六.人質を受け入れよ

 夜明けの風にあおられ、土山を包む火勢は激しさを増した。金軍はついに消火をあきらめ、撤退していった。

 金軍と入れ違いに、今度は襄陽軍が城外に出た。行方知れずとなった仲間を探すためだった。およそ二十人、まだ戻っていなかった。そのほかに、なきがらとなって帰城した者が十人ほどいた。

 襄陽軍が出した死者の数十倍の人数が、金軍では一夜のうちに喪われただろう。金軍のきょいんの策を破り、たくさんの兵を殺してのけた襄陽軍の勝ちだ。

 だが、城外に出て、荒れ果てて瓦礫だらけとなったかつての住宅地を歩き回り、返事がないと理解しつつも仲間の名を呼び、疲れ切った体に鞭打って、倒れた亡骸を一つひとつ調べて回る。こんな仕事をしながら、襄陽軍が勝利を喜べるはずもない。

 ちょうこうが珍客を連れ帰ったのは、襄陽がちょうど死者をいたむ悲しみに沈んでいる頃合いだった。ゆえに趙淳の珍客に対する態度も、最初はひどくそっけなかった。

「後で話をする。見張りを付けて、庁舎の一室にでも入れておけ」

 それから趙淳も趙淏も仕事に追われ、ごく短い休息を挟み、いつしか夕暮れ時となり、丸一日忘れていた食事をどうにか取った。そしてようやく珍客の存在を思い出し、対面の場を設けた。

 本来は何かしら形式ばった部屋を用意すべきだったかもしれない。が、趙淳は煩雑を嫌い、庁舎の執務室に珍客を呼び出し、互いに立ちっぱなしで話すこととした。趙萬年や王才など趙家軍の中核や、敢勇軍の主たる顔触れもそこに立ち会った。

 珍客は女真族の若い男で、立ち居振る舞いは静かに落ち着いていた。敵軍の中に置かれながら、恐怖する様子は一切ない。

「金国貴族、納合家の子息にして、ぼうこくの職にあります、道僧と申します。父、吾也は、襄陽戦線を束ねる完顔さつそく様の腹心の一人に数えられ、今次の戦においてもいくつかの重責を預かっておりました」

 道僧は古風で優雅な漢語を操った。鼻筋の通った端正な顔に、刃物によるまだ新しい傷が一条走っているのが、武張った雰囲気のない道僧には不似合いだった。

 剃ったり編んだりと風変わりな形に整えられた髪、獣の毛や皮を所々に配した帽子や服、つま先の尖った靴。道僧の出で立ちはきわめて珍妙で、特に髪型には目を惹かれてしまう。だが、道僧の受け答えは気品と知性に満ち、堂々としたものだ。

 これが貴族ってやつか、と趙萬年は思った。趙淳と趙淏の兄弟が高貴な血を引いているらしいことを除けば、きちんとした貴族をまともに見るのは初めてだ。

 貴族なんて所詮ただの贅沢三昧の金持ちに過ぎないだろうと考えていたが、いささか間違っていたかもしれない。

 納合道僧という男は、女真族は野蛮であるという漢族の一般的な思い込みを、わずかの時間のうちに見事に打ち砕いてのけた。趙萬年と同い年らしいが、もっとずっと成熟した人間に見えた。

 趙淳は初め、感情を押し殺したような無表情を保っていた。しかし、道僧と言葉を交わすにつれ、おのずと表情が和らぎ、普段の微笑ものぞくようになった。

「道僧殿、あなたが我が軍に投降した経緯は、ちゅうれつから聞いた。その勇気に敬意を表したい」

「勇気などと呼べるものでもありません。仲洌殿には、私たちを殺して三万五千の金兵をも殺すという選択肢がありました。それを採らず、私の言葉に対応してくださった誠実さには感謝の念が尽きません」

 趙淏は道僧に視線を向けられ、しかめっ面ではすを向いた。そつがなく上品で小奇麗だと女衆から評判の趙淏だが、道僧と対比するとさすがに、やさぐれたところが目立ってしまう。

「感謝など無用だ。ただでさえ恐慌に陥った三万五千の軍勢をさらかくらんして自滅に導くなど、正気の人間が実行する作戦ではない。私も四人の部下も死を覚悟して、恐怖してもいた。道僧殿が名乗り出たことで救われた命はここにもあると言えるかもしれない」

「戦場では誰もが死と隣り合わせなのです。皆様にとって、私は仇敵を体現する存在。何度殺しても晴らせぬほどの恨みと憎しみをいだいておられるかたも、きっといらっしゃるでしょう」

 まだ続きそうな道僧の言葉を、趙淳がさえぎった。

「だから皆の前で処刑してくれだなんて言うなよ」

「なさらないのですか?」

「そうすることは簡単だ。だが、人質や捕虜は無事に生きて故国に戻る見込みがあるからこそ、意味があって価値がある。俺たち襄陽軍は、金軍と戦う義務や金軍に対する憎悪と、道僧殿がここにいる現状とを同時に呑み込んで、受け入れなけりゃならない」

 旅世雄がうなずいた。

「伯洌将軍がこの男を殺さないと言うのなら、襄陽の皆は従います。正直なところ、俺はほっとしましたよ。俺はこう見えて、ただの善良な船乗りなんでね。人が死ぬのを喜ぶ趣味は、本当はねえんだ」

 旅世雄は先程からはいけんの腕をつかんでいる。裴顕は、今にも剣を抜きそうにわなわなと腕を震わせるが、旅世雄の人並外れた剛力を振りほどけずにいる。裴顕は常日頃の明るさなどかなぐり捨て、牙を剥く獣の顔をして唸り声を上げた。

「俺は違う! 俺は納得しねえ。大事な人がタコ金軍に殺された。この憎しみをそう簡単に呑み込んでやれるほど、俺は出来た人間じゃあねえんだよ! えいえい、この手を放しやがれッ!」

 趙萬年は、かつての裴顕が市中をわずらわせる暴れ者だったとりょすいが言っていたのを思い出した。今ではすっかり明るくひょうきんな青年に生まれ変わったかに見えたが、違うのだ。

 率直すぎる激情も暴力的な衝動も、裴顕の中に根付いたままだ。趙萬年には、裴顕の気持ちがよくわかった。取り澄ましたような道僧の前で剣を抜いてやりたいという欲望は、趙萬年にもある。

 道僧が振り返って裴顕を見つめ、ああ、と声を上げた。

「敢勇軍のはいえきめい殿。斧の見事な使い手の」

「てめえ、どうして俺を知ってる?」

「萬山で一度、戦いました。敢勇軍に撤退を知らせる合図がわずかに遅れていたら、私はあなたに打ち負かされ、命を失っていたでしょう」

「ああ……てめえ、あのときの」

「私はあのとき、死を覚悟しました。ところが、あなたは軍紀に従ってすぐさま武器を収めた。信じられぬ思いでした。不気味にも感じました。ですが、今こうして本当の感情を見せるあなたに、私はむしろ共感しています」

「何を言ってやがる」

「萬山で戦ったとき、私は、私の大事な人を探している最中でした。彼女の生死もわからず、半ば絶望していたときにあなたに出会い、もしやこの敵将に彼女は殺されてしまったのではと思いました。想像するだけでおぞましく、暴力的な感情が胸に起こりました」

 裴顕が、ふっと脱力して座り込んだ。大きく見開かれた目にはぎらぎらと涙が光り、まっすぐに道僧を睨んでいる。

すいえいから、どんなときでも軍紀に従えって言われてたんだよ。ただそんだけだ。てめえの事情や感情なんか、俺にとっちゃどうでもいい話だ」

 道僧が旅翠を知るはずもないが、何かを察したのだろう、口を引き結んで丁寧な挙措で一礼した。

 路世忠が裴顕を背にかばうように、あるいは牽制するように、一歩進み出た。

「今の襄陽には、裴益明と同じく、己の感情とどう向き合ってよいのかと苦しむ者が少なくありません。道僧殿には、やはりおとなしく軟禁されていただくよりほかにないでしょうな。女真族の服装も、見る者をいたずらに刺激しますゆえ、やめたほうがよろしかろう」

 趙淏も同意し、趙淳は路世忠に適当な服を見繕って届けさせるよう命じた。道僧は、軟禁されることにも女真族の装束を脱ぐことにも、少しの反発も見せない。

「御心遣い、痛み入ります」

 道僧は丁寧な漢語で言って、女真族の形式とおぼしきやり方で頭を下げた。

 皆が道僧の人柄を認め、受け入れつつあることを、趙萬年は感じた。自分ひとりだけが蚊帳の外だとも感じた。道僧は一度も趙萬年を見ないのだ。品行方正な態度を貫く道僧の冷たい本音を、趙萬年だけが察知している。

「おい、おまえ。道僧、おまえに話がある」

 趙萬年はついに言った。道僧が、ぴくりと肩を震わせた。

「何でしょうか?」

 道僧はやはり趙萬年を振り返らない。趙萬年はきつく唇を噛み、にじんだ血の味を飲み込んで、言った。

「オレのこと、覚えてるよな? おまえの友達のさつとく寿じゅを討った、趙阿萬だ」

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