七.本音でぶつかり合え

 しんと沈黙が落ちた。

 趙萬年は一歩、振り返らない道僧のほうへ進み出た。王才が気遣わしげに趙萬年の肩に手を載せた。それを振り払って、趙萬年はもう一歩、進み出た。

「道僧、おまえのことはさ、白河口で最初に見掛けたときから覚えてるよ。辛気臭い目をしてやがるなあって。貴族のぼんぼんが何しに湖北に来やがったんだって思った。戦を甘く見てんじゃねえかって、嫌な感じがしたんだ。オレの勘、やっぱり当たったな」

 低く押し殺したような声で、道僧が応えた。

「なるほど、私も徳寿もあなたから見れば、甘ったれの御坊ちゃまに過ぎなかったのですね。可能な限り犠牲を出さぬようにしたいと願うこと自体、愚かしかったと。だから、あなたはあのとき、徳寿を嘲笑って殺したのですね」

「そんな話を持ち出していい時期を過ぎてた。戦うか兵を引くか、どっちかを取るしかなかっただろう。それなのにのうのうと美しい正論とやらを持ち出しやがってさ、オレは悪者になる以外の方法がなくて、それだけが正解で、だからあのを射たんだ」

「悪者、と御自身でおっしゃいますか。とはいえ、あのときあなたが先に射なければ、徳寿の箭があなたに刺さっていたでしょう。徳寿は軟弱そうに見えたかもしれませんが、その実、弓はかなりの腕前でした」

「だから何だ? 弓の早撃ちでオレより速いやつはいねえよ。それに、オレはちゅうちょなく人を撃てる。でも、あいつはそうじゃなかった。おまえもだ。その手で人を斬ったこと、ねえんだろ? オレに弓を向けたときだって、腹や胸を狙わなかった。甘いんだよ」

 趙萬年は道僧の正面に回り込んだ。趙こうが割って入ろうとするのを押しのけて、ごく近い位置から道僧を見上げた。

 道僧は眉間にしわを寄せて目を閉じ、溜息をついた。そして目を開けて趙萬年を見下ろした。端正な顔に、今まで見せなかった表情が現れていた。苛立ちと怒りだ。

「あなたは私に何を言わせたいのですか? なぜ必要以上に話をこじらせようとするのです?」

「てめえのその悲劇の主人公ってつらが気に入らねえんだよ! 聖人君子ぶってんじゃねえ。どうせ今までそうやって、おとなしくていい子の御坊ちゃまで過ごして、それでうまく世渡りしてきたんだろうけどな、オレはそういうの大っ嫌いだ!」

「あなたに嫌われようが、私はかまいません。しかし、先程から聞き捨てならないのは、戦う力を持つことをあなたがひどく誇張する点だ。人が人を殺すことは太古から禁じられてきた。輝かしい武勲などと飾り立てても、殺人が禁忌であり罪であることに変わりはない」

 趙萬年は道僧の胸倉をつかんだ。見上げて揺さぶる。細身の道僧だが、びくともしない。趙萬年は怒鳴る。

「殺人が罪だ? わかってんだよ! でもなあ、大軍率いて攻め込んできやがったゴミ金のてめえらにだけは言われたくねえ! 殺したり殺されそうになったり、だましたり罠にめたり、それを人間同士でやってるなんていちいち考えてたら頭おかしくなるだろう!」

「だから考えることをやめるのか? 対話の道を否定し去るのか? 敵と見れば皆、殺さずにはいられないのか? 捕虜をいつくしんで和平を求めた徳寿の在り方は、ただ愚かだと指差されて終わるのか? ならば、この世から戦が消える日など来ないではないか!」

「目の前で殺し合いやってんのを見て、友達が殺されるとこも見て、自分も殺されそうになった経験があって、それでもまだ対話だ和平だ言い続けられるって、てめえの頭ん中の御花畑、どんだけしぶといんだよ! 正論だけで生きられりゃ苦労はねえんだよッ!」

「正論や理想がまかり通らぬことなど百も承知だ! だから目の前の利のみにさとくあれというのか? それでもあなたは人を率いる立場なのかッ? 綺麗事だとわかっていても、人は正論や理想を夢見て、その実現を目指して暮らしていけるはずだろう!」

「知らねえよ! 綺麗事なんかクソ食らえだ! 宋って国じゃあなあ、都会で贅沢三昧の皇帝や貴族が綺麗事だらけの政治ごっこにうつつを抜かしてやがる間に、オレたちは敵軍のさいから食糧をかっぱらってきて飢えをしのいでた有り様だ。綺麗事が何だってんだよ!」

「それを異国人の私に言ってどうする? 宋国内に問題があるならば、朝廷に向けて声を上げればよい」

「できるもんか、野郎! 恵まれた貴族のてめえにゃできることかもしれねえ。でも、オレたちみてえな軍閥が何を言ったって何をやったって、ただの暴動や反乱と見なされて、鎮圧軍を差し向けられておしまいだ。てめえみてえに恵まれてねえんだよ!」

「恵まれた貴族? 身内の暴力によって、いつ殺されるかとおびえながら生きてきた。私は家名をつなぐための捨て駒に過ぎなかった。この体は傷だらけだ。歴戦の勇士と違い、名誉など何ひとつ負わぬ傷だ。これが恵まれた生活か?」

 道僧の両眼に満ちた悲しみの大きさに、趙萬年は言葉を呑んだ。道僧の顔によぎる赤々とした傷は、一歩間違えば失明か落命の危険があったはずだ。まさかその傷さえも身内の暴力によるものだというのか。

 異国人であり異民族でもある道僧が今までどんな人生を歩んできたのか、趙萬年には思い描くすべもない。けれども、家族による虐待がどんな国の人間にとっても悲しいものであることは容易に想像できた。

 趙萬年は家族のことを覚えていない。趙淳と趙淏、それに王才が家族の代わりだ。趙家軍で育ったことは趙萬年の誇りであり、幸せでもある。

「恵まれてるのはオレのほうなのか?」

 趙萬年はつぶやいて、口を尖らせた。罪悪感が胸を締め付けた。

 道僧はしばし沈黙し、ゆっくりと肩で息をして、そして平静な表情を作った。

「宋の国情やあなたが背負う事情を知らぬまま、無責任なことを言った。すまない」

 謝られてしまった。不意打ちだった。趙萬年は衝撃を受けた。

 怒りや憎しみの言葉になら、いくらでも耐えられる。耐えなければならないと覚悟を決めていた。それなのに穏やかな声で謝られたら、どうしていいかわからない。

 趙萬年の両手から力が抜けた。つかみっぱなしだった道僧の胸倉から手を離すと、ぼたんで留める形の襟がぐしゃぐしゃに乱れていた。

「オレは、だけど……だけど、謝らねえぞ。謝っても、どうせ、おまえに許してもらえるはずないから」

「許す?」

「蒲察徳寿のこと。オレが、あいつを殺した。おまえや、あいつの姉の、目の前で」

 言葉を探してつなぎながら、趙萬年は息が苦しくなった。視界がじわりと熱くにじむのを、眉間に力を込めてじっと耐える。

 道僧は感情の抜け落ちたような目で、一度、自分の掌をじっと見つめた。再び趙萬年と向き合ったとき、道僧はかすかに微笑んでいた。

「実感がない。私は君を憎むべきなのかもしれない。だが、憎み方がわからない。徳寿は私の大切な友で、徳寿を喪った悲しみはまだ胸にあるというのに」

「どうして? おまえ、人を憎んだことがないのか?」

「ある。父を憎み続けてきた。私は、己に危害を加える者だけを憎むという、ひどく利己的な人間なのかもしれない。同胞が傷付けられても、その痛みを己のものにできないのだ。鈍感な、人でなしだ」

 趙萬年は首を左右に振った。

「違うと思う。鈍感かもしんねえけど、人でなしじゃねえよ。おまえさ、信じらんねえくらい御人好しなんだ、たぶん」

「御人好し? いや、私は……私は怠惰だったのだ。私のそばにはいつも、誰より正直に笑ったり怒ったり、くるくると表情を変えてくれる人がいて、私は彼女に感情を預けていたように思う。敵を憎む気持ちも、彼女が私のぶんまで、すべて……」

 道僧は懐かしげに微笑んで、繊細な手付きで襟元を整えた。

 趙萬年の脳裏に、城西の廃墟で死闘を演じた女武者の姿が浮かんだ。女武者の総身に満ちた憎しみは、生気そのものでもあった。激しく輝くような、凄絶に美しい女だった。

「なあ、道僧。自分自身の心で憎みたくなったら、言えよ。オレはおとなしく殺されてやるわけにはいかねえけど、嫌いなら嫌いだって言って、ちゃんと傷付けてほしい」

「それを行動に移すのは、私にとって、とても勇気の必要な決断だ」

「憎いっていう気持ちをいだくことは、仕方ねえことなんだよ、きっと。人間には感情があるんだから。おまえさ、仇敵が目の前にいて簡単にぶん殴れる状態だってのに、憎み方がわかんねえなんて間抜けなこと言ってんじゃねえよ」

 道僧は半歩、後ずさった。

「それでも、私が君を殴ることはない。私は女真族だ。漢族にはわかりにくい感覚かもしれないが、森の民や草原の民は、女を尊いものとするのだから」

「え?」

「どれほど偉大な男であっても、必ずその母の体から生まれ出る。女は己の体を削って次の命を産み、乳を与えて育てると同時に、男が外で獲得した財産を預かり、知恵で以てそれを管理する。女は時として、男よりもずっと強く尊い。女真族はそう考える」

「いや、ちょっと待て、だから何で急にそういう話に?」

 道僧はきょとんとして首をかしげた。

「君は女だろう?」

「ちょ、て、てめえ、いつそれ気付いたっ?」

「白河口で」

「最初からかよ! 何で!」

「変わった雰囲気の佳人だ、と。気付くでしょう?」

 道僧はぐるりとまわりを見渡した。

 趙淳と路世忠は笑いをこらえる顔をしている。今ようやく事実を知った旅世雄は、目と口をぽかんと丸くしたままだ。趙淏は眉間をつまんでぶつぶつと何かをつぶやき、王才はいじけるように下唇を突き出した。

 裴顕は道僧と目が合うと、意地を張るのをあきらめたような、投げやりで開けっ広げな態度で、笑いの形に口元を歪めた。

「阿萬のちゃちな男装には、見ての通り、漢族のほうが引っ掛かるのさ。常識とか言葉遣いとか典型的な物の考え方とか、そういうのが邪魔するわけだな。俺も最初はだまされたけど、仲洌将軍と元直の様子があんまり素直なもんで、ぴんと来た」

「なるほど、漢族に特有の物の考え方が事実の把握を歪めてしまう例、というわけですか。とても興味深い」

 道僧の目に好奇心が宿った。途端、長いまつげの下に陰りがちだったまなざしが、きらきらと輝き出す。

 趙萬年は頬が朱に染まるのを自覚した。

「こ、この悶騒色狼むっつりすけべ!」

 趙萬年が指を突き付けながら罵倒して道僧の前から飛びのくと、趙淳がとうとう盛大に噴き出して笑い転げた。

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