四.来訪者を歓迎せよ

 王虎が捕虜であったことは疑いがないように思われた。

 戦闘で負ったきずだけでなく、背中には幾重にも刻まれたむちの痕があり、一箇月余り前に折れた肋骨のまわりは今だ黒々と鬱血している。昨夜殴られたという顔はあざだらけで、両の手首には縄でこすれた傷が赤々と残っていた。

「虐待を受けておりました。御覧の通り、女真族の蛮行です」

 絞り出すように告げた王虎の姿の痛々しさに、趙萬年は言葉が出なかった。

 王虎の体に残る虐待の証は、傷や痣だけではない。頭頂部を除いて、髪をすべて剃られている。女真族の髪型だ。漢族の王虎を支配下に置いたことを誰の目にも明らかにするための措置に相違ない。

 漢族は、己の肉体を損ねることを不孝とする。肉体に傷を負うことは、この肉体を授けてくれた親に対して、ひいては先祖のたまに対して、罪を為すことに等しい。髪の毛一本でさえも大切にしなければならない。

 髪を剃られた王虎がどれほど精神的に打撃を受けたか、誇りを傷付けられたか、趙萬年には計り知れなかった。

 王虎は襤褸ぼろをまとって目を伏せ、疲れた顔をしている。丸腰で、身分を証明するものも持っていない。

 趙淳は城内に触れを出し、そうように出入りしたことがある者を捜した。統領である王虎の顔を知る者が、もしかしたらいるかもしれない。

 庁舎の執務室で一通りの改めが済んだ後、趙淳は王虎を笑顔で迎え入れた。

「御苦労だったな、王統領。部屋を用意する。ひとまずそこで体を休めておいてくれ。今後のことは、追って沙汰する。金賊の内情を聞かせてもらいたい」

 王虎は顔を上げ、張り詰めた目で趙淳を見据えた。

「小生を獄につながなくてよろしいのですか?」

「そのへんは俺の担当じゃあねえな。好き勝手に動き回られちゃ困るが、囚人扱いするつもりはねえよ。仲洌、送ってやってくれ」

 趙こうが音もなく王虎の傍らに立った。王虎は、びくりとした。そのまぶたと唇が細かく震えるのを、趙萬年は見た。

 低く静かな趙淏の声が王虎を打った。

「ずいぶんと恐ろしい思いをしてこられた御様子。体調が優れませんか?」

「いえ……御気遣いなく」

「私が怖いのでしょう?」

「……何を、おっしゃいますやら」

「拷問を受けたことのある者は直感的にわかるようですね。御察しの通り、獄中で客人と一席設けるのは、趙家軍では私の役目です」

 仲洌、と趙淳がとがめるように名を呼んだ。趙淏は口を閉ざし、代わりに、滅多に誰にも見せない鮮やかな微笑みをこしらえてみせた。

 王虎は抱拳して御辞儀をし、青ざめた顔を伏せた。

 趙淏は王虎を連れて立ち去り際、ふと足を止めて趙淳を振り返った。

大哥あにうえ、城内の東隅のびょうで製造中のせんは、いつまでもあそこに積んでおくわけにもいかないだろう。城内各所から供出した火薬はすべて武廟に運び込んでいるから、火箭を貯蔵するにも製造するにも、ひどく手狭になっている。早めに手立てを講じたほうがいい」

 趙淳は不意を打たれた顔をした。趙淏は返事を待たずに執務室を出ていく。戸が閉まる直前になって、趙淳はようやく応えた。

「わかった、東隅の武廟だな。後で確認しておく」

 趙萬年は首をかしげつつ趙淳に問うた。

「東隅の武廟って、趙家軍の屯所の一つにしてんじゃなかったっけ? オレが長らく寝てる間に配置変えでもしたのか?」

 趙淳が答えようとした。が、猛烈な勢いで駆け寄ってくる足音に眉をひそめる。

 戸が勢いよく開けられた。王才が息せき切っている。

大哥あにき、水門のとこに人が流れ着いた!」

 王才の後に旅世雄が続いた。丸太のような腕にずぶ濡れの男を抱え、自身もしとどに濡れている。

「溺れかかってましたが、揺さぶってやったら息を吹き返しました。何某なんちゃらと名乗ったんですが、冷え切って弱っちまって、舌がろくに回りゃしねえ。まずは温めて人心地つかせてやらなけりゃあ、話になりやせん」

 趙淳は旅世雄に命じた。

「炉のそばに寄れ。濡れた服を脱がせろ」

 李何某もまた、王虎と同じように襤褸をまとっただけの丸腰だった。ほどけた髪はざんばらに短く、靴を履いていない。

 旅世雄は炉のそばに李何某を横たえ、襤褸を脱がせ、濡れた髪を絞った。漢江の冷水によって真っ赤になった肌には無数の傷がある。やつれてはいるものの、李何某の肉体は武人のものだ。

「こいつもグズ金の捕虜にされてたのか?」

 趙萬年のつぶやきに、李何某が虚ろな目を上げた。紫色の唇が細かくけいれんしている。

 趙淳は、投げ出して椅子の背に引っ掛けていた褞袍わたいれをつかんで駆け寄り、李何某に着せた。李何某の手をさすりながら、目を見つめて問う。

「うなずいたり首を振ったり、できるか? 視線を動かすだけでもいい。俺の言葉はわかるな? いいか、ここは襄陽だ。俺は襄陽の守将、趙伯洌だ。俺の名を知っているか?」

 李何某が趙淳を見つめ返した。にわかにその目に力が宿る。唇が動いた。

「……ほりょ、に、にげ……じ、じじょうほう……っ」

 不明瞭ながら確かに、捕虜、情報、と聞こえた。李何某のあごが震え、かちかちと歯が鳴る。

 趙淳は李何某に顔を寄せ、微笑んでみせた。

「まだしゃべらなくていい。舌を噛むぞ。おまえさんは金賊の寨から逃げてきたんだな?」

 李何某はかすかにうなずいた。趙淳を見据えるまなざしは射るように強く、まっすぐだ。

 旅世雄が李何某の足を、王才が空いているほうの手をさすって温める。趙淳が重ねて問うた。

「俺に何か知らせたいことがあるのか?」

 李何某がうなずき、口を開く。が、話すことができない。がくがくと顎が震え、か細い呻き声が漏れるばかりだ。

 趙淳が顔を上げ、趙萬年に言った。

「阿萬、仲洌を呼び戻してくれ。あいつの意見を聞きたい」

「わかった。なんか今日は、いつもと違うことが次々と起こるな」

「まったくだ。しかも、俺ひとりの頭では正確な判断が下せねえ案件がな」

 趙淳の苦笑は少し頼りなげに見えた。おそらく疲れている。人を信じることよりも疑ってかかることのほうが神経をすり減らすものだ。

 趙萬年が呼びに行くと、趙淏は王虎の部屋に三人の見張りを付けた上で、趙淳の待つ執務室に戻った。李何某は相変わらず、尋問に耐え得る状態ではない。王才が救護所まで走って、医者を連れてきた。

 李何某の体調がいくらか落ち着くのを見届け、王虎から少しだけ話を聞き、水門の工事のしんちょくについて報告を受け、忘れていた食事を取り、そうこうしているうちに日が暮れた。

 慌ただしい一日は、これだけでは終わらなかった。

 夜のとばりが降りて一時ほどが過ぎたとき、唐突に、一斉に明かりがともった。濠の対岸である。襄陽の西と東の両方に、一千では利かない数の灯火が赤々と輝いたのだ。

「敵襲、敵襲ッ! 濠の対岸に金賊が出現した! 城壁の東隅と西隅、共に守りを固めよ!」

 手早く武装を整える趙萬年たちの耳に、三十丈(約九十三.六メートル)の濠を隔ててなお盛大な、金軍のときの声と太鼓の音が聞こえてきた。

 城内の民衆が悲鳴を上げ、身をすくませる。

「家ん中に避難してろ! 大哥あにきが許可するまで、絶対に出てくるなよ! 安心しろ、守ってやっから!」

 趙萬年は大声で言って、城壁へと駆け上がった。

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