五.後始末に奔走せよ

 十二月三日、の刻(午前六時頃)に始まった戦闘は、日が西へと傾いたさるの刻(午後四時頃)になって収束した。襄陽軍の戦士たちにとってみれば、気が付いたら飛ぶように時間が経過していた、といったところだ。

 襄陽の東、南、西の三面に展開した金軍は、その全面に火の手が上がって陣頭一帯に煙が広がると、戦闘態勢を維持できなくなった。

 そこに至るまでに、襄陽軍は、これでもかというほど重ねて揺さぶりをかけ続けた。ついに金軍の前陣が撤退の銅鑼を鳴らしてからも、命令が後陣の最後尾に到達するのには時を要し、実際に大軍が去っていくまでにまたいくつかの戦局があった。

 金軍が撤退した後には、くすぶる炎と煙が残った。あちらにもこちらにも、壊れた攻城兵器が打ち捨てられている。その数、一千に届くのではないか。

 趙こうが、休む間もなく偵察部隊を率いて城外に出ていった。視認できただけでも、金軍の死傷者はかなりの数に上る。今後の作戦に備え、より正確な敵情を確認しなければならない。

 無論、襄陽軍にも死傷者が出た。こうむった者のうち、当たり所が悪かった数名が死に、傷口が腫れ上がったり膿んだりする者、発熱してしまった者が女衆の看護を受けている。

 比較的重傷だった者の一人が、趙淳だ。夕焼けの気配をまとってわずかに赤みがかった太陽に照らされながら襄陽軍の勝利を宣言したとき、趙淳の左の上腕と肩には一本ずつ箭が突き立っていた。

「腕も肩も、まずいと感じて反射的に動いた結果なんだ。勘が働かなけりゃあ、左の胸に刺さったはずの箭だぞ」

 妙に自慢げに言った趙淳を一喝したのは、旅翠だった。

「伯洌将軍、もっと防御に気を配ってください! 剥き出しの楼閣の上に立って指揮をするなんて。今日はたまたま風向きがあたしたちの味方をしましたけど、天がちょいと気まぐれを起こして逆風を吹かせていたら、あっという間に針鼠でしたよ!」

 趙淳は、真剣な顔の旅翠に正面から間近に迫られ、言葉を呑んだ。きらきらとして力に満ちた旅翠のまなざしが趙淳を留め付ける。

 たっぷりと沈黙してから、趙淳はようやく、少しすねたようにつぶやいた。

「……善処する」

「必ずですよ」

「とりあえず応急処置をしたら、城外に出て掃討戦だ」

「何を言ってるんですか! そんな怪我を負っているのに現場に立とうって、いけません!」

「しかし」

「おとなしくしといてください。指示をいただけたら、敢勇軍も趙家軍も、みんなきっちり働いてみせます。ほら、とにかく、さっさと服を脱いで傷口を出して!」

 すぐそばで二人のやり取りを見ていた趙萬年は、しかめっ面でそっぽを向いた。はい顕と目が合う。

 裴顕もまたしかめっ面だったが、すぐさまひょうきんな表情を作ってやれやれと首を振った。

「おいおいおい、翠瑛、力加減に気を付けろよ? 伯洌将軍が、ぽきっと折れちまうぜ」

「聞き捨てならないね。あんたが怪我するたびに治療してやってんのはあたしだよ」

「だから言ってんだってば。ほんっとに怪力だからな、翠瑛は」

「減らず口は御止め。ぶっ飛ばされたい?」

「おお、怖え。濠の向こう側まで軽々ぶっ飛ばされる前に、伯洌将軍に指示を仰がねえとな。伯洌将軍、俺ら、城外に出て残党狩りをしてきたいと思います。出撃を許可してください」

 趙淳は、旅翠の為すがままになって治療を受けながら、趙萬年と裴顕に命じた。

「出撃を許可する。趙家軍から五十、敢勇軍から百五十、精鋭を選んで城外へ出ろ。金賊に出会えば、これと戦え。捨て置かれた攻城兵器は、火を掛けて確実に破壊しろ。突出部隊の人選は慎重にな。ひでえ怪我のない、食事を取った者だけ行かせるんだ」

 命令は普段通り具体的で的確だったが、旅翠の手が肌に触れるたびに目を泳がせるから、どうにも締まらない。

 趙淳がうろたえるのも仕方ないだろうか。旅翠はいつも、ぱっと周囲を照らすように明るく笑っているが、ひとたび真剣な顔になると、恐れ多いまでにとてつもなく美しいのだ。隠しようのない傷さえ、どんな化粧より鮮烈に、美貌に凄絶な彩りを加えている。

 趙萬年は不愉快だった。ついつい憎まれ口を叩いてしまう。

大哥あにき、でれでれしてんじゃねえよ。妓館にだって普通に行くくせに、翠瑛の前では何か態度が違うよな。どういうことだよ? ああ?」

「へ、変なことを言うな。俺は怪我人だぞ」

「怪我とでれでれは関係ねえだろ」

「おい、阿萬!」

 旅翠が、薬湯に浸した布で趙淳の傷口を清めていたのだが、その手を止めた。

「伯洌将軍、もしかしてひどく痛みます? もちろん、ちょいと染みるのは仕方ないんですけど」

「いや、問題ねえ。問題ねえんだ、気にせず続けてくれ。ただ、まあ、あれだな、早く済ませてほしい」

「そうですね。いくら火のそばとはいえ、肌脱ぎになったままじゃあ、体が冷えちまいますよね」

 趙萬年の不愉快な気持ちや趙淳の不自然な態度を察しているのかいないのか、旅翠は淡々と治療をこなしている。趙萬年はわざとらしく大きな息をついて、趙淳に背を向けた。裴顕に声を掛け、共に命令遂行のために駆け出す。

 裴顕が、ぽんと趙萬年の頭に手を載せた。

「おまえ、かわいいよな。すっげえわかりやすい」

「うるせえよ」

大哥あにきを翠瑛に取られるのも翠瑛を大哥あにきに取られるのも嫌なんだろ? いやあ、悩み多き年頃だねえ」

「黙れって!」

 趙萬年は裴顕の手を払いのけた。裴顕はさして痛がりもせず、打たれた手をひょいと挙げる。

「んじゃ、お先に」

 言うが早いか、ひらひらと呑気に手を振りながら、凄まじい勢いで走り去った。趙萬年は唖然とした。

「何、あいつ? 化け物かよ」

 足の速さにはそこそこ自信のある趙萬年だが、全速力を振り絞っても、御気楽そうに駆けていく裴顕には到底追い付けない。

 城内は騒々しかった。子供の姿が目立つ。というのも、敵陣から飛んできた箭を回収する作業に民衆が加わることを茶商のせいちゅうが提案し、趙淳が了承したためだ。

 これが成功だった。大喜びで働く子供たちは大人よりよほど目ざとく、はしっこい。箭はあっという間に拾い集められていく。

 回収された箭は既に十万本を超えている。集まってくるそばから箭の計上をするのは、茶商や金貸しのおかみさん勢だ。傷付いた箭の修繕に当たるのも、日頃から家事や手仕事に慣れている女衆だった。

 物資が潤沢とはいえない襄陽では、箭も砲弾も代用品でまかなっている。箭の飛翔を安定させる箭羽は、鳥の羽根ではなく細く裂いた麻布だ。砲弾は黄土をねて固めて作るから、敵陣に被弾すると同時に砕け散り、撃ち返される恐れがない。

 勝利の余韻と呼ぶには慌ただしい空気ではあるが、襄陽は元気だ。男も女も子供も老人も、仕事を探しては奔走し、我こそはと名乗り出て働いている。

「オレも、うかうかしてらんねえよな!」

 趙萬年は人々の熱に背中を押され、足を速めて趙家軍の給食所に向かった。飯を食って気力も体力も回復した連中を引き連れて、もう一暴れするのだ。

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