六.決闘に応ぜよ
城壁北隅の通用門から船着き場に出て船に乗り、趙萬年たちは城西の対岸に上陸した。
すぐそばまで迫る崖の向こう側で、冬の太陽は既に、
戦闘に先立って、濠の外に残されていた廃屋はできる限り撤去してあった。が、堅固な土蔵や土塀は破壊し切ることができず、形を保っている。
先行して城東を探索した
城西でも同じことが起こるかもしれないから気を付けろと、裴顕がわざわざ伝言をくれた。あり得るだろうと、趙萬年も思う。
「建物や塀の陰に敵が隠れていやがるかもしれねえ。用心しろよ。一人になるな。何かあれば、すぐに大声で仲間を呼べ。じゃあ、行ってくれ!」
趙萬年の号令を受けて、趙家軍の兵士たちが組を作ってあちこちに散る。趙萬年のそばには王才が残った。
「危険な仕事だよな」
ぽつりと言った王才にうなずいて、趙萬年は周囲を見渡した。
たくさんのものが打ち捨てられていた。
箭が散らばっている。槍がめちゃくちゃに折れている。
死体が、一つ二つではない。
「ざまあねえな」
人の形を保っていない死体もある。焼けただれたものと、黒焦げになったものと、軍勢の下敷きにされたらしいもの。木材や牛皮が燃える匂いと火薬や煙の臭気に混じって、人が死んだときの匂いが濃厚に漂っている。
わっ、と声が上がり音が鳴った。討伐隊が早くも金軍の伏兵と遭遇し、戦闘が始まったのだ。槍をつかんだ王才が数歩走り、戦闘の様子をうかがう。
「よし、ほかの場所に向かった連中もすぐに合流した。人数は互角だ」
趙萬年は瓦礫を足掛かりに跳躍し、土塀に上った。
遭遇戦は火炎に照らされていた。人と影とが入り乱れて暴れ回る。敵は漢族の歩兵だろう。ならば、趙家軍が後れを取るはずもない。趙萬年の確信通り、互角だった人数はたちまち趙家軍の優勢へと傾いた。
趙萬年は王才を見下ろした。
「オレたちも行くか?」
「行こうぜ、阿萬。あっちまで競走だ!」
「あっ、こら待て、先に走り出すなよ!」
趙萬年は王才を追い掛けようとした。
と、異様な音を聞いた。いや、その音自体は馴染みがある。だが、聞こえるとも思わなかったときに耳に飛び込んできたから、異様と感じたのだ。
それは馬蹄の響きだった。趙萬年の背筋に冷たいものが走った。
趙萬年は叫んだ。
「元直、新手だ! 女真族の騎兵だ!」
はっと振り返った王才が、手近な土蔵の陰に飛び込んだ。
趙萬年は土塀から跳び下りながら、見た。一騎の影が西の崖を凄まじい速度で駆け下りてくる。両脚で馬を操りながら弓を構えている。
土塀に引っ込んだ趙萬年の頭上を箭が飛び去った。馬蹄はまっすぐ近付いてくる。趙萬年の予感が確信に変わる。
「オレを狙ってる」
頭上を大きな影がよぎった。馬だ、と理解したときには既に体が動いている。趙萬年は槍を振り立てた。
全身が痺れるほどの衝撃があった。馬上から打ち下ろされた槍を止めたのだ。
交差する槍越しに騎兵を睨む。刹那、驚愕に息が止まる。
「おまえ、徳寿……!」
殺したはずの美しい少年がそこにいる。
否、違う。
「けがらわしい! 貴様ごときが弟の名を呼ぶなッ!」
凄烈な形相で趙萬年を見据えているのは、女だ。趙萬年が徳寿の首級を手にしたときに憎しみの絶叫を放った、あの女だ。
女が力任せに槍を振るった。趙萬年は受け流す。二合、三合と立て続けの斬撃が趙萬年を襲う。速い。馬上からの高さがあるぶん、女の槍は重い。
趙萬年は下がれない。すぐ後ろは土塀だ。
槍の攻撃を辛くも
趙萬年は土塀を蹴った。馬の腹の下をくぐって窮地を脱する。
くるりと転がって槍を構える。女は既に体勢を整えている。馬で突進してくる。
刃が交錯する。火花が散った。
「くそ……ッ」
「小賢しい!
槍と馬蹄の連続攻撃を必死で避ける、
上から攻撃されては、圧倒的に不利だ。趙萬年は再び土塀に駆け寄り、跳び乗る。土塀の上で女に向き直り、槍を構えた。
「来い!」
女が馬を走らせながら
槍を受け止め、弾き返す。趙萬年と女と、
五合、十合と応酬が続く。
片や壊れかけた土塀の上を跳び回り、片や両脚のみで馬を操って、槍を打ち交わしている。簡素な胴鎧を付けただけの身の軽い者同士、曲芸めいた
馬だ、と趙萬年は思った。先に馬を倒す。女ひとりなら、どうにでもなる。
女ひとり? 日の落ちた戦場で、そんなことがあり得るか?
頭に差した疑念は、予感だったのかもしれない。何かを察した。趙萬年は体をひねった。
肩に激痛が走り抜けた。ぐらりと体勢を崩す。その途端、二の腕に激痛が刺さった。
箭だ。
振り返る。騎兵の集団がある。先頭を疾駆する男が弓を手に、こちらを睨み据えている。道僧と名乗った、あの印象的な目の男だ。
槍が趙萬年を襲う。ぎりぎりで受け流す。力が入らない。踏ん張りが利かず、押し負けて土塀から落ちる。背中を打った。息が詰まる。
道僧が、女の名らしき言葉を叫ぶ。女が何事かを応え、馬を跳躍させて土塀を越える。趙萬年の目の前に馬蹄が立ちはだかり、槍の穂先が突き付けられる。
「弟の仇!」
殺されてたまるか。
握り締めた槍が、しかし重くて持ち上がらない。二の腕から箭が生えている。痛い。
駆け付ける足音が聞こえる。
「阿萬ッ!」
王才が、
趙萬年は無理やり上体を起こした。王才が趙萬年を背に
「元直、
「だから助けに来たんだろうが! 誰がどくかよ!」
馬蹄の響きが群れになって迫ってくる。
群れが一つでないことに、趙萬年は気が付いた。女真族の騎兵も、はっと別の方角へ視線を走らせた。
十騎ばかりの騎兵が場に飛び込んできた。先頭の大男が右手に
大男が、にっと趙萬年に笑い掛けた。船乗りの旅世雄だ。
旅世雄の隣で馬を駆る茶商の路世忠が長柄の鎌を振るい、女真族の騎射による箭を打ち落とした。
「我ら敢勇軍、助太刀いたしますぞ!」
「子誠! 助かった!」
「阿萬殿は御下がりなされ。治療を急ぐがよろしゅうございますな」
路世忠の目配せを受けた王才は、自分と趙萬年の槍をつかみながら、趙萬年を横抱きにして持ち上げた。そのまま駆け出す。
待て、と叫ぶ女の声が聞こえた。続く言葉は、騎兵同士の乱戦の喧騒に呑まれた。
趙萬年は、己を抱き寄せる王才の胸の広さに驚き、たじろいだ。
「おい、離せよ! 敢勇軍が来てくれて助かったけど、オレは戦線離脱するつもりなんかないぞ!」
「だああっ、耳元で叫ぶな、暴れるな! 腕に箭をぶっ刺しといて、莫迦なこと言ってる場合か!」
王才はいちばん小さく軽い船に飛び乗り、趙萬年をそっと横たえて、襄陽へ向けて漕ぎ出した。趙萬年も仕方なくあきらめ、目を閉じて息をつく。
「箭、抜いてくれよ。痛え」
「抜いても痛えぞ。ほかにもやられたとこがあるか?」
「箭で肩もやられた。土塀から落ちたとき、右足をひねったと思う。あと、気付いてなかったけど、槍で脇腹をやられたみてえだ」
「満身創痍じゃねえか。一歩間違ったら、何回か死んでたぞ」
「あの勝負、オレが負けたことになんのかな?」
「殺しに来たやつから生きて逃げ延びたら、逃げたほうの勝ちだろ。寒くねえか? すぐ城に着くから、あとちょっとだけ辛抱しろよ」
うるせえよ、と趙萬年は口の中で悪態をついた。弟分であるはずの王才に軽々と抱えられ、心配されて、面倒を見られている。気まずくて仕方がない。
船着き場に至ると、王才は二本の槍を近くにいた船乗りに預けて、どうにか自力で起き上がったところの趙萬年を抱きかかえた。
「歩けるんだから下ろせってば!」
わめく趙萬年を無視して、王才は城内を駆ける。北隅にある救護所に至ったとき、ちょうど旅翠が中から出てきた。旅翠は眉をひそめた。
「どうしたんだい? 阿萬、怪我したの?」
王才は趙萬年に口を開く暇を与えず、いつにない早口でまくし立てた。
「クソ金の騎兵にやられたんだ。肩と腕に箭傷、腹に槍の傷があって、足もくじいてるって。すぐ診てやってくれよ。傷痕が残っちまったらまずいし、何より傷が腐って病気にでもなったらって思うと怖くて、俺、どうしていいかわかんなくて!」
旅翠はうなずき、救護所を指差した。
「わかった。とにかく中に入って」
王才はかぶりを振り、声をひそめた。
「いや、救護所じゃ駄目だ。男ばっかだろ?」
「まあ、そうだけど」
「阿萬の傷を診るのは、男のいる場所じゃ駄目だ。治療も翠瑛にしか頼めねえ。男に見られたり知られたりするのが絶対に駄目なのはもちろん、ほかの女衆にもばらしてほしくない。女ってのは噂話が好きだから」
「元直、それ、どういう意味?」
旅翠は
王才は、ひそめるあまりかすれてしまった声で言った。
「阿萬は女なんだよ。男のふりしてるけど、本当は、女なんだ」
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