五.策略を打ち破れ

「あいつら、とち狂いやがったのか? 何で攻めてこねえで騒いでるだけなんだ?」

 弩を手にした趙萬年は、何度目だかわからない問いをまた繰り返した。答えを出せる者はなく、趙淳は問いに同意してうなずきながら、苦笑して嘆息した。

「いつまでも何事も始まらねえんじゃあ、かえって困るな。夜勤明けからぶっ通しで城壁に立ちっぱなしのやつらが倒れちまう。奇襲にも出られねえ」

 城壁上で警戒態勢に入って早一時。そろそろ二更(二十二時前後)になる頃だ。

 金軍は東西共に、濠から三十丈(約九十三.六メートル)も下がったあたりに布陣し、声を上げながら太鼓を叩き続けている。城壁上から弩で射掛ければ、届かない距離ではないが、暗さのためもあって、有効に狙いをつけられない。だから、ただ睨み合っている。

 東隅には趙家軍、西隅には敢勇軍が配備されている。敢勇軍はまた、濠を越えての出撃に備えて船の支度を整えてもいる。

 一段と冷え込んだ夜だった。ふけまちづきが放つ光までもが冷たい。弩を執る手はとっくにかじかんで、白い息をどれほど吐き掛けようとも滑らかに動いてはくれない。兵士たちは順繰りにかがりのそばに寄って暖を取っては、騒ぎ続ける敵陣をうんざりと眺めやる。

 趙こうは先程、部下に呼ばれて庁舎へ向かった。昼間、水門に流れ着いた男が目を覚まし、じゅんと名乗って、襄陽防衛の中枢の者と話をしたいと訴えたのだ。

 李遵がもたらそうとしている情報とは一体何なのか。趙萬年は李遵の真っ赤に腫れた手足を思い出し、ぶるっと震えた。水の冷たさのために赤くなっているだけではなかった。両手両足の爪をすべて剥がれ、そこが膿んでただれているのだった。

 趙萬年は篝火のそばで足踏みをした。じっとしているのが苦痛で、趙淳に話し掛けようとした。

 が、別の声が趙淳を呼んだ。

大哥あにうえ、話がある!」

 階段を登ってくるのは趙淏だ。その後ろに続く二人の部下が担架に一人の男を乗せている。緊迫した趙淏の大声に、周囲の兵士がざわついた。

 担架で運ばれてきたざんばら髪の痩せこけた男は、趙淳の前に至ると、体を起こして抱拳した。

そうようにて戦っておりました、統領の李遵と申します。伯洌将軍、御報告に上がりました。金賊の二つの計略を……どうか、俺の証言を信じてください」

 李遵の声はひどくしわがれている。拷問によって喉を潰されたのだろう。その聞き取りづらい声を耳に入れるため、趙萬年も趙淳も李遵に近寄った。

 趙淳は李遵の前に片膝を突いた。

「信じる。話してくれ」

「金賊の総攻撃の期日は、二十四日です。それまでは昼夜もなく襲撃をかけるふりをして、襄陽を疲弊させようとくわだてています」

「今日は二十一日だ。濠の対岸の大騒ぎは、二十四日の総攻撃に備えた陽動か」

「はい。萬山にある、納合吾也という男のさいで、この話を聞きました。吾也は二万ほどの軍勢を持つ男です。貴族で、金賊の中核の一人だと思われます」

「なるほど。もう一つの計略ってのは?」

「刺客を送り込む、と。帰還した捕虜のふりをした刺客を、襄陽に。もしもその刺客が計略を成功させて合図を送れば、二十四日を待たず、陽動部隊を実戦に投入するのを皮切りに全兵力で以て襄陽を攻めると、金賊は申していました」

 趙萬年は血の気が引くのがわかった。

「刺客? それ、まさか、王虎? でも、あいつ、拷問された痕があって、女真族みてえな髪にされてて、何か震えてて……えっ、王虎が怯えてたのって、もしかして……」

 李遵が目を剥き、趙萬年を見た。

「王統領が既に襄陽に入り込んでいるのか!」

「あいつのこと知ってんのか?」

「同じ棗陽で戦っていた。あの男は女真族に魂を売ったんだ。信用しちゃならねえ!」

 まさにそのとき、城壁の下から趙淏を呼ぶ声が上がった。

「仲洌将軍! 王虎が逃げました! 編んだ髪の中に武器を隠していました! 毒針です。致死性はないようですが、確かに毒が塗ってありました。その毒針で見張り二人を刺して、王虎が逃げましたッ!」

 趙淏が舌打ちした。

「賊め、あの髪か! 見落とした。さんくさいのはわかっていたのに。大哥あにうえ、賊は東隅のびょうだ!」

 言うが早いか、趙淏は身をひるがえす。階段を一足飛びに下り、迷いもなく疾走する。

 趙淳が命じた。

「今から名を呼ぶ者、仲洌を追って援護しろ! 阿萬!」

 趙萬年はその途端、駆け出す。後に続く者の名は聞いていない。遠ざかる趙淏の後ろ姿だけに意識を集中する。

 趙淏は足が速い。まともに追い掛けても引き離されるだけだ。趙萬年は城壁から手近な土塀へと飛び移った。土塀を走り、屋根へと跳躍し、また土塀へと跳んで走る。

 最短距離で向かえば、武廟に至る直前で趙淏に追い付いた。趙萬年は路上に降り立つ。趙淏はちらりと趙萬年を見やったが、足を緩めることなく、先行して武廟の門に飛び込んだ。いささか遅れて趙萬年が続く。

 兵士がすべて出払っているはずの武廟に、明かりが一つ、ともっていた。松明たいまつを手にした痩せぎすな男が、がらんと広い堂屋の真ん中で立ち尽くしている。

 趙淏が鋭く呼ばわった。

「王虎ッ!」

 漢族のじゅうに不釣り合いなべんぱつを揺らして、王虎は振り返った。松明に照らされた顔が、歪んだ笑みを浮かべた。

「東隅の武廟にはせんと火薬が大量に貯蔵されているのではないのですか?」

 趙萬年は理解した。趙淏は初めから王虎の前に罠を張っていたのだ。

 王虎の最初の取り調べが終わった後、趙淏が王虎を連れて執務室を出ようとしたとき。趙淏は、趙家軍の屯所である武廟を指して、火箭の製造所であると偽った。

 趙淏は気息を整えながら、音の立たないあしさばきで王虎との距離を詰める。

「ここは趙家軍の屯所だ。当初の予定では、趙家軍の皆で客人を持て成す心積もりだったが、あいにくと、今宵は皆、ひどく忙しくてな」

「見破っておられたのですか? なぜ?」

「勘だ」

な」

「確証はなかった。だから鎌を掛けた。そして貴様はここにいる。もしも本当にここに大量の火薬が貯蔵されていたら、火を放って城内を混乱させ、城門を開き、外の金賊と呼応して襄陽を攻め落とす算段だったのだろう」

 王虎は応えず、松明を左手に持ち替え、剣を抜いた。

 趙淏は歩みを止めず、まっすぐに王虎に近付く。王虎を見据えたまま、服の埃でも払うかのように、軽く右手を振った。

「がッ……!」

 王虎が呻き、剣を取り落とした。

 趙淏は近付く。左手を払う。

 王虎の左の肘に細い短剣が刺さるのを、趙萬年は目撃した。転がり落ちる松明が、王虎の右の肘に突き立った短剣を照らすのも見た。

 床に落ちた剣と松明を、趙淏が拾った。

 趙萬年の背後に、後続の兵士たちが次々と到着する。松明を手にしている者も幾人かおり、武廟の堂屋が明るくなった。暗闇に沈んでいた光景がはっきりとした像を結ぶ。

 趙淏は無造作に王虎の脚に剣を突き下ろした。絶叫は上がらなかった。王虎は脚を床に留め付けられながら、顔を歪めて苦痛に耐えている。

「吐け。貴様の飼い主は金賊の何者だ?」

「……申せません」

「なぜ金賊にくだった?」

「さて……なぜでしょうか」

 趙淏は松明を王虎の頭上に差し掛け、振った。焼けた木片交じりの火の粉が、髪を剃り上げた皮膚の上に落ちる。

 王虎が呻いた。呻きながら、壮絶な顔で笑った。

「小生は地位と金品に釣られて敵に降った浅ましい裏切り者です。そう信じていただいて結構。小生は金国に生まれるべきでした。忠誠を誓うべき主君は、後にも先にも、ただ御一人だけ」

 次の瞬間、王虎のあごが異様な格好で動いた。趙淏がとっに王虎の下顎に手を掛けたが、王虎が舌を噛み切るほうが早かった。王虎の口から肉片と大量の血があふれ出る。

 趙淏は趙萬年たちに背を向けたままだった。趙淏は凪いだ声で言った。

「毒針といい断舌といい、よくよく私を出し抜いてくれるものだ。話ができぬのなら、貴様にはもう価値がない」

 趙淏が、何も持っていないように見える右手を振るった。王虎が首から血を噴いて絶命した。

 沈黙が落ちた。

 松明の燃える匂いがする。血の匂いを嗅ぎ分けるには、趙萬年から趙淏までの距離が遠い。

 戦陣で敵を斬り伏せる趙淏の姿は知っている。だが、無抵抗の敵を痛め付けて殺す趙淏の姿は初めてだった。

 怖いと思った。それ以上に悲しくなった。

「仲洌!」

 趙萬年は沈黙を破って趙淏の名を呼び、趙淏に駆け寄った。

 趙淏は王虎を見下ろしたまま、趙萬年のほうを向かない。

「明日にでも廟にいのりを捧げてはどうかと、大哥あにうえに提案しよう」

「え? 何だよ、それ?」

「文廟は古代の聖人の、武廟は歴代の英雄のたままつるものだ。本来ならば神聖な場所を、この非常時であるからと、民衆の避難所や兵士の屯所に使っている。御霊たちの許可も特に得ずにな。そして今、私はここで人を殺した。祷って、許しを乞わねばならん」

 趙萬年は趙淏の腕をつかんで引っ張った。趙淏はかたくなに振り返らない。趙萬年は趙淏の胸に抱き付くようにして、強引に自分のほうを向かせた。鼻先に血の匂いが触れた。

 趙淏は何の表情も浮かべていなかった。見慣れた顔が深い陰影を帯びてとてつもなく秀麗で、趙萬年はぞっとした。目の前にいる趙淏が妙に遠く感じられて、苦しくなって、趙萬年は趙淏の服をつかんでまくし立てた。

「急に何言い出すんだ? 御祷り? 神頼みかよ? そりゃあ確かに八方ふさがりで、怪力乱神でももうりょうでも何でもいいから力を借りてえと、オレだって思ってるよ。でも仲洌、襄陽の危機を救ったってのに、この世の終わりみてえな顔すんのはやめろよな!」

「危機を救った、か。ものは言いようだな」

「事実だろうが! 仲洌が罠を用意してなかったら、ひでえことになってたかもしれないんだぞ! 仲洌の大手柄じゃねえか! そうだろ、皆!」

 趙萬年は趙家軍の兵士たちに言った。

 弾かれたように、趙家軍の兵士たちが駆け寄ってきた。怪我はないかと趙淏に問う者、さすがの腕前だと趙淏を讃える者、御疲れでしょうと趙淏を気遣う者。

 趙淏は目を閉じ、一つ深呼吸をした。目を開けたときには、冷静沈着な趙家軍ふくすいの顔に戻っていた。

「阿萬、大哥あにうえに事の次第を報告しろ。ほかの者は死体の処理を。私は王虎に毒針で刺された者の様子を見に行く。誰か一人、私に付いてこい」

 わらわらと兵士たちが動き出す。趙萬年は趙淏に言った。

「廟に御参りしようって話も大哥あにきに伝えとく。武神たちに祷ったら、御利益で大吹雪でも呼べたりしねえかな? そしたら、コケ金の連中も攻めてこられねえだろ」

 趙淏の目元が少しだけ和らいだ。

「そうだな」

「んじゃ、行ってくる!」

 趙萬年は趙淏に笑い掛けてから、きびすを返して駆け出した。

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