第七章 兵法を網羅し、敵の打つ手を封ぜよ

一.塹壕を掘削せよ

 一月五日の激戦の後は数日の間、漢江の両岸は静かだった。襄陽軍は掃討の兵力を繰り出すことなく、息を潜めるようにして金軍の出方をうかがいながら、城壁の修理に勤しんだ。

 戦闘中に死んだ者の葬儀は、一月六日におこなわれた。深手を負った者がぽつりぽつりと死んでいき、その都度しめやかにとむらわれた。

 城外の金軍兵士のなきがらは、捕虜や奴隷とおぼしき集団が遣わされて回収していった。ただ、すべてではなかったので、回収する者が現れなくなった頃、襄陽軍が出張っていって、損壊した攻城兵器を薪の代わりにし、亡骸を火葬した。

 偵察に奔走するちょうこうが珍しく飯時に城内にいた。ちょうばんねんは趙淏と食事を共にしたが、彼の放った言葉にぎょっとした。

「敵味方ともに亡骸を葬ってやる余裕があるのは、せめてもの救いだ。本格的に食糧が不足すれば、死者を人として弔うこともできなくなるからな」

 籠城が長引いて最悪の状況に陥れば、人肉を食らって飢えをしのがなければならない。趙淏はそう指摘したのだ。

「飯食いながら話すことじゃねえだろ」

 食事の手が止まった趙萬年を、趙淏はちらりと見やり、自嘲的に目を伏せた。

「戦場ではこういうこともあり得るなどと、知っているほうが異常だな。悪かった」

「疲れてんじゃねえか?」

「誰もが皆、疲れている」

「そうだけど、哥哥們あにきたちが一番疲れてると思う」

ばん、私のことは哥哥あにではなく、あざなで呼んでくれ」

「いちいちこだわるよな。何で?」

「少し疲れが癒える」

「……ちゅうれつ?」

 趙淏はくすぐったそうに、声を立てずに喉の奥で笑った。趙萬年は、趙淏の眉間のしわが消えたことにほっとして、食事の続きを口いっぱいに掻き込んだ。

 ちょうじゅんが掃討戦をおこなわず、敢勇軍による奇襲も差し止めたのは、このまま金軍が引き上げることを期待したからだった。実際、金軍の中枢部でも撤退論が出たらしく、そろそろ北に帰れるのではないかと、兵の間では喜色の噂が広まっていた。

 だが、数日をかけて趙淏が探ってきた情報は、襄陽の期待を裏切った。

「金賊はまた新たに攻城を仕掛ける準備をしている。木材や竹材、のうを大量に運び始めた。洞子の出動も確認された。二、三日のうちに、連中は城壁からも視認できる位置までやって来るだろう」

 趙家軍と敢勇軍の幹部が顔を突き合わせる軍議の場に、重苦しい溜息が唱和した。趙淳がかぶりを振り、しかめっ面を上げる。

「来るとわかっているなら、先手を打ちたい。兵器じゃなく、資材そのものを持ってこようとしてるってことは、濠を埋めるか橋を架けるか、そういう算段なんだろう。濠に近付かれると面倒くさいぞ」

 趙淳はぐるりと視線を巡らせた。趙萬年はその視線を追い掛けて、りょすいがいない空白を趙淳が見つめたように感じた。

 微妙な間が落ちた後、りょせいゆうが口を開いた。

「タコ金軍を濠に近付けねえように、柵でも立てるか? だが、まともな柵を作ろうにも資材が足りねえ。城内は、薪すら乏しくなってきてんだ。まずは連中のさいから奪ってくる必要がある」

 せいちゅうひげを撫でながら異論を唱えた。

「柵を設置するより、ざんごうを掘るほうが、足止めになるのではありませんかな? タコ金軍は資材を前線に運ぶとき、必ず洞子などの車に載せ、守りを固めながら進んできます。であれば、行く手に塹壕おとしあなが横たわっておれば、これを埋め立てるまで前進できません」

 はいけんが路世忠に賛成した。

「落とし穴、いいっすね。柵だったら燃やしちまえるけど、穴を埋め戻すのは手間がかかるし、穴掘りして出てきた土を袋に詰めて持って帰って、ねて丸めて固めて砲弾にすりゃあ、一石二鳥ですよ」

 趙淳が結論を出した。

「金賊の接近を阻むため、塹壕を掘ることにしよう。当然ながら懸念すべき点は、作業中に襲われることだ。さえぎるもののない平坦な場所で、本腰を入れてかた仕事をしなけりゃならねえのは、かなりの危険を伴う」

 おうさいが手を挙げた。

「危険だとしても、俺は行くぜ。夜に作業すりゃあいいと思う。クソ金軍の兵力はすげえ数だけど、その大軍を暗い中で動かすなんてできやしねえ。夜の戦には、俺たちのほうが圧倒的に強い。俺は、土を掘るでも護衛をするでも、どんな役目でも引き受けるよ」

 趙萬年も手を挙げ、勢い込んで言った。

「オレもやる! オレは土を掘るより護衛だな。力仕事は得意じゃねえけど、夜目が利くから、戦うほうでは役に立てる。穴掘りと護衛の両方に人手が必要ってことは、忙しくなるよな。さっさと計画を立てて皆に知らせようぜ!」

 くして、襄陽軍は再び、金軍と攻防を繰り返す道を取ることとなった。

 一月十七日の夜、雨にまぎれて、一千人の兵士が城外に出動。塹壕のくっさくを開始した。一千人のうち、六百五十人が掘削をおこない、残り三百五十人が護衛に就く。また、城壁の東南角では、三層の弩兵部隊が睨みを利かせた。

 金軍は、掘削工事の現場から東南へ約一里半(約八百四十二.四メートル)離れた地点に寨を置き、資材を山と積んで駐屯していた。十七日の夜は、金軍は襄陽軍の様子をうかがうばかりで、攻めては来なかった。

 襄陽軍は、六百五十人ではなかなか作業が進まないことを知った。雨脚が強くなったので夜明けを待たずに引き上げたが、この調子ではまずいと気を引き締めた。

 三日間、襄陽は豪雨に見舞われた。まだ短く浅い塹壕をそこに置いたまま、両軍ともに沈黙していた。

 雨が上がって、二十一日の夜である。二千人が城外に出た。一千五百人が掘削を、五百人が護衛を担う。明け方近くになって、馬蹄の響きが金軍の寨のほうから聞こえた。この日も襲撃はなかったが、予感がした。

 次はきっと攻めてくるだろう。

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