第四章 城壁に拠って迎撃奮闘せよ

一.覚悟を定めよ

 弓を引き絞り、を放った。射なければ自分が殺される。だから射た。

 最初の箭が眉間を砕いた一瞬で、敵の少年は絶命しただろう。駄目押しの第二箭を放つと、ちょうばんねんはやるかたなく、ああ、と声を漏らした。

 野郎。言葉を交わしたくなかった。顔を覚えたくなかった。見知ってしまった相手を殺すのは、どれだけ戦に慣れていても、後味が悪くてかなわない。

ばん、気を付けろ! 増援が百はいるぞ!」

 船のともおうさいが鋭く言って、弩を手にした。

 趙萬年はもう、第三の箭の狙いを新手の騎兵へと定めている。

「問題ねえよ。こっちもすぐに増援が来る」

 騎兵は女真族の若い男だ。白河口で視線が絡んだ、どこか苦しげな顔をしていた男に間違いない。

 男は悲愴に見開いた目で趙萬年を凝視している。懇願するかのような目だ。撃たないでくれ、ではない。返してくれ、だ。

「どいつもこいつも甘ったれやがって!」

 悪態をついた。それから箭を放った。わずかな時間が敵に利を与えた。すがる目をした男の胸を射抜くはずだった箭は、ちんにゅうした別の騎兵が掲げる木牌たてに刺さった。

 西の斜面から、わらわらと騎兵がやって来る。それを牽制する箭が、城壁上から趙萬年の頭上を越えて飛ぶ。城壁外のようしょうに潜んでいた趙家軍が濠へと船を漕ぎ出す。

 趙萬年は王才を振り向いた。

「船を進めろ! あのぼんぼんの首級を回収する」

「了解! 手柄だな、阿萬」

「半分はげんちょく、おまえのだ」

「いらねえよ。俺は俺で、槍をぶん回して手柄を立てるんだからさ」

 絶叫が聞こえた。聞く者の魂を引き裂きそうな、悲痛な声だ。趙萬年は息を呑み、声の主を探した。

 それは女真族の女だった。鮮やかな色の帽子と服が趙萬年の目をさらった。

 女は馬を駆り、ただまっすぐに、倒れ伏した少年のほうへ向かっている。金軍の男たちが声を上げ、あるいは手を伸ばし、女を引き留めようとする。だが取り逃がす。女の進む先に、城壁から放たれた箭が雨と降る。

 五つ数える間に、女の馬は幾本もの箭をこうむって倒れた。女が地面に投げ出される。追い付いてきた金軍騎兵が二人、馬から跳び下りて女を抱え、廃屋の陰へ駆け込む。

 趙萬年と王才は濠を渡り切って上陸し、少年のなきがらに駆け寄ろうとした。それを女真族の騎射が阻む。趙萬年と王才は地に転がってかわし、壊れかけた塀の内へ身を躍らせた。

 漢族の居住区は城壁の内側に営まれるものだが、流民や貧民が城壁外に居着いて粗末なまちを造ることも、往々にしてある。襄陽の濠の外にも貧民街が広がり、戦乱に先んじて住人が去った後にも、黄土で築かれた壁や塀が残されている。

 趙萬年と王才は塀の陰から弩を出し、敵に応戦した。敵もまた身を潜ませながら箭を飛ばしてくる。突出してくる気配は、今のところは、ない。

らちが明かねえな。阿萬、どうする?」

「打って出る以外の手があるかよ? 趙家軍の後続が岸に近付いたら、ヌケ金の注意がそっちに向くはずだ。その隙を突いて、首級だけでも回収する」

「わかった。一人で行くなよ」

 濠の上に繰り出した趙家軍は、およそ二百。けたたましく声を上げ、岸辺へと迫る。

 趙萬年に降りかかる箭の雨が止んだ。予測した通りだ。趙萬年は王才と目配せし、呼吸を合わせて塀の陰から飛び出した。趙萬年の手には剣、王才の手には槍がある。いずれの武器も、白兵戦となれば年長者に引けを取らぬ腕前だ。

 女真族の少年の亡骸は仰向けに倒れていた。ね飛んだ帽子の下から、風変わりな具合に剃り上げ、残った部分を編んだ髪がのぞいている。目を見張り、うっすらと唇を開いた顔は作り物のように精巧で美しい。

 少年が取りこぼした弓は、漢族が使うものより一回り大きかった。木でできたがらには緻密な紋様が彫り込まれている。同じような紋様は、少年のまとう胡服の襟や袖や帯に刺繍され、木牌たてにも朱色の塗料で描かれて、冬の日差しの下でひそやかに輝いている。

 こちらの動きを察した金軍の一部が廃屋の陰から突出した。全員が騎兵だ。積もった瓦礫を馬蹄が踏みしだく。

 趙萬年は、動かない少年に剣を突き付けた。

「まず名乗れよな。オレにはあんたが貴族の坊ちゃんだってことしかわからねえ」

 剣を振り上げ、振り下ろす。少年の首級が胴体から離れる。切断面から、じわりと血があふれる。

 趙萬年は、眉間に箭が刺さったままの首級を抱え、船で漕ぎ寄せた趙家軍と合流すべく走った。その背をかばう格好で、王才が続く。

 戦場の喧騒をつんざいて、女の声が趙萬年を打った。

「待てッ!」

 呼ばれたのは自分だと、趙萬年にはなぜだかわかった。趙萬年は振り返った。

 馬上で槍を執る女真族の女が、まっすぐに趙萬年を睨み据えていた。少年の血族の者に相違ない美しい顔が、埃と血に汚れながら、悪鬼のように凄まじく歪められている。

 歪められていてなお、女の顔は美しかった。噴き上がる怒りと憎しみの炎が内側から女を照らし、きらめかせている。

 女のそうぼうから涙があふれた。わななく唇が、歌声めいて華やかな呪詛を吐き出した。

「わたしは貴様を許さない! 弟の仇はわたしが討つ。わたしが知る限り最も屈辱的で残酷な方法で貴様を苦しめてやる。貴様の大切なものを目の前で奪ってやる。あっさりとは殺してやらぬぞ。生きながら切り刻んでやる!」

 趙萬年は、編まれた髪をつかんで、少年の首級を高々と掲げた。

「仇討ちだ何だと、いちいちうるせえんだよ。こっちだって、てめえらに大切な人を殺されたやつはたくさんいるんだぜ。これ以上の人死にを出したくなけりゃあ、とっとと北に帰れっつってんだろ!」

 首級を前に、金軍が色を失うのがわかった。趙萬年は奥歯を噛み締めた。戦場で兵を率いる身である以上、自軍に益するため、どんな卑劣な役割をも果たさなければならない。

 女は、怒りのあまり蒼白になって震えていた。その傍らに、白河口での苦しげな目が趙萬年の印象に残る若い男が馬を寄せ、趙萬年を静かに見据えて口を開いた。

「その者の名は、さつとく寿じゅという。蒲察家といえば、皇族に最も近い高貴な家柄だ。徳寿の首級ひとつがどれほど重い意味を持つか、我らが金軍を代表して私、のうごうどうそうが忠告しておく。二十五万の兵が一斉に襄陽を攻めかかることになろう。心せよ」

「ああ、そうかい。御忠告、痛み入るよ。その高貴な男の首級をいただいたのは、趙家軍の趙萬年だ。覚えておけ!」

 道僧は奇妙に静かに、あるいは無気力な様子で、淡々と言った。

「首級の検分が済んだら、徳寿の亡骸を我らに返していただきたい。どうか、頼む」

 熱を孕んだ沈黙を経て、趙萬年はうなずいた。

「約束してやる」

 亡骸の返却が、本格的な戦闘の開始を告げる太鼓となるだろう。後悔とも興奮ともつかない胸騒ぎが、趙萬年の心中を掻き乱した。

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