七.本音を隠せ

 旅翠の家は北隅にあった。船着き場に最も近いこの一角は、船乗りが多く集い住んでいる。

 家の者は皆、出払っていた。旅翠の父は船着き場、母と祖母は給食所で采配を振るっており、兄の旅世雄は城外で残党狩りの真っ最中だ。

「ああもう、大嫂ねえさんったら、やっぱりまだ帰ってきてない」

大嫂ねえさん?」

哥哥にいさん太太おくさん。春になったら赤ん坊が産まれるってのに、大きなおなかを抱えて、箭を作りに行っちまったの。大嫂ねえさんの作った箭は一等品なんだよ。でも、無理はよくないよねえ」

「そっか。永英に、赤ん坊か」

 赤ん坊以前に、趙萬年は、旅世雄に妻がいることを初めて知った。少し驚いている。いや、三十幾つかの健康な男なのだから、妻の一人や二人もいて当然だが。

 傍から見れば、もうすぐ三十三になろうとする趙淳が妻帯せず、その五つ年下の趙こうもまた独り身であるという、趙家軍のほうが変わっている。趙家の血を引く跡継ぎがいないのは由々しきことだと、はくちんでは女衆がたびたび趙家の二人を槍玉に挙げる。

 旅家は広々としていた。母屋があって、旅世雄と妻が暮らす離れも大きくて、旅翠には独立した部屋が与えられ、仮に婿を取っても一緒に住めそうだ。

 趙萬年は旅翠の部屋まで抱えて連れていかれ、寝台に横たえられた。ごく簡単な応急処置だけは救護所で済ませてある。腕に刺さったが無理なく抜けたのは幸いだった。止血帯をきつく締めているおかげか、存外、痛みは強くない。

 旅翠が隣家から湯をもらってくる間、趙萬年はうつらうつらしていた。汗と埃と血に汚れた己の匂いと違って、旅翠の部屋はふわりと優しい匂いがする。炉に火が入っていて暖かい。

 しばらくして、旅翠が戻ってきた。

「阿萬、傷を診るよ。ついでに体を拭こう。汚れたままじゃあ、傷にさわっちまう」

「……ああ。よろしく」

 趙萬年は旅翠の手によって椅子に座らされ、服を脱がされた。目を閉じたのは、垢じみて傷だらけの己の体を見たくないからだった。

 温かく湿した布が素肌に心地よい。人形のようにおとなしい趙萬年に、旅翠は問うた。

「傷は痛まないかい?」

「このくらいなら平気」

「阿萬は肌が綺麗だね。顔立ちも綺麗だし。女だって聞いてびっくりしたけど、言われてみたら納得だよ。元直や仲洌将軍が特別に阿萬のことを気に掛けてるなあって思ってた。特に、あの厳しい仲洌将軍がねえ、って」

「子供扱いなんだよ。オレだけ、いつまで経っても小せえから」

「仕方ないじゃないか。あたしみたいな大女のほうがおかしいんだってば。阿萬はかわいいから、そのままでいいの」

「かわいいとか言われても嬉しくない」

 くすくすと、旅翠は笑った。喉の奥で転がされた笑声の華やぎに、趙萬年の胸は、きゅっと締め付けられる。鼓動が走って、いたたまれなくなる。

「伯洌将軍から、阿萬と元直は拾い子だったって聞いた。趙家軍の中で育つんだったら、阿萬も男の子の格好をしてたほうが安全だっただろうね」

「覚えてねえんだよ、昔のこと。気付いたら、オレはなぜか女だった。そんな感じで」

 男のままで過ごすつもりかと、まじめな顔をした趙淳から問われたのはいつだったか。当たり前だと、趙萬年は答えた。まだ幼い頃だった。男と女の違いもろくに知らなかった。

 趙淳は、仕方ねえなと苦笑した。趙淏が気難しいことをまくし立て、趙萬年は女児の服を着るべきだ、女衆に預けて育てるべきだと主張した。趙萬年は、いい子にするから捨てないでくれと泣いた。あの一件のせいで、趙淏のことが長らく苦手だった。

 結局、趙萬年は男として振る舞い続けている。少なくとも、心は男だ。女心なんて少しもわからない。

 旅翠の手が、壊れ物を扱うように丁寧に、趙萬年の体を清めていく。その手付きに、時たまじかに触れてくれる指先に、趙萬年は泣きたくなる。

 薄く目を開いてみる。旅翠がすぐそばにいる。長いまつげの数を一つひとつ数えられそうなほど、すぐそばに。

「あたしも単純だよね。阿萬が大勢を率いて戦ってるのを知ってたから、そりゃあ当然、男だろうって思い込んでた」

「普通、そうだよ。ほとんど気付かれねえ。でも、茶商の路子誠はわかってるみたいだった。いきなり、御嬢さんなんて言いやがった」

「子誠さんには娘がいるから、ぴんと来たんだろうね。路家の御嬢さんも、すごいてんだよ。弩や剣がなかなか得意でね。今度、阿萬にも会わせてあげる」

 御転婆と自分は違う、と趙萬年は知っている。男の中で、自分も男だと信じながら育った。だから、まわりの男たちと同じように、いい女がいれば胸がざわめくし、女の体の柔らかさに触れてみたいと欲望が起こる。

 いや、もしも趙萬年が女らしい肉付きの体をしていれば、柔らかさを味わってみたいと好奇心をいだくこともないのだろうか。

 オレの体は中途半端だ、と思う。

 どんなに鍛えても食べても、がっしりとした筋肉は付かない。薄っぺらく細いまま胸もほとんど膨らまず、腰つきにも柔らかいところはない。

 そのくせ、月の満ち欠けにのっとって、はらはひっそりと血を流す。茂みの内側には丘があり、奥に深い泉がある。女をよろこばせ、孕ませるための剛直は、趙萬年の体には備わっていない。

「阿萬、運がいいよ。傷が膿んでないから、治りはきっと早い。出血もそう多くなかったみたいだし」

「大した怪我でもねえのに、元直がおおなんだ」

「だって、そりゃあ心配になるって。元直は、いい子だね。腕が立つだけじゃなくて、口が堅くて優しい。あっという間に、とんでもなくいい男になるよ。さて、汚れもさっぱり落ちた。阿萬、傷に薬を塗るから、ちょいと痛むよ」

 膏薬の草の匂いが、つんと鼻を突く。

「オレは痛みには強いから……つッ」

 痛い、熱い。脈打ちながら骨の髄まで響いてくるほどだ。

 黙って悶絶する趙萬年に、旅翠はてきぱきと治療を施し、傷口を布で覆った。ひねって腫れ上がった足も、ぐるぐる巻きに固定する。

 次いで、旅翠は趙萬年のまげをほどいた。趙萬年に清潔な服を着せ掛け、ゆるりと帯を結ぶ。

 髪にくしを通されながら、趙萬年は困惑した。

「これ、女の格好……」

「あたしの部屋に泊まるんだから、今夜は女の子に御成り。薬湯を煎じてくるよ。体を温めて傷の治りを早くするんだ」

「いらねえよ。寝てれば回復する」

「あんまり出血が多くなかったとはいっても、甘く見ちゃ駄目。女はもともと男よりけつが足りてないんだから、薬で補ってやらないと、すぐ体が弱っちまう。とうけいぶくりょうしゃくやくなんかの、女の体に優しい薬を調合するから、きちっと飲んでよ」

「オレは、そんなの……体は強いし、女とか、別に」

「男に処方する滋養強壮の薬だったら、でもはんでも強烈なやつをぶち込んでやるんだけど」

「効く薬なら、そっちがいい。さっさと動けるようになりたい」

「駄目だよ。例えばこの後、傷のせいで熱が出たとしても、今の阿萬の体は弱って難しい状態になってる。よく使われるかっこんおうでさえ効き方がきつすぎて、かえって毒になっちまうくらいにね。とにかく、あたしの言うことを聞いておとなしくしといて」

 旅翠はまだ趙萬年の髪をいている。趙萬年はうつむいた。見慣れない形の服が目に入る。恥ずかしくてたまらない。

「オレ、頭がおかしいんだよ。男じゃねえのに、頭ん中は男で……益明とか元直とか、すぐ脱ぐけど、そういうの見るのは平気で、翠瑛の隣にいるときのほうが、何か……何ていうか、困る。オレ、たぶん本当に、女じゃねえんだ」

 ふふっ、と、柔らかく笑う吐息が趙萬年の髪にかかった。ふんわりとしたぬくもりが後ろから趙萬年を包んだ。

 旅翠が趙萬年を抱擁している。優しい抱擁だった。趙萬年の息が止まる。部屋中に鳴り響きそうなほど、心臓が大きな音を立てている。

「ねえ、阿萬。あたしもその気持ち、わかるよ」

「な、何言ってんだよ?」

「あたしはさあ、大抵の男より体が大きいでしょ。だから、子供の頃から、体のちっちゃい女がかわいくてしょうがなくてね、守ってやんなきゃって気持ちで。男どもに媚びなんか売るより、女に優しくして男前扱いで持てはやされるほうが嬉しいの」

「でも、それは……翠瑛は、オレとは違う。ちゃんと、女で」

 旅翠は少し沈黙し、そして言った。

「あたしも阿萬と同じで、男の裸なんか見慣れてる。船乗りはすぐ脱ぐからね。女の肌のほうが見慣れないから、さっき本当は、阿萬の体にけっこう戸惑ってたんだよ」

 趙萬年の耳に旅翠の吐息が触れる。趙萬年は唇を噛んだ。か細い声が漏れる。

「男に生まれたかった。そしたら、簡単だったのに」

「あたしも、何度それを思ったかわからない。だけどさ、どうしようもなく特別に想っちまう相手はいつも男なんだよね。見慣れてるはずの男の裸が、その相手だけ、違って見える。参っちまうよね。あたしは男に交じって生きてるはずなのに、やっぱり女でさ」

 何となく、わかった。

「翠瑛は大哥あにきのことが好きなのか?」

 旅翠はただ、静かに笑った。

「阿萬は?」

 怪我をした趙淳を、旅翠が治療していた。趙淳の肌に旅翠の手が触れていた。おもしろくない、と趙萬年は感じた。趙淳を旅翠に取られるのが嫌だったのか、旅翠を趙淳に取られるのが嫌だったのか。

 違う。そんなんじゃないんだと、自分に言い訳をする。

大哥あにきは、大哥あにきだ。趙家軍の……オレの家族だ」

 とっくの昔に、そう理解したはずだ。小さな胸がばらばらになりそうなほどに痛かった。痛くて痛くて、二度とこんな痛みを抱えたくないと泣いた。

 旅翠が口を開いた。

「あたしは子供の頃、船着き場で荷崩れに巻き込まれてね、顔に傷ができちまった。それまでは襄陽一のべっぴんさんだって言われてたのに、誰からも何も言われなくなったの。嫁にも行けやしないって大人たちが話すのを聞いて、悔しかった。すぐ吹っ切れたけどね」

「翠瑛は別嬪だよ。傷なんか関係ねえ」

「ありがとう。阿萬もね」

「意味わかんねえ」

 くすくすと、旅翠は笑う。そんな笑い方は自分にはできないと、趙萬年は思う。

「阿萬は綺麗だよ。元直や仲洌将軍にも訊いてみようか?」

「やだよ。オレは今のままでいいんだよ」

 悲しくて痛いのは、いらない。

 趙家軍の趙萬年は、男であるはずなのだ。男であるべきなのだ。

 黙ってしまった趙萬年の顔を、旅翠はのぞき込んだ。

「いつまでもこうしてちゃ、体に障るよね。横になって待っといで。薬湯を持ってくる」

 趙萬年はうなずき、立ち上がろうとした。それより先に旅翠によって抱えられ、甲斐甲斐しく寝台に横たえられた。

 旅翠が部屋から去っていく。寝台の脇に小さな灯火が一つ残される。

 趙萬年は、寝台に広がった己の髪を見て、そっと息を呑んだ。丁寧にくしけずられた髪は黒くつやつやとして、灯火の赤いきらめきを宿し、閉じ込めている。

 今夜は女の子に御成り。

 旅翠の声が脳裏によみがえった。趙萬年は途方に暮れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る