六.ピュニシオン

 夜が訪れた。月のない夜だ。またたく星のいくつかが不意に濃紺の空からこぼれ落ち、光の尾を引いて流れ、消えた。今の星は何を告げる兆しだろうか。

 道僧の手に青銅製の印章がある。なんしんばつそうよくふくとう、と刻まれた印章だ。五日前、さつそくによって手ずから授けられた。

 徳寿の命と王虎の命がこの小さな印章に化けた。

 道僧は印章を握り締める。関節が白く出っ張るほどきつく力を込める。

 十二月二十一日、襄陽に潜入した王虎は失敗した。襄陽城内から火の手が上がることも、城門を開いた合図である白旗が掲げられることもなかった。

 今一つの計略である二十四日の総攻撃も中止となった。前夜のうちから分厚い暗雲が空を覆い、暴風が吹き荒れ、凄まじい冷え込みに見舞われた。二十四日は朝からひょうが降った。北方育ちの馬が嫌がるほどの猛烈な悪天候だった。

 だが、その天候を押して出陣した者がいた。ほかならぬ道僧の父、納合吾也だった。

 納合家の軍勢二万はばんざんさいを発し、多大な時間をかけ、少なからぬ脱落者をも出しながら、襄陽の南およそ三里(約一.七公里キロメートル)の地点に置かれた撒速の本陣に合流した。

「まさかこの氷の嵐の中を進軍してくる者があろうとはな。吾也よ、御苦労であった」

 撒速は笑ったが、ねぎらっているのか呆れているのかからかっているのか、道僧には見抜けなかった。

 本陣には、各陣営から訪れた使者が留め置かれていた。いずれの使者も、あまりの悪天候で寨を離れることができない、との旨を撒速に伝えた。全軍を以て本陣に至ったのは吾也だけだった。

 撒速は幾ばくかの時を吾也との対話に費やした後、道僧の名を呼び、手招きをした。道僧が畏怖しつつ近付くと、撒速は、ぽいと小さなものを投げて寄越した。慌てて受け止めた道僧の手の中にあったのは、青銅製の印章だった。

「これは……右翼副統、とは?」

「襄陽を包囲する軍勢を右翼、残る半数の徳安包囲の軍勢を左翼としておる。副統の肩書はただの飾りだ。気楽に受け取るがよい」

「はっ。ありがたき幸せにございます」

「軍議の席に連なる者は皆、副統印を持っておる。おぬしも父と共に軍議にでよ」

 道僧は困惑した。

「なぜ、私のような若輩者が、このような名誉を?」

「飾りと大差ない肩書も、死者に与えるより生者に授けるほうがまだしも使い道があろう。徳寿が死んだ。王虎も死んだ。徳寿は死によって働きを為し、王虎は働きを為さんとして死んだ。二つの死の証として、今なお生きておるおぬしが代わりに褒美を取れ」

 かせだ、と思った。徳寿と王虎の死の証を手にしてしまった以上、道僧は生きることと戦を続けることにとらわれ、つながれ続ける。

 あるいはくさびだ。撒速の笑みに貫かれた道僧は、ありもしない鋭い痛みを胸に覚えた。息苦しさから逃れるために礼をして、撒速の視線を断ち切った。

 撒速の帳幕での出来事はそれだけだ。そこを退いた後、吾也と共に過ごすこととなった帳幕の中で、道僧は裸の背にむちを受けた。

「無能者が! 宋賊にたやすく破られる詭計を講じた挙句、無残に失敗とは何たるていたらく! 卑劣な策など使いおって、何と浅はかな、この、だらしのない者が!」

 怒鳴る声も笞の音も、猛り狂う風と雹の唸りに呑まれた。すべては帳幕の中に閉じ込められ、父と子の間に秘められた情景だ。

「撒速様に情けをかけていただいたなどと思い上がるでない! おまえは納合吾也の息子だ、だから印章を授かったのだ! おまえがおまえであることに意味はないのだぞ!」

 子は父の所有物だ。優秀な所有物でなければならない。道僧が殴られるのは、劣っているからだ。愚かだからだ。

「儂の子はおまえひとりではない! 母の家柄がよいからと、うぬぼれるな! ほとほと失望させてくれるおまえより、漢族のめかけに産ませたつうのほうがはるかにましだ!」

 比べられて育った。家柄はもちろん学問でも武芸でも異母兄弟の中で最も優れているのは道僧だった。それでも父を満足させることはできない。一度も誉められたことはない。

「おまえがあの漢族の奴隷を使って内応の策を成功させれば、我が納合家の格は跳ね上がったであろう、だが失敗した! おまえはいつもそうだ! 詰めの甘い愚か者めが! 納合家の面汚しめが! 父を失望させ、父に恥をかかせる不孝者めが!」

 申し訳ありませんとつぶやく。繰り返す。怒鳴り散らす父の耳に道僧の声が届いているはずもない。

 打たれた拍子に舌を噛んだ。頬の内側の肉も噛んだ。血の味が口の中に広がる。なおも繰り返す。申し訳ありません。ごめんなさい。ごめんなさい。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 ちちうえ、ごめんなさい。わたしがおろかだから、ちちうえがはじをかきました。いつもいつも、わたしのためになさけないおもいをさせてしまって、ごめんなさい。ゆるしてください。ごめんなさい。ごめんなさい。

 せっかんがいつ終わったのか、記憶にない。

 吾也は、撒速から下賜された酒を飲んで眠っていた。外の嵐はいつしか収まっているようだった。道僧は傷付いた肌の上に服を着込み、帽子をかぶって帳幕の外に出た。

 一面、白く凍っていた。吐き出した息がかがりを映して、きらきらと光って消えた。

「冬を司る神が湖北にも降臨したもうたか」

 冷気が肌を刺す。激しい寒さがなつかしい。

 空を仰ぐと、雲間にほくしんが輝くのが見えた。幼い頃、吾也の手で真冬の屋外に放り出され、泣きながら星を数えた。幾十、幾百もの、そんな夜があった。

 星の光はいつも冴え冴えとして優しかった。打たれて腫れた頬や背中、あざだらけの腕や脚の痛みを、星は束の間、忘れさせてくれた。

 王虎も痛かっただろう、と思う。襄陽へ潜入する前日、道僧は王虎に頼まれて彼の髪を剃り、体じゅうに傷と痣をこしらえた。

 道僧の体は、無抵抗の人間を痛め付ける方法を知っていた。それは己が受けた仕打ちを鏡に映して反復する行為だからなのか、あるいは道僧が吾也の血を引いているからなのか、自分でもわからなかった。道僧はきわめて冷静に、王虎を無残な姿にした。

 ふと気付いて、道僧は手を開いた。印章を握り締めたままだった。掌も指も赤く内出血を起こしている。外気に触れ、小さな青銅の塊はたちまち冷たくなった。

 異母兄の李通古も湖北の戦陣に加わっているらしい。左翼、すなわち徳安を攻める軍勢に属し、華々しい戦果を上げて表彰されたという。

 李通古の手にも青銅製の印章があるはずだ。道僧と違って、己の戦働きによって授けられた印章が。

 四つ年上の異母兄のことは、嫌いではなかった。異母兄弟の中では一番親しかったかもしれない。吾也の妾であった李姓の女は女真語を全く解さなかったが、美しくて優しかった。彼女のことも、嫌いではなかった。

 吾也は、生粋の女真族ではない李通古にさほど目を掛けていなかった。李通古は吾也に殴られたことがないという。吾也は李通古にとって遠い人間なのだと、声変わりがそろそろ落ち着こうという頃のまだいくらか細い声で彼が言ったのを覚えている。

 あれ以来だ。何となく互いに避けるようになったのは。

 まさか湖北の戦場で李通古の名を聞かされるとは想像していなかった。吾也は今、道僧よりも李通古に期待をかけているのだろうか。

 そんなふうに久方ぶりに異母兄を思い出した夜から、今日で五日になる。

 あの日、氷が張って白く染まった萬山は、おおかた常緑の色を取り戻している。

 青銅製の右翼副統の印章は道僧の手の中にある。正月一日には撒速の本陣へ参ずるようにと、吾也だけでなく道僧にも通達が来た。新年を祝う宴は、また同時に、正月三日に決行される総攻撃に向けた壮行会でもある。

 夜の中に一人立ち尽くして、ぽつりと、道僧はつぶやいた。

「また人が死ぬのか」

 眠れぬ夜が続いている。今夜にも襄陽軍の奇襲があるのではないか。眠っているうちに殺されてしまうのではないか。徳寿の死を間近に目撃して以来、道僧は恐れてばかりいる。

 なぜ戦をしなければならないのか。

 誰にも問うてはならない問いを道僧が胸中で重ねたとき、にわかに寨が騒がしくなった。耳を澄ますと、急使が来たのだとわかった。

 夜半である。こんな刻限に飛び込んでくる知らせなど、ただ一つしかない。

「我が陣営の寨が宋賊に襲われています! 納合様、どうか救援を!」

 悲鳴にも似た急報が納合家の寨を駆け抜けた。

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