧の声がしかとは届かなかったようだ。どうした、と問われる。道僧は吸い寄せられるように撒速の目を見つめている。

 言葉が聞こえずとも、撒速はきっと道僧の胸中をすべて把握している。

「儂を見損のうたか、道僧よ?」

「……いえ。ようなことは、決して」

 道僧は身震いした。撒速が笑いながら命じた。

「飲め、道僧。飲んで体を温めよ。明日は早いぞ。体を温めて眠り、戦に備えよ。余計なことを考えるな。さもなくば死ぬぞ。おぬしの目の前で首級を刈られた徳寿のように」

 道僧は、視線を撒速から引き剥がすように礼をした。

「御心遣い、痛み入ります」

 酒の袋に口を付ける。柔らかな舌ざわりの酒は、びりびりと強烈な熱を伴いながら五体に染み入ってく。

 道僧は長い長い息を吐き出した。全身に熱は戻ってきたが、酔いはついぞ訪れない。

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