二.プレパラシオン

 道僧は顔を上げた。あ、と声にならない息の塊を漏らしてしまう。

 さつそくがそこにいた。馬に乗って、この最前線の陣を訪れているのだった。撒速の傍らには、吾也と多保真がおり、少し遠くに多保真の父の姿もある。

 道僧も李通古も、周囲の兵士も皆、姿勢を正した。が、撒速はいつも通り、軽く手を払う仕草をして、堂々たる体格に見合う深い声で告げた。

「納合家の息子たちよ、楽にしておれ。兵の皆よ、儂のことは気にせず、仕事に励め。さて、道僧、通古、おぬしらの活躍はあちこちから耳に入っておる。殊に、この口の悪い吾也が手放しで誉めおるのだ。実に珍しく、愉快なことよ」

 吾也の視線が道僧に突き刺さった。そんなふうに道僧は感じた。唇が勝手に動いた。

「恐れながら、撒速様。兄と並べて私を誉めることは、誤りです。私は何もしておりません。今次の作戦指揮に貢献しているのは、ひとえに、才覚あふれる我が兄、通古でございます」

 李通古が慌てたような早口で割って入った。

「恐れながら! 違います、道僧は謙遜が過ぎます。俺ひとりでこんな大掛かりな作戦の裏方ができるはずもないでしょう。襄陽近辺の地理や水系、襄陽戦線を担う将軍方の性格や関係性など、作戦に不可欠な情報を俺にくれるのは道僧と多保真殿なんですよ!」

 思い掛けない李通古の発言に、道僧は目を見張って息を呑み、多保真は頬を染めて甘やかに微笑んだ。

 多保真は李通古の傍らへと馬を進め、騎乗のまま優雅に一礼した。

「御役に立てて光栄ですわ、通古様。事実を正視するならば、しがらみや因縁を抱えた方々もいらっしゃいますけれど、過去は過去。わたしたち若人は現在を生き、この身で未来を築いていくのが務めです。人の和を以て策を立てることに貢献でき、嬉しゅうございます」

 多保真のとびきりの笑みを向けられた李通古が、はにかんだように目を泳がせた。まぶしい西日を受け、李通古の両頬にある縦長のくぼの上にまつげの影がくっきりと落ちる。

 道僧の胸が不意に痛んだ。馬上の二人の、互いの言葉で照れてしまった笑みの応酬は、詩情を誘うまでに美しかった。割って入る隙のない絵が、そこに描かれてしまった。

 吾也が若い三人をじっと見ていた。楽しげな表情が口元にあるのを、道僧は目撃した。

「我が血を引く息子と、金国随一の才媛と名高い多保真殿。さぞや似合いの夫婦めおととなろう。気が早いやもしれぬが、儂は孫の誕生を心待ちにしておる。多保真殿、息子ともども納合家をよろしく頼むぞ」

「はい、吾也様。こちらこそ、ふつつかてんと父を嘆かせるようなわたしではありますけれど、よろしく御願いいたします」

 多保真が己の口元や頬をしきりに触れるのは、ますます熱くなってしまった顔をごまかすためだろう。

 道僧は正反対だった。血の気が引くのを感じた。

 吾也は多保真に、息子をよろしくと言った。道僧をよろしくとは言わなかった。まさか本当に、吾也は嫡男の地位だけでなく、多保真との婚約をも道僧から奪い、李通古に授けようというのか。

 道僧は懸命に多保真を見つめた。見つめ返し、笑い掛けてほしかった。だが、多保真は李通古と話をし、吾也の問いに答え、かと思うと視線を兵士らに投げ掛けては手を振って激励してやっている。

 多保真、と呼べばよい。こちらへ振り向かせ、呼び寄せ、愛らしい笑顔を独り占めにすればよい。

 道僧は、しかし、声を掛ける代わりに己の手を見つめた。風のように透き通っているのではないかと疑った。

 掌の上に、力なく折れた指の影が掛かっていた。肉体があるから影ができるのだ。残念ながら道僧はここにいる。多保真が李通古とばかり話をするのは、道僧が透き通ってしまったからではない。李通古がまばゆく輝いているからだ。

 撒速がよく響く声でおもむろに告げた。

わいなん戦線を指揮する我が朋輩、ぼくさんりんから手紙が届いた。よい知らせが大半と、悪い知らせが一つだ。これらを総合して考えるに、今月の内に襄陽戦線の決着をつけるべしと、儂は判断した。すなわち、あと二十五日だ。可能か否か、答えてみよ」

 撒速は静かな目をして一同を見渡した。馬上でなければ、道僧の膝は反射的に屈してしまっただろう。道僧の代わりに馬が身を震わせ、せわしなく足を踏み替えた。撒速のまなざしは静かでありながら、圧倒的に強く重い。

 吾也は、可能でございますと答えた。多保真は、皆で力を合わせて頑張りましょうと答えた。

 李通古は背筋を伸ばして言い放った。

「可能も否も、確約できません。今月末に再び同じ質問をいただいたら、やはり可能でしたねと笑って答えられるように、全力を尽くす所存です」

 撒速は哄笑した。

「おかしな男だ」

 次いで水を向けられた道僧は、何と答えるべきなのか、全くわからなかった。努力いたしますとだけ言って、馬上でできる精一杯の礼をした。撒速はただうなずいた。

 勝てない。道僧は李通古に勝てない。

 ならばなぜ、と道僧は自問する。

 なぜ私はここにいるのか。金軍の中で、納合家の中で、吾也の息子として、多保真の婚約者として、私がここに存在することに意味があるのか。

「意味など、ないかもしれない」

 唇の内側だけでつぶやいた。その響きは、意外にも失意や絶望を含まなかった。いっそ、すがすがしかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る