三.戦況を記録せよ
濠の対岸に陣列を組んだ金軍の兵力は一千を数えた。前列では
趙家軍の八百人が守りに就いた城壁西隅のちょうど中央付近で、趙淳は弩を構え、敵の様子をうかがっている。
敢勇軍の伝令が城壁に張り付きながら駆け寄ってきて、旅世雄と
趙淳は、にっと笑ってみせた。
「あと少し待ってろよ。すぐに出撃の太鼓を鳴らしてやる」
頭上を箭が飛び越していく。金軍の士気は高く、射撃に間断がない。指揮官の腕がいいらしい。
趙淳は先程から、その指揮官だけに狙いを定めている。陣頭で馬に乗り、こちらにも届くほどの大声を上げ、芝居がかった羽扇をきびきびと振るう男だ。
「ちょこまか動くんじゃねえ」
趙淳は毒づいて腹に息を吸い、細く長く吐き出しながら待つ。弩に頬を寄せるようにして片目を閉じ、望山越しに標的を睨んで照準を合わせる。
金軍の指揮官が手綱を引き、動きを止めた。
その瞬間、趙淳は
箭は飛び、刺さった。馬上の指揮官が一瞬、趙淳へと顔を向けた。その左目に箭が突き立っていた。指揮官が馬から落ちる。
城壁西隅の兵士が拳を固め、短く強い歓声を発した。
金軍には動揺が走った。飛んでくる箭がまばらになる。
趙淳は立ち上がり、叫んだ。
「太鼓を叩け! 出撃と総攻撃の合図だ! 城下で敢勇軍が船を出す。俺たちは敢勇軍が上陸するまでに敵を半減させてやるぞ! さあ、太鼓を叩け、箭を放てッ!」
打ち鳴らされる太鼓に、城壁上の兵士たちが
たちまちのうちに襄陽軍の優勢が決した。城壁西隅に駆け付けた趙萬年たちが見たのは、弩や
趙淳が、息を切らした趙萬年を振り返り、明るい大声で笑った。
「遅いぞ。終わっちまったじゃねえか」
「元直が知らせに来るのが遅すぎんだ」
趙萬年は王才を睨んだ。王才は顔をしかめた。
「悪かったな。でも、もし早く知らせに行けたとしても、病み上がりの阿萬を戦わせるわけにはいかなかったぞ」
「なめんなよ。もう動けるって!」
「ふらふらしながら言うなよ。槍をぶん回すより先に、まずは翠瑛に診てもらって飯を食え」
趙淳が
「翠瑛なら、あっちだ。でかい
そこを中心に熱風が噴き上がっているかに見えた。
旅翠、旅世雄、裴顕の三人が背中合わせの三つ巴になり、各々の武器を振るっている。死角も隙もない布陣だ。誰が突出するでもなく、むろん遅れることもなく、完璧な連携を保ちながら金軍へと突っ込む。当たるを幸い打ち倒していく。
矛を軽やかに旋回させる旅翠は、舞のごとく柔軟な
城壁上の趙家軍は、舞台の演目に惹き付けられるような心地で、敢勇軍の戦いぶりを眺めていた。その時間もさして長くはなかった。敢勇軍の圧倒的な勝利である。
金軍が撤退すると、敢勇軍は、そこに打ち捨てられた諸々を回収して城に戻った。武器や
帰参した旅翠は、船着き場で出迎えた趙萬年をぎゅっと抱き締めた。
「よかった! でも、まだ無理しちゃあ駄目だよ」
「ちょっと、おい放せよ、恥ずかしいから!」
周囲から冷やかしの声が飛び、趙萬年は必死で旅翠の腕から逃れた。顔が熱い。旅世雄が何かを言い掛けて口を半開きにし、裴顕がわざとらしい溜息をついて旅翠の背中を叩いた。
「おまえなあ、その怪力で締め上げたら、阿萬なんか簡単にぺちゃんこになっちまうだろうが」
「力の加減はしてるってば。何だい、あんたも締め上げてほしい?」
「いやいやいや、締め上げられて喜ぶ趣味はねえから。とりあえず阿萬、復活してよかったな。阿萬の声が聞こえねえんじゃ、張り合いがなくて調子狂うんだよな」
裴顕の言葉に、王才がいつになく素直な様子でうなずいた。趙萬年が見上げると、王才はちらりと笑ってみせ、笑った顔のままそっぽを向いた。
その日を含めて三日間、趙萬年は、食べるものも動き回る範囲も制限を受けた。初めは少し動くだけで息切れと動悸がしたが、睡眠を取るたび、食事を取るたびに回復していくのを自覚した。
十二月二十一日には、剣を
王才は城外に駆り出され、水門の工事をしている。この冬は雨も雪も極端に少ないため、濠の水位が普段よりずっと低いらしい。そこで、水門をいくらか開いて、漢江から取り込む水の量を増やすことになった。
漢江の水を人為によって操ることは決して容易ではないと、船乗りや船大工、しょっちゅう護岸の
趙萬年はたびたび城壁に上って工事の様子を見物した。今日もよく晴れて、空には雲ひとつなく、風も穏やかだ。城壁各隅に掲げられた趙家軍と敢勇軍の旗は、しおらしげに休息している。
趙淳は、趙萬年の隣で伸びをした。首筋をほぐすように左右に傾けると、ぱきぱきと音が鳴る。
「妙に静かだな。嵐の前の静けさじゃなけりゃあいいが」
「ポカ金の連中は、静かだとは思ってねえだろ。ほとんど毎晩、どこかの
昨夜も敢勇軍が出撃した。
地の利を活かした奇襲は、金軍の反撃を許さない。これを指揮できるのは、やはり襄陽に生まれ育った敢勇軍の勇士に限られる。
趙家軍も戦闘に加わることが多い。これは、昼間の出撃以上に消耗する夜襲の任を敢勇軍にすべておこなわせるわけにいかないためでもあり、敢勇軍ばかりに軍功がかたよれば趙家軍から不満が噴出する恐れがあるためでもある。
趙淳が城内の諸事に細やかな采配を振るっていることを、趙萬年は知っている。寝込んでしまったこの半月程を除けば、趙淳の指揮官ぶりを誰よりもよく見て聞いて覚えているのは、きっと趙萬年であるはずだ。
実は、趙萬年は時間ができるたびに紙と筆を執り、記録を付けている。趙淳が立てた作戦と下した判断、襄陽軍の動きと金軍の様子、把握できる範囲で具体的な数字まで。
なぜ記録を付けようと思い立ったのか、この記録が何の役に立つのか、趙萬年にもわからない。ただ、襄陽での籠城が自分にとって特別な経験になる気がした。そんな時間がただ流れ去り、忘却されていくのは寂しいと思った。
ふと、趙淳が振り返った。途端、表情が引き締まった。
「仲洌か。難しい顔をして、どうした?」
趙萬年も振り返る。眉間にしわを刻んだ趙
「金賊の捕虜になっていたと自称する男が城南に現れた。敵の隙を突いて寨から逃げ出してきたらしい。王虎という名で、
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