五.アデュー

 漢江の両岸を結んで鎖状に連なる炎が、赤々と燃えている。縄で結ばれた数十のいかだが対岸まで渡され、筏の上に山と積まれた薪がごうと化しているのだ。

 風が炎をあおっている。あの勢いでは、夜明けより前に薪は燃え尽き、筏ごと水中に呑まれていくだろう。渡し場へ殺到する金軍は、炎が水没せぬうちに対岸に至らねば殺されてしまう、と言わんばかりの狂騒を呈している。

「あれは駄目だ。あんな流れができてしまったら、群衆を止めることなどできない」

 馬上で松明たいまつを手にした道僧は、嘆息した。くつわを並べた李通古もうなずいた。多保真は、おびえる馬の首をしきりに撫でてやりながら、道僧と李通古に問うた。

「それでは、わたしたちにできることは何もないの? そんなはずはないでしょう?」

 道僧は炎を見やった。李通古の横顔が同じものを見ていると気付き、声に出して言った。

「一か八かだが、明かりを消してしまおう」

「ああ、俺もそれを思っていた。また別の混乱が起こってしまう可能性もあるが」

「真っ暗になれば、渡河中を宋賊に射撃される危険性はなくなる」

「確かに、攻撃を受ければ混乱はまぬかれない。それよりは、明かりが消えるほうがまだましか」

 三人はうなずき合い、かがりの筏のもとへと馬を飛ばす。

 炎を連ねた筏の鎖は、いくらか小高くなった崖の下にあった。道僧が馬から降りて崖から見下ろすと、水面までの距離は背丈を倍した程度のようだ。水面は無秩序に波立ち、映り込んだ炎の明かりはめちゃくちゃに揺らめいている。

「この高さなら飛び込める」

 道僧の言葉に、馬上の多保真が眉をひそめた。

「どれくらい深いの? 道僧、あなた、泳げるわけではないでしょう?」

「筏をつなぎ合わせる縄が対岸まで張られている。それを伝っていけば、どうにかなるはずだ」

 李通古が馬から降りた。

「俺も行こう。多保真殿には馬を頼む」

「待って、わたしも行きたい! わたしひとりで何かを成し遂げられるはずがない。こんな戦場では、ただ一人の力なんて……」

 唐突に、馬たちが鼻を鳴らし、か細くいなないた。黒々とした大きな目に恐怖の影が差す。

 次の瞬間、多保真の乗った馬の首に深々と、つばのない短剣が突き刺さった。馬が棹立ち、多保真が投げ出される。手傷を負って怯えた馬は暴れ、走り出した。それにつられて無傷の二頭も走っていってしまう。

 道僧は多保真を助け起こした。道僧の手から松明たいまつをひったくった李通古が、二人を背にかばいながら、闇を睨んで叫んだ。

「何者だ!」

 闇が剥がれ落ちたかのように、暗色のじゅうをまとった漢族の男が、足音もなく姿を現した。

「うまく狂乱をあおったつもりだったが、流れに呑まれることなくこんを断とうとする者がいようとは、いささかの誤算だった」

 水上の炎に照らされる秀麗な眉目、隙のない挙動の長身、男盛りといった年頃にして、威風堂々たる覇気をも放っている。

 多保真がいぶかしげにつぶやいた。

「襄陽守将の、ちょうはくれつ?」

 漢族の男は唇の片端を持ち上げて笑った。

「他人の目には、私と大哥あにうえはひどく似ていると映るらしいが、さほどだろうか? 守将たる趙伯洌は城内にあって指揮を振るっているはずだ」

「おまえは趙伯洌の弟なの? ああ、そうだわ。白河口の対談のとき、趙伯洌のすぐ後ろにいた男ね」

「記憶に留めていただいて光栄だ、蒲察家の御令嬢。隣は納合家の御令息だな。そして手前の勇ましい貴君も納合家の血を引き、知恵者として今を時めく李将軍」

 多保真も李通古も言葉を失った。道僧はうそ寒さを覚えながら、辛うじて、かすれ声を絞り出した。

「なぜ私たちのことを知っている?」

「目立つ者はよく見えるゆえ」

「萬山の兵に偽の撤退の合図を知らしめたのは、あなたなのか?」

「さて? そうだとしたら?」

「渡河の最中を狙って攻撃をおこなう予定なのだろう? 頼む、それをやめさせてくれ。金軍には既に撤兵の意思がある。一度北岸に退いた兵が再び南岸の襄陽を攻めることはない。全軍の撤収には今だ幾ばくかの時を要するが、決して長くはかからない」

 趙淳に似た男は、笑うのとは違うやり方で目を細めた。何も持っていないかに見える掌の内側に、その実、つばのない短剣が隠し込まれている。ちらちらと暗器の存在をほのめかしながら、男は道僧を見据えていた。

「私がごうを焚いて合図を送れば、水中に待機した五千の伏兵が一斉にを放つ。漢江の流れに足を取られる金軍の頭上には、箭の雨が降り注ぐことになるだろう。襄陽軍にとって、またとない戦果を得る好機だ。これを見過ごせと、貴君は言うのか?」

「見過ごしていただきたい。頼む。今ここで渡河する兵たちが再び攻撃に転ずることはない。彼らは破れ、ただ逃げ惑うだけの無力な群衆だ」

「その言葉を信ずるに足る根拠はどこにもない」

 道僧は一度、多保真の体をぎゅっと強く抱き締めた。そして多保真を放して立ち上がり、道僧を制しようとする李通古の腕を逆に制して、一歩、二歩と前に出た。

 男があからさまに短剣を構えた。

 道僧はおもむろに、腰に提げた弓を捨て、づつを捨て、小型の木牌たてを捨て、剣を捨てた。背負った予備の箭筒も捨てた。袖の内側に収めていた短剣も捨てた。

 捨てられる武器をすべて捨てた道僧は、帽子を取って胸に抱え、男の前に膝を屈した。

「金国貴族、ばんの官にしてこうしょうぐんの納合吾也の子、ぼうこくの官にしてゆうくんこうの納合道僧、当夜を以て襄陽軍にくだり、虜囚の身とあいりましょう。金軍は必ず二月のうちに撤兵します。この言に偽りがあれば、いかなる拷問も甘んじて受けます。殺してくださっても結構」

 多保真と李通古が悲鳴のような声で道僧の名を呼んだ。飛び出してこようとする気配は、しかし制止させられた。男が道僧に短剣を突き付けたのだ。

 道僧の胸は穏やかだった。これほど冷静に己をかんしたのは、生まれて初めてかもしれない。道僧は眼前にある短剣の切っ先を見つめた。

 男が道僧に問うた。

「貴君を人質としてとらえる代わりに、三万五千の兵を一挙に叩く好機を捨てよと、貴君は私に言うのか?」

「虫のよい願いであるとは存じます。ですが、なにとぞ。どうか兵を御収めください。金国内において、私、納合道僧の名は小さくとも、我が父、吾也の名は広く知られています。人質としての価値は存分にございます。どのような扱い方をもなさってください」

「納合吾也の息子に価値があるとして、貴君が本物である証拠は?」

「完顔さつそく様より直々に拝受した南進伐宋右翼副統の印章を身に付けております。また、何より、あなた様が御自身の目で私の顔を御覧になり、私を納合道僧であると判断なさったはず」

 男はかすかに笑った。

「違いないな」

 多保真が立ち上がり、道僧に駆け寄ろうとした。途端に足を押さえてうずくまる。馬から投げ出された拍子に傷めたのだろう。多保真は座り込んだ格好で、道僧に手を伸ばした。

「行かないで! 嫌よ、道僧、あなたまでわたしのそばからいなくなってしまうなんて嫌! 宋賊に何もかもを奪われてしまうなんて嫌よ! 道僧、行かないで、御願い!」

 男は道僧の両手首をまとめて縛り、それから、振り向いてよいと道僧に告げた。道僧は振り向かなかった。えて漢語を選んで、言った。

「多保真、私が宋にくだったことを撒速様や父上に伝えてほしい。襄陽の優位はくつがえらない。金軍にできることは、なるだけ穏やかに、速やかに湖北から撤退することだ」

「わたしたちは負けるの? 道僧、あなたは、金が宋賊に負けることをとするの?」

「勝ち負けと兵の命と、どちらが大切だ? 今、三万五千の兵の命を救うため、私にできることは何だ? 多保真、私の選択を否定しないでほしい。私がここで生きて襄陽軍の人質となったことを撒速様に証言し、みょうちょうには三万五千の兵の無事を確認してほしい」

 男がまた、油断なく両眼を細めた。

「その発言、私に釘を刺すつもりか」

「約束は守っていただけるのでしょう?」

「当然だ」

 李通古が道僧の名を呼んだ。

「道僧! 道僧……!」

 名を呼んだきり、言葉が続かない。道僧は、なおも振り返ることなく先手を打った。

「兄上、自分が代わりに襄陽軍の人質となるなどと言わないでくださいね。多保真と父上をよろしく御願いします」

「待てよ、道僧、そんなこと……それは、俺がおまえの居場所を奪ってしまうということだぞ」

「みじめな身の上と呼ばれていたはずの兄上が自力で居場所を手に入れたのですよ。私は、できることなら、兄上とは対等な朋友として出会いたかった。そうしたら私はきっと、もっと正直に、あなたに負けたと悔しがることができたのに」

「今すぐ悔しがれ、! 礼儀なんて……兄だから、年長者だからと、そんなしょうもない理由で譲られたり敬われたりしたくないんだよ!」

 道僧は、そっと笑った。

「兄上がうらやましい。私は、己の思うままに殻を破って生きることがひどく苦手だから」

 そろそろ行くぞ、と男が言い、道僧の手首につないだ縄を引いた。

「鼻と口をふさいで息を止めていろ」

 男はそう命ずると、道僧の体を肩にすくい上げて担ぎ、そのまま水面へと跳んだ。

 道僧はたちまち冷水に呑まれた。驚きのあまり息を吐き出し、あぶくにまみれたのは一瞬のことで、すぐに引き上げられる。

 気が付けば、道僧は軽舟に乗せられており、軽舟は滑るように進んで渡し場を離れつつあった。軽舟には、趙淳に似た男のほかに四人の兵士が乗っていた。

 男が道僧に帽子を差し出した。道僧が無言で受け取ってそれをかぶると、男は、遠ざかる水上のかがりあごで示した。

「あそこに五千の伏兵などいない」

 道僧は目を見張った。男は淡々と続けた。

「五千もの兵を割く余裕は、襄陽にはない。伏兵は、ここにいる我々五人だけだ。我々は時を見計らって金軍が渡る浮き橋を焼き、偽の情報でかくらんして同士討ちをあおるつもりだった。わずか五人の工作兵でも、金軍に多大な損害を与えられるのだ」

 道僧は、止まっていた呼吸をゆっくりと吐き出した。胸を押さえる。ずぶ濡れの服をつかむと、ぼたぼたと水が音を立てた。

「私は味方を救ったのですか?」

「まさしく。しかし、その救われた兵が再び襄陽を攻める意思を見せれば、我々は微塵の情けをかけることもしないだろう。そのときは、貴君の命もない」

「承知しています」

「貴君は自ら進んで人質となった。敗残の虜囚ではない。御身を丁重に扱うこと、約束しよう。五千の伏兵などとあざむいた男の言葉など、信用に値しないかもしれないが」

 道僧は黙って一礼した。

 生きて故郷に帰ることは二度と叶わないだろう。再び多保真とあいまみえることもあるまい。吾也や李通古、撒速、たくさんの人の顔が頭に浮かんでは消える。

 悲しくはなかった。寂しくもなかった。ただ、ひりひりとして痛い。

 例えて言えば、今までの道僧には、使えもしない翼が生えていたように思う。吾也や多保真は見事に羽ばたくことができるのに、道僧は無様に地を這うばかりだった。姿かたちだけ立派な翼の重みに耐えかねてあえいでいた。

 今、ひりひりと痛むのは、翼を斬り落とした傷口が血を流しているからだ。とても軽くなった。この痛くて軽い体こそが道僧の正しい身の丈なのだ。

「さようなら」

 道僧はつぶやいた。女真族の言葉を使うことも、これからはなくなるのだろうと思った。

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