三.暗夜に全軍出動せよ
夜が更けると、初めに
無論、陽動である。
二月十日。雲が多く、月が見えない夜。襄陽軍はついに、金軍が十日かけて支度を整えた
襄陽の東南、濠を挟んだすぐ目の前にまで、新たな土山は迫っている。夜間に工事はおこなわれず、土山の周囲には騎兵が三千、灯火をともして護衛に詰めていた。
金軍の騎兵は、城の東西で突如として起こった大音声に驚き、すかさず二手に分かれて駆け付けた。が、そこで騎兵を迎え撃つはずの襄陽軍は影も形もない。夜目の利く者ならば、濠の上に水尾が残るのを見分けられただろう。それだけだ。
土山の護衛が手薄になったと見るや、既にひそかに城南の濠を渡っていた
この一群には身軽で足が速い者を選んである。趙萬年たちは口に
金軍が襄陽軍の襲撃に気付いたのは、趙萬年たちが最初の任務を成し遂げた瞬間だっただろう。彼らは、あちこちにともされた金軍の灯火に接近し、手にした桶の水をぶっかけた。
あたりは闇に包まれた。土山の護衛を担う金軍騎兵は、人馬ともに悲鳴を上げた。
闇に目が慣れた趙萬年たちは、悲鳴を標的に素早く動いた。四、五人で取り囲んでまず馬を仕留め、次いで兵を仕留める。
灯火が消えたことを合図に、
戦う力を持つ者で、今宵戦わぬ者は一人もいない。非力な民衆でさえ役割を求め、撤退時の陽動においては大きな働きを担うこととなった。
襄陽の眠らぬ夜が今まさに始まった。
趙淳の指揮はまたたく間に全軍に行き渡り、陣容が整った。城の東西の大音声が陽動だったと気付いた騎兵が戻ってきたのは、襄陽軍の戦闘準備が完了した後である。
騎兵が突進してくる。
「拒馬を前へ!」
馬の脚に引っ掛かる高さの柵を、騎兵の進路に放り出すようにして設置する。
騎兵は柵に足を取られ、あるいは立ち往生し、あるいは転倒した。手にした
趙萬年は命じる。
「中陣、射撃せよ!」
「中陣、射撃! もう一度だ!」
整然たる指揮が叶ったのは二度目の斉射までだ。押し寄せる騎兵が拒馬と
「土山をぶっ壊すのがオレたちの最大の目的だ! 後陣まで騎兵の突入を許すなッ!」
趙萬年は叫んで槍を振るう。仲間もまた大声を上げて応える。
めちゃくちゃな乱戦である。馬上から打ち下ろされる騎兵の一撃に武器を破壊されれば、
趙萬年の見ている前で、趙家軍の兵士が一人、騎兵の槍を食らって死んだ。趙萬年は奥歯を食い縛って悲鳴を呑み込む。焦るな。悲しむな。殺された味方の数より
あたりは
力仕事に手慣れた
「こりゃあ骨が折れる。タコ金軍め、大したもんを造ってくれやがって!」
罵った旅世雄は、黄土の下にのぞいた骨組みを狙い澄まし、鍬を突き入れた。鍬の刃が食い付いたのは、幾本もの木材が交差して噛み合う一点だ。
旅世雄は力任せに鍬を引いた。骨組みごと引きずられた土山は、内側に詰められた薪や干し草をぶちまけながらひしゃげる。
これを目撃した
「さあ、かっぱらえ! 薪も干し草も、たっぷりかっぱらっちまえ!」
趙淳の晴れやかな声に気付いた金軍の騎兵が、何事かを吠えながら突っ込んでくる。趙淳は
ただ一撃。
騎兵の突進の勢いを、趙淳は逆手に取って利用した。趙淳は偃月刀を突き出して待ち受けただけだ。騎兵は、避けようのない速度で自ら刃の正面に飛び込んできて、そのまま貫かれた。
趙淳は偃月刀を振るう。刺さっていた騎兵の肉体がすっぽ抜けて落ちる。唐突に背中が空になった馬が驚いて立ち尽くす。
土山に異変ありとの報が早くも金軍の
襄陽の城壁上の弩兵は
闇が襄陽軍の味方だった。灯火を用いて駆け寄るのはすべて金軍だ。襄陽軍は明かりを見出せばこれに駆け寄り、声を掛け合って連携し、敵を分断しては各個撃破する。
激戦に次ぐ激戦だった。
趙萬年は時の経つのも忘れて暴れ続けている。一度、槍を取り落として腕の疲労を知った。拾い上げた槍の刃がぼろぼろにこぼれている。張り上げ続ける声は嗄れ、土埃を吸い込んで咳が出た。
自嘲と自戒を声に載せ、吠える。
「くそったれ、へばってる暇なんかねえ! 夜が明けるまで戦うぞッ!」
おうッ、と力強い仲間たちの
二更(午後十時頃)に作戦が開始され、猛烈な速さで時が過ぎ、いつしか五更(午前四時頃)に達していた。空の端は夜明けを控えて白々とにじみ始めている。
襄陽軍は、戦闘に従事する者がいる一方で、趙淳が指示した「かっぱらえ」を実行する者もいた。五更になると、長さ約百歩(約百五十六
趙淳は、土山破壊の部隊に命じた。
「そろそろいいだろう。燃やしちまえ!」
命令は城南の濠を渡り、
老兵たちは、若い前線兵たちがかっぱらってきた干し草を油にひたし、びっしりと荷車に積み上げ、支度を整えていた。趙淳から焼却の命令が出されたと知るや、荷車を
荷車は次々と混戦の只中を突っ切って土山に至った。荷車の到来に気付いた襄陽軍はすかさず駆け寄り、油を吸った干し草を土山の破れ目に放り込む。しまいには荷車ごと土山に突っ込むと、敵兵から奪った
あっという間に火の手が回った。油を吸った干し草が初めに燃え上がり、次いで薪に、更には太い木材に燃え移る。
襄陽軍は歓声を上げた。それをはるかに上回る音量で、金軍が悲鳴を上げた。己の肉体が炎に呑まれてしまったかのような絶叫である。騎兵も歩兵も戦闘を放り出して土山に殺到し、火を消そうと
王才が趙萬年の傍らで顔をしかめた。
「あいつら、戦いよりも火消しが大事なのかよ?」
「土山が連中の頼みの綱だったんだ。城壁に一番乗りしたら大出世が約束されてるんだぜ」
「なるほど。御愁傷様だ」
炎に照らされて赤々とした頬で、王才は皮肉っぽく笑った。眉間や鼻筋をくっきりとした影がかたどるせいで、王才の顔は大人びて見えた。
「
「知ってる。後で診てくれ」
「おう、めちゃくちゃ染みる薬、塗ってやるよ」
土山の炎上により、戦場の流れが変わった。これを機と見た趙淳は、城内へと伝令を走らせ、撤退の応援をせよと指示を出した。
指示を受けた城内は沸き立ち、張り切った。軍旗が打ち振るわれるのを合図にありったけの太鼓を叩き、東南角の弩兵も羊馬牆の老兵も、夜を徹する戦闘に付き合った民衆も、あらん限りの声を上げた。
猛烈な大音声が城内から発せられた。城外の襄陽兵も思わず「こいつはすごい」とこぼすほどだ。幾万かの無傷の援軍が今にも濠を越えて飛び出してくるのではないかと錯覚する。
金軍は土山の消火に努めながら、新手の出現に備え、密集して防御する陣形を取った。襄陽軍はその隙に、見事なまでの逃げ足の速さで撤収していく。
通常ならば「進軍」を意味する太鼓の音が、今宵は銅鑼の音に代わって「撤退」の合図だった。金軍がそれを察するより先に、襄陽軍はすべて城内に引っ込んだ。城南に渡してあった浮き橋も外す。
城外には、炎上する土山だけが残された。金軍の消火活動もむなしく、朝めく風に
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