四.戦って守れ

 太陽がその日最初の一閃を漢江はんの大地に投げ掛けると、無数のきらめきがびっしりと濠の対岸を覆っているのがわかった。

 急激に明るさを増す視界に思わず目を細めた趙萬年は、きらめきの正体を理解して呻いた。

 やじりだ。弩に番えられたが既に城壁を狙っている。

「多いな。十万じゃ利かねえだろ、あの歩兵の数」

 つぶやいたのは、王才だ。趙萬年の同じく城壁の東南角に配置され、弩を手にしている。

 趙萬年はうなずいた。

「歩兵の数もだけど、兵器の数を見ろよ。投石機に洞子に鵝車に雲梯、大竹で造った巨大な盾もあれば、牛の皮をつないだすだれで箭を防ぐ構えもしていやがる」

「ああ、あの防御は厄介だな。歩兵の最前列はでかい木牌たてで弩兵を守ってるし。阿萬、この距離でせんを放って、てられるか?」

「四十丈(約百二十四.八メートル)か。やってみる」

 王才の向こう側で、りょすいが笑った。吐き出された息が白く漂って消える。

「あんたたち、震えてんのかい?」

「ふん、武者震いだ。元直はどうだか知らねえが」

言え。俺だって、ぶるってやしねえよ。敵陣に殴り込みをかけろって言われたら、いつでも行ってやる」

「おや、威勢のいいこった。なるほどねえ。まだ若いのに、二人が陣頭に突っ込まれてる理由がよくわかったよ。伯洌将軍の義弟で武芸の腕が立つってだけじゃなくて、その度胸のよさが趙家軍を励ますんだ」

すいえい、オレと元直をひとまとめにすんなよ。しかも、また小子がき扱いしやがって」

 趙萬年は鼻にしわを寄せるようにして王才と旅翠を睨み、南の濠を見やった。宋と金、両軍がじっと注視する中で、一艘の船が襄陽を出て対岸へと渡っていく。

 船に乗っているのは、襄陽軍が捕虜としていた金軍の兵士たちだ。彼らのうち最も地位の高い士官の手には木箱がある。徳寿の首級を入れた木箱である。

 虚空を見つめたままの首級は、初めからその姿で作られた工芸品であるかのように、ぞっとするほど美しかった。血や汚れを拭ってやると、眉間に開いた傷がより凄絶に際立ち、趙萬年は目が離せなくなった。

 互いに信念のままに戦って、徳寿は死んだ。殺したことを詫びてやるつもりは、趙萬年にはない。

 けれども一つだけ、趙萬年は美しい少年の首に謝った。髪を編み直してやれなかったことだ。乱れっぱなしでは格好もつくまいと思ったが、どうしようもなかった。

 捕虜が携えた徳寿の首級が金軍に渡れば、沈黙の時は終わりを告げ、華々しく戦闘が開始されるだろう。濠を挟んだ両軍は共に、息を詰めてその瞬間の訪れを待ち構えている。

 趙萬年は、長いと感じた。待つことに焦れた。弩を握る掌にじっとりと汗がにじんだ。

 やがて、ついにその瞬間が訪れる。

 船が接岸し、捕虜が自軍へと帰り、首級の木箱が陣頭に至った。金軍のしゅかいさつそくの姿はない。また別の、初老とおぼしき女真族の武将が木箱を受け取り、陣頭で何事かを言ったようだ。襄陽軍まではその声が届かなかったが、金軍は陣頭の武将に応えた。

 進撃の太鼓が打ち鳴らされた。軍旗が寒風に打ち振るわれた。陣頭で怒号が上がり、波紋のように全軍に広がる。

 音圧が襄陽軍に迫った。それを弾き返すように、南門上に築かれた最も高い楼閣で、趙淳が声の限りに叫んだ。

「襄陽よ、戦え! 戦って守れッ!」

 趙家軍と敢勇軍、二つの旗がひるがえった。高らかな太鼓の律動を伴奏に、誰もが声を張り上げる。

戦而守たたかってまもれ! 戦而守たたかってまもれ!」

 標語と呼ぶにはつたない、しかし渾身の合言葉だ。戦って守れ。その一言を、襄陽に居するすべての人が繰り返し声に乗せ、包囲する敵軍へと叩き付ける。

 すべての人だ。皆が叫んでいる。城壁に上った兵士だけではなく、補給や救援に当たる後方部隊も、戦う力を持たない民衆さえもが叫び、鼓舞し合っている。

戦而守たたかってまもれ! 戦而守たたかってまもれ!」

 望んで得た戦ではない。だが、戦うことを放棄すれば、たちまち破滅が身に降り掛かる。戦わなくては守れない。守るために戦う。

 太鼓の音が調子を変える。狙いを定めよ、との合図だ。城壁上の七千五百の兵士は弩と投石機を構え、発射の合図に備える。

 呼吸ひとつの間が落ちる。

「撃てッ!」

 命令が全軍を駆け抜けた。

 趙萬年は弩の懸刀ひきがねを引いた。

 発射の瞬間は両軍同時だった。数多の箭が弧を描いて飛ぶ。交錯して濠を越え、両陣営に降り注ぐ。

 たちまち湧き起こる、怒号、悲鳴、喚声、太鼓。だいおんじょうが戦場に満ち、人々の鼓膜を圧する。

 趙萬年はじょしょうに体を押し当てながら弩に次の箭を装填した。敵箭が次々と落ちてきて城壁上に突き立つ。ずん、と城壁がかすかに揺れたのは、砲弾が的中したのだろう。

 女口から弩を突き出し、狙いも付けずに射る。仰角を誤らなければ、箭は確実に敵陣のどこかに刺さる。

「くそ、あいつら勢いがありすぎる。おい、皆、負けんなよ! ブタ金なんかの勢いに押し流されずに踏ん張れ! 今はとにかく撃ちまくれ!」

 趙萬年の声は高く澄んで、混濁した喧騒を貫く。おうッ、と方々から応えが返った。趙萬年は、にっと笑って弩を操る。

 旅翠もまた、傷のある顔を猛々しく微笑ませた。

「気まぐれな風が今は東から吹いてる。おかげでこんなにタコ金軍の箭が飛んでくるわけだけど、風向きはじきに変わるよ。冬の北風が戻ってくればこっちのもの。みんな、心を強く持て! 気合いを入れて声を上げろ! 運気を引き寄せるよ!」

 敢勇軍が吠える。趙家軍が対抗して気迫の声を発する。襄陽軍を構成する二つの勢力は、競い合うように敵陣へ射掛ける。射て射て射まくる。

 趙萬年たち東側に配置された部隊が風向きのために苦戦する一方で、西側に位置するちょうこうはいけんたちは初めから優勢だった。女牆に張り付いて女口から身を乗り出し、大型の攻城兵器を狙って火箭を放つ。

 西隅の指揮を担う趙淏がげきを飛ばした。

「燃やせッ! 敵陣の兵器に火を点けろ! 炎と煙が上がれば、軍勢は必ずひるむ。歩兵の雑魚を片付けるのはそれからでいい。まずは兵器を燃やし、破壊しろ!」

 趙淏は指揮を執りながら、兵卒と並んで弩を手にしていた。がらの火薬筒に火を点け、弩から撃ち出す。瞬時に爆発を始める火薬が、箭の飛ぶ勢いを高める。炎の尾を引く箭が、朝の光の中にきらめく。

 金軍の攻城兵器は守りが堅い。張り巡らされた牛皮の簾が箭を阻む。だが、全く以て手が出せないわけではない。

「いい加減、あたれッ!」

 わめきながら裴顕が放った火箭が、れんの隙間を突いて洞子の支柱に刺さった。

 洞子は、車輪を備えた高楼のような格好をしている。内側に大量の弩兵を積んで前線まで運ぶ戦車だ。

 支柱に刺さった火箭を抜こうと、身を乗り出した兵士がいる。皮簾がめくれた。そこへ次々と城壁から火箭が飛んでいく。

 城壁上の投石機が唸りを上げた。撃ち出されたのは火薬仕込みの砲弾だ。ほころびのできた洞子へと、狙い違わず着弾する。

 小さな爆発が起こった。洞子に火の手が回る。襄陽軍が歓声を、金軍が悲鳴を上げた。飛散する火薬に引火し、炎は拡大する。洞子が燃え始める。

 冬の乾いた風が吹いた。風が炎をあおった。木材も皮簾も、内部に搭載された兵士も、たちまち炎に包まれる。煙が立つ。金軍に動揺が走る。

 兵士が洞子から転がり出た。波紋を描くように、燃える洞子から兵士の群れが離れる。押し合いへし合いする陣営がまたたく間に乱れていく。

 敵陣から飛来する箭が激減した城壁西隅で、趙淏が凛々しく声を上げた。

「畳み掛けろッ! 趙家軍は火箭を放って兵器を燃やせ! 敢勇軍は混乱の渦中を狙え! 我ら二千五百の西隅部隊で二十五万の金軍を引っ掻き回してやれッ!」

 城壁西隅の全兵士が吠える。怒涛のごとき士気が噴き上がる。

 その勢いは、南門の楼閣に立つ趙淳にもとにも届いた。趙淳は、にやりとする。

「仲洌がうまくやっているな。俺も波に乗らせてもらおうか!」

 趙淳は左右に火箭の使用を命じた。自らも弩を執り、炎をまとう箭を射る。

 吹きっさらしの楼閣の屋上には、対岸の真正面に布陣した金軍本隊から引っ切り無しに箭が飛んでくる。趙家軍と敢勇軍の旗手たちは木牌たてを掲げて趙淳を箭から守りながら、しきりに避難を促した。

「楼閣の中へ御入りください! ここはあまりに危険です!」

「何言ってやがる。今さら引っ込めるもんかよ。俺が姿を隠したら、金賊が調子に乗っちまうだろう」

「ですが、伯洌将軍!」

「心配すんな。俺は頑丈にできてる。箭の五、六本、刺さったところで死なねえのは経験済みさ」

 趙淳は立ち上がり、火箭を放った。

 そのとき、風が吹いた。強い北風だ。

 趙淳の箭が炎の尾を引いて加速する。箭は吸い寄せられるように洞子の支柱に突き立ち、火の粉を降らせた。はためく皮簾が、ぼっと燃え出した。

 金軍から飛んでくる箭は向かい風を得てよろめいた。多くの箭は城壁に届くことなく、ぱらぱらと落ちる。

 楼閣の上で二色の軍旗が強風に唸る。趙淳は哄笑し、ほうこうした。

「天が俺たちを味方しているぞッ! 皆、撃って撃って撃ちまくれ! 風がどこまでも箭を飛ばす! 敵の箭は失速する! さあ、襄陽全軍、攻めろッ!」

 兵を鼓舞する太鼓が激しく打ち鳴らされ、呼応する兵がかんせいを振り絞る。気迫に満ちた大音声を北風が運び、金軍に叩き付けた。

 勢いを増した南隅の気迫は、趙萬年たち東隅まで伝播する。風向きの変化を知った趙萬年は一際大きな声を上げ、守りに努める仲間たちを叱咤した。

「いつまでも亀みてえに引っ込んでる場合じゃねえ! 大哥あにきたちに遅れるな、オレたちも戦果を上げるぞッ!」

 次の瞬間、趙萬年は跳び上がり、弩を剣のように振り回した。風にあおられながらも飛んできた敵箭をはたき落としたのだ。

 趙萬年のはやわざを目撃した兵士が歓声を上げる。王才が、旅翠が、負けるもんかと目を輝かせる。

 さあ!

 さあ、行くぞッ!

 鼓動が速い。体が熱い。趙萬年は、沸き立つ興奮のままに叫ぶ。

「勝つぞ! オレたちは勝てるぞ! 戦って守れッ!」

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