第八章 人の和を以て最終決戦に臨め

一.リベルテ

 金国の今上皇帝は、本名をかんがんたつかつという。この正月でちょうど四十歳となった皇帝は、穏和で思慮深く、家臣の意見を広く聴き、殊に年長者とあればこれをよく立てる。

 麻達葛政権において、近い血縁のさつそくは特殊な立場にあった。麻達葛が子供だった頃、女真語と漢語、金の歴史と漢族の歴史、女真族の伝説と漢族社会の儒学など、およそ学問というものを彼とその弟に学ばせた教師が、青年時代の撒速だったのだ。

 首都のちゅうに居する皇帝から襄陽戦線へ、十日に一度は書状が届けられる。撒速がその封を切るまで十日から半月程度かかり、新年の慶賀にと送った五百人の女捕虜についての礼状も二月の足音が聞こえ出した頃に襄陽戦線に至った。

 皇帝の書状には毎度必ず「湖北のの民をいたわり、無用の殺戮や略奪などを為さぬように」との文言が添えられている。

 後世に残る公式な書状に「いかなる手段を以てでも湖北を撃滅し、女真族の武名を宋賊どもに知らしめよ!」といった勇壮な文言を選ばないあたりが、麻達葛らしい点である。

 そんなふうに親しげに、撒速は皇帝の人柄を評した。四日前の軍議において、興が乗った撒速はいくらか饒舌になっていたようだった。

 当の軍議では、皇帝からの書状にあった特別賞与について公布が為された。

「一番手、二番手で襄陽の城壁に到達し、戦闘を経て生還した者には各々、五千貫、三千貫の銭を与える。また、その者が平民の士卒であれば世襲の軍事職に就け、既に軍事職を持つ身であれば貴族としての品位と称号を与える」

 これを聞いて俄然、金軍は士気が上がった。五千貫、三千貫といえば、平民が一生暮らしていけるほどの大金だ。銅銭で五百万枚、三百万枚である。

 つうが徳安戦線からの自軍の兵士らと共に、馴染みの飯屋で何食分が食えるのだろうかと計算した。途方もない数字が飛び出し、こんなに長生きしたら仙人になっちまうと言った李通古に、皆で腹を抱えて笑い転げる。

 どうそうもつい、楽しげな様子につられて笑った。李通古と一緒に行動するようになってから、おびえて弱って麻痺してばかりだった心が、よく動く。

 ちょうどその夜に最初の土山が破壊された。土山建造の総指揮を担ったさつ家の家長は平身低頭して罪を乞うたが、撒速は罰せずに圧力をかけた。

「再び土山を築き、見事に名誉挽回してみせよ。失敗をせぬ人間など、この世におらぬ。価値ある人間とは、失敗をかてとして成功を手にする者のことだ。大地に這いつくばって己の罪を恥じる暇は、おぬしにはない。ひたすらに働き、我らが金軍に成功と勝利をもたらせ」

 裏を返せば、二度目の失敗は許さぬということだ。土山に支柱や骨組みを入れずともよい、と拙速な案を推した者たちが気まずそうに黙り込む中、が発言した。

「撒速様に御許しをいただきたく存じます。蒲察家の名誉挽回、我がのうごう家も助力したいと考えております。納合家にとって、蒲察家は大切な朋友であり、子らの婚姻によって近々親戚となる相手でもありますゆえ。助力の件、よろしゅうございますか?」

 議場はざわついたが、吾也と蒲察家の間には既に話が通っているようだった。撒速もそれを見て取ったらしく、納合家と蒲察家の協力体制にあっさりと許可を下した。

 その翌日から、新たな土山はじわじわと構築されている。

 現在、最も積極的に采配を振るっているのは李通古だ。土山の建造、工事現場の護衛、資材の運搬という三つの役割を明確化し、それぞれの役割に当番を組み、運用の徹底を軍全体に呼び掛ける。

 また、李通古は馬を駆って現場のあちこちを飛び回り、作業の円滑化を図っている。何か問題が発生しても全く以て怒る様子を見せず、時にからからと笑いながら明るい声で指示を出し、奇術のように数千数万の兵の流れを整えてみせるのだ。

「兄上は、すごいな。私には到底、真似できません」

 道僧は心から李通古に感服した。その思いを言葉にしたのは二月五日の夕刻で、道僧も李通古も弓と槍を携え、三千人体制の騎兵に交じって土山建造の現場を護衛する中でのことだった。

 李通古は顔をくしゃっとさせて笑った。

「そうだな、誰もが真似できることではないかもな。俺は人の顔色を見ながら育ったんだ。どう振る舞えば人の迷惑にならないか、いちいち気にしてばかりでさ。そんな育ちのいやしさが、兵士に指示を与えるのに役立っているんだから、おもしろいもんだ」

「それだけではないでしょう。兄上には将としての器があります」

「ないよ。俺には、一軍の将が務まるほどの覇気はない。今の俺は、たまたまやる気があるだけだ。目の前に最高の餌をぶら下げられて張り切っている、鼻息の荒い馬みたいなものさ」

「最高の餌?」

 李通古はさらりと言ってのけた。

「俺が襄陽の城壁に一番手で到達したら、一生暮らしていくだけの銭と、父上に匹敵するほどの身分が手に入る。そうすれば、俺を祖とする貴族、李家が金に誕生するというわけ」

 道僧はまじまじと李通古の目を見つめた。

「兄上がそのような野心を持っているとは、意外です」

「野心ってほどのもんかなあ? ちょっと違うと思う。今の俺が兵士の上に立つことができるのは、父上の七光りがあるからだろう? 俺はただ独立したいんだ」

「その必要はないでしょう。納合家を継ぐのは兄上です」

「まさか! めかけばらの俺を父上が御認めになるはずがない。道僧、おまえこそが納合家の次期当主様だ。しん殿と所帯を持って一人前になった暁には、新興貴族たる李家の頼もしい後ろ盾になってもらうぞ」

「私は今後どうなるか……兄上は貴族になりたいのですね」

 李通古はかぶりを振った。

「いや、貴族なんて肩書はどうでもいいんだけどさ。俺がなりたいのは、誰にも憐れまれたり使われたり縛られたりしない身分さ。称号や品位や階級は、本当にどうでもいい。生きたいように生きられるなら、俺は何者であったっていい」

「縛られない身分、ですか。私には、兄上はとても生き生きとして、思うままに振る舞っているように見えます。それでも、兄上も何かに縛られていると感じるのですか? 兄上を縛る存在とは何です? 父上ですか?」

 李通古は笑うだけで答えない。ひょうひょうとした目で道僧を見つめ返し、本音をはぐらかす。

 そう、重要なのは李通古の答えではないと、道僧は自覚した。尋ねたい相手は李通古ではなく己自身だ。

「父上は己を縛る存在なのか?」

 つぶやいてみる。答えはすぐに出る。

「父上は私を縛る存在だ。私の支配者だ。私の所有者だ。では、私は何という存在なのだ? 兄上は何者かになりたいと望んでいる。私は何かを望んでいるだろうか? 心の底から望んだ試しがあっただろうか?」

 自問のつぶやきが止まらない。

 父の支配から逃れたいと思ってきたはずだった。幼い頃からずっと、父の下で生きるのが苦しくてたまらなかった。

 だが、李通古のように自らの手で束縛からの解放を勝ち得ようとしたことがあっただろうか。学問に没頭する間だけは父のことを頭から追い出すことができた。それならばいっそ、出家して経典と書物の森に隠れてしまえばよかったではないか。

 深い思索の中に沈みかけた道僧の耳に、ふと、兵士らのざわめきが飛び込んできた。

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