四.デフェット

 大火が夜空をあぶっていた。襄陽の東南で炎上した土山は、二里(約一.一公里キロメートル)離れたさつそくの本陣からもよく見えた。

 凄まじい激戦だった。そしてさんたんたる敗北だった。

 撒速の七人の腹心のうち一人が戦場で行方知れずとなり、一人が炎を浴びた重症で生死の境をさまよっている。彼らの率いる士官もまた死傷者がはなはだ多く、その下に就く兵卒ともなると被害の実数がつかめない。

 辛うじて撤退が叶った者だけ、汗も埃も拭わぬまま、緊急の軍議に応じた。さしもの撒速の顔付きも堅い。

「してやられたな。十日間、襄陽軍は知恵と力を蓄え、爪と牙を研いで待ち構えておったのだ。今宵、我が軍が戦場に送り込んだ兵は十万を超える。対する襄陽はどうだ? わずか一万の兵が、万余の民を背に守って戦い、我らに打ち勝った。この差は何だ?」

 撒速は一同を見渡した。ぎらぎらと光るまなざしは敗将たちを圧殺するかのようで、誰一人として正面から撒速に向き合うことができない。

 すすだらけの額を地に付けて平伏する者がおり、己の膝を殴りながらえつする者がおり、金兵の惰弱と宋賊の卑劣を罵倒する者がいる。

 道僧は、黙して顔を伏せた吾也の後ろで、妙に静かな思いで議場を望んでいた。

「負けたのだな」

 ささやくと、隣に立つ李通古がぎょっとしたように道僧を見た。

 ちょうど撒速が道僧へとまなざしを向けた瞬間でもあった。負けた、と動いた道僧の唇の形を、きっと撒速は正確に読んだ。

「何ぞ意見があるのか、道僧よ」

 撒速が皮肉の笑みを浮かべた。

 熱波に鼻面を打たれたかのように、ばしんと、道僧の意識に痛みと痺れが走った。眉間に力を込めて視線を上げたまま、道僧は小さく咳払いをして言った。

「襄陽戦線から撤退すべきではないでしょうか」

 議場が揺れた。幾多の低いざわめきが夜気を熱して震わせ、あるいは凍らせて砕いた。大声を出した者はいない。とっに大声が出るほどの気力は誰にも残っていなかった。ただ皆が葉擦れのようにざわめいた。

 人の数だけ様々な感情と思惑を乗せた視線が道僧に突き刺さる。その中で最も強靭で苛烈なまなざしの持ち主、すなわち撒速が、押し殺してなお轟くような声で道僧に問うた。

「おぬしが儂であれば、今すぐ兵らに、退けと命じるか?」

 道僧が口を開きかけたところで、李通古が道僧の腕を引いてかぶりを振った。李通古の目が必死で訴えている。

 何も言ってはならない。何を言っても、仮にそれが正しいとしても、今この場では誰の同意も得られない。撒速様に非礼を詫びろ。今は黙っているんだ。

 李通古の思いは道僧にも理解できる。もしも李通古が撒速に問われたのなら、道僧もまた義兄の発言を止めただろう。

 道僧は李通古にそっと笑みを送り、撒速に向き直った。

「私に全軍の指揮権があるのなら、退けと命じます」

「その心は? 何を以て負けたと判断した?」

「金軍は襄陽戦線に駐留すること三箇月に至り、兵は心身ともに疲弊しています。きょいんの策と特別賞与の知らせは、兵の最後の望みでした。それをくも無残に打ち砕かれた上は、士気はもう立て直せません。加えて、あと二箇月もすれば暑熱の季節が訪れます」

 撒速は試すようにまた道僧に問う。

「暑熱が問題となるか?」

「金軍は暑さに慣れておりません。病に倒れる者が増えるでしょう。しかも、夏になれば湖北には雨が降り、河川が増水して船の道があちこちに通じてしまいます。襄陽軍の奇襲がますます脅威となりましょう」

 議場のざわめきが収まらない。

 李通古はきつく道僧の腕をつかんでいる。その箇所をどうやら負傷しているようだと、いまさらながらに道僧は気が付いた。漢族の重歩兵と違い、女真族の騎兵はごく簡素な防具で胴体を守る程度だ。機動力を妨げられ、馬を奪われれば、騎兵は実にもろい。

 撒速が唐突に告げた。

わいなん戦線は撤退を始めておる」

 ざわめきが止んだ。息を呑む音、唾を飲み下す音、かがりの爆ぜる音が聞こえた。議場から離れた兵屯がひどく騒がしいのがわかる。負傷の痛みを訴えるうめき、不安のあまり泣き叫ぶ声、黙れと怒鳴り散らす士官の号令。

 撒速は淡々と言った。

「淮南戦線は勝った、ゆえに撤退を始めた。宋賊の国主が密書にて淮南戦線に和議を申し入れ、いくつかの条件で以て同意に至った。和議を取りまとめたのは我が朋輩のぼくさんりんだが、かねてから病を得ておってな、先頃ついに死んでしもうたらしい」

 ざわめきがまた急速に湧き起こって、しぼんだ。

 撒速は目を閉じ、深い息をついた。炎に照らされた顔には、五十余年の歳月を生きてきた男のしわが、ひどく柔らかそうな形で影を為している。

「臨喜の亡骸は、我らが金国の都、ちゅうまで運ばれる。葬儀には儂も参ぜねばならぬだろう。しかし、臨喜が儂に託していった課題を片付けることなく北帰することは、どうにも不甲斐なくて歯痒い」

 次第に低く押し殺されていく声は、しまいには、食い縛った歯の間から漏れる唸りとなった。撒速は目を開けた。そうぼうに炎が映り込んで躍り、目尻に差したはずの柔らかな影など瞬時に消え失せた。

 撒速は道僧を見据えていた。まるで道僧が、今は亡き臨喜であるかのように、撒速は言い募った。

「金軍は淮南で勝ち、四川は自ら我らが軍門にくだり、湖北の南半分も制圧した。臨喜と宋主の間に交わされた密約で、金が撤兵することと引き換えに宋賊は年毎に賠償金を支払うこととして、条件がまとまりつつあった。あとは儂が襄陽を落とすだけだった」

 道僧は問うた。

「襄陽を落とせば、我が国にどのような利益があったのでしょう?」

 撒速は激高した。

「愚問であるぞ! 襄陽を落とし、たびの侵攻の成功を決定づければ、攻撃停止と引き換えに襄陽の割譲を宋賊に求めることができる。あの城が我らの手に入れば、一時は条約に従って撤兵せざるを得ぬとしても、またいつでも湖北に侵攻できよう!」

「愚問を承知で御尋ねいたします。なぜ撒速様は、いえ、我らが金という国は、なぜ襄陽を欲するのでしょう? 襄陽の先にある湖北の占有を目指すのでしょう? 国土の拡大をとするのでしょう?」

「道僧よ、国土の拡大を望み、民を富ませんと求めることに何の理由が必要だというのだ? 我ら女真族の祖先が森の暮らしを離れ、華北に居を移したのはなぜだった? 飢えや渇き、寒さや猛獣の恐怖から逃れんがためだった。知らぬとは言わせぬ」

「無論、存じております。先祖は命をつなぐため、戦をおこなう道を選びました。そして華北に土地を得た。森を離れて暮らす知恵を得た。漢族と協調して国を建てる道を得た。ですが、先祖が築いた国の後世すえたる私たちが戦を繰り返すのは、なぜです?」

後世すえか。道僧、おぬしは金国が完成し完熟した黄金郷であると思うておるのか? 否であろう。国は、ただ一人の力によって建つのではなく、わずか一時代の政治によって建つのでもない。国に生きる者すべてが国を建て続けるのだ。国が滅びるそのときまで延々と」

 道僧は目眩めまいがするようだった。

 違うのだ。国とは何かを語りたいのではない。己の小さな身の丈に見合う、小さな出来事について話をしたいのだ。

「戦によって多くの兵が死にました。より多くの兵が怪我を負い、さらに多くの兵が疲れ果てています。それでも、戦をして国の拡大を目指すことが、国を建てることと同義であるといえるのでしょうか? それとも、兵の視点で物を述べることが間違いなのですか?」

 道僧よ、と二つの声が同時に名を呼んだ。撒速と吾也である。

 撒速は続けて何かを言い掛けた。だが、その声は周囲の悲鳴に呑まれた。

 吾也は体ごと振り返った。手に白刃が抜かれている。吾也は剣を振りかぶる。

 李通古が道僧の腕を引いた。道僧は李通古のほうへ倒れ込む。強烈な熱が頬から額へ走り抜けた。熱はたちまち痛みに変わり、痛みと共に血があふれるのがわかった。

「父上、御止めください!」

 李通古が叫んだ。道僧は李通古の背中越しに、剣を振り上げた吾也を見た。

「どけ、通古。納合家のはじさらしをこのままのさばらせておくわけにはいかん。撒速様への非礼、死んで詫びさせる」

「どきません。今回の道僧の一連の言動は、確かに非礼な点もあります。でも、人死にで何もかもを解決させるのはどうなんでしょう? 戦は出世の近道だけど、俺だって、人を死なせて平然とはしてらんないんです」

「どけと言うのがわからんのか!」

 吾也が怒鳴った。李通古の肩がびくりと震えた。道僧が身をすくませたまま微動だにできないのと同じように、李通古も、父の暴虐に恐怖してしまう本能を共有しているのだ。

 しかしながら、また事態は風雲急を告げる。

「恐れながら、申し上げます! 一大事です! 撒速様、皆様、どうぞ御聞きくださいませ!」

 女の声が議場を貫いた。急報をもたらすべく議場に飛び込んできたのは、多保真だった。

 蒲察家の寨で戦火を避けているはずの多保真が、なぜここにいるのか。選ばれた者だけの軍議の場に、いかに急使といえども、なぜたやすく近寄れるのか。

 もう金軍の襄陽戦線における体制など何もかもほころび出しているのだろうと、道僧は感じた。

 多保真は告げた。

ばんざんに駐屯する者たち全員に、いつの間にか偽の命令が行き渡っていたのです! もしも距堙の策が破られれば全軍こぞって撤退せよ、漢江の渡し場に一斉に明かりがともれば渡河の合図である、と! 撤退も渡河も撒速様の御命令ではございませんでしょうっ?」

 悲鳴じみた声で言い切った多保真は、うまく息ができなくなった口を両手で押さえ、がくりと膝を突いた。

 呪縛が解けたように、道僧は動いた。李通古もまた同時に動く。二人は父に背を向け、多保真に駆け寄った。

 多保真は、馬を飛ばしてきたために汗をかいていながら、かがりの明かりの中でもわかるほどに青ざめている。頬も手も冷たかった。喉が壊れた笛のごとく音を立てている。道僧は多保真の背中をさすってやるが、苦しげな呼吸がやわらぐ様子はない。

 李通古が鋭く言った。

「道僧、彼女の口をふさいでやれ。息をさせちゃ駄目だ」

「口をふさぐ? なぜ?」

「俺も理屈は知らない。でも、そうすりゃ治るんだよ! ああもう、ぐずぐずしてる場合じゃないだろう!」

 李通古は道僧を押しのけ、己の口で多保真の口をふさいだ。多保真は、びくりとした。が、それ以上の抵抗はなく、幾ばくかの時が経つ。

 多保真は目を閉じていた。李通古は用心深く目を開いたまま、多保真の肩や背中を医者のように手早く按じた。多保真の体から力が抜けていく。

 道僧は身じろぎできなかった。まばたきのやり方さえ忘れていた。血管の中を、さわさわと音を立てて血が流れるのを聞いた。血の気が引く音なのか、頭に血が上る音なのか。

「もういいはずだ」

 多保真に告げる李通古の声は、必要以上に冷淡に響いた。そっと突き放された多保真は、肩で息をして李通古に一礼し、口元に触れてから顔を上げ、わずかに震える声で改めて撒速に報告した。

「萬山に置かれたすべての寨の兵、合しておよそ三万五千が宋賊の計略にかかり、順次に漢江の渡河を始めております。宋賊がともした明かりを味方の合図だと信じ込んだのです。このままでは渡河の最中を宋賊に狙われ、三万五千の兵は死に絶えてしまいます」

 撒速がうなずき、吾也に視線を投げた。

「多保真よ、よく知らせてくれた。吾也よ、兵をまとめて発て。そして納合家の生意気な息子たちよ、おぬしらは今すぐに萬山の麓の渡し場へ赴き、兵の渡河を止め、状況の把握に努めよ。威勢のよい口を利くならば、働きでその心意気を示すがよい!」

 道僧と李通古は同時に礼し、すぐさまきびすを返した。

「待って、わたしも行きます! わたしひとりの力では兵を止められなかった。蒲察家の令媛むすめとして役割を果たせなかった。この不始末、必ず片を付けます!」

 宣言した多保真がまだふらつきながらも、道僧と李通古に続いた。三人は共に議場を後にしながら、互いに目を合わせず、言葉も交わさなかった。

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