七.エーヌ

 今まさに奇襲を受けているのが萬山西麓の蒲察家のさいであると知った次の瞬間には、道僧は動き出していた。

 西麓の寨には多保真がいる。多保真の身に何かあったらと想像すると……いや、想像することさえあまりにおぞましい。道僧は考えるのをやめた。

 愛馬も既に目を覚ましていた。その背に鞍を掛けて飛び乗り、手綱を取る。愛馬はすぐに駆け出した。道僧の掲げる松明たいまつひとつを頼りに、金軍が山中に敷いたばかりの道を突っ切る。

 途中で視界が明るくなった。向かう先に次々と炎が立ち上るためだ。

 煙と火薬の匂いがする。破壊の音が聞こえる。悲鳴と断末魔。

 だが、襲撃者の声が聞こえない。そのことに気付いて、道僧はぞっとした。尻尾をつかませない、姿の見えないごとの襲撃者は、もしや幽鬼の類ではないのか。あるいは神霊。総攻撃と定めた日の荒天は、人ならぬ敵が金軍を阻むために講じた策だったのではないか。

な。敵は襄陽軍だ。人間だ。我ら女真族と同じ、人間」

 脚で馬の腹を締め、先を急ぐ。

 やがて、寨から避難してきた兵士たちと出会った。兵士たちはおびえ切っていた。人馬の姿を敵と見間違え、悲鳴を上げて逃げ出そうとした。

「待て、私だ、納合道僧だ! 救援に来た!」

 えて女真語で叫んだ。

 はっと我に返った兵士たちに、道僧は尋ねる。

「多保真を見なかったか?」

 一人の兵士がまろび出て、泣き声交じりに訴えた。

令媛おじょうさまがおられるはずの一角は、既に宋賊に侵され、女中たちが連れ去られるのを見ました……で、ですが、連れ去られる中に令媛おじょうさまの御姿はなく、だから、うまく御逃げあそばしたかもしれません」

 兵士が己の無力を嘆いて号泣するのを、道僧は聞いていなかった。人馬一体となって、つむじ風のように疾駆する。

 多保真の帳幕の位置は把握している。うんという名の小さな仏閣のそばだ。僧侶の常住しない草庵のようなもので、こぢんまりとして質素なたたずまいが愛らしいと、多保真がずいぶん気に入っていた。

 紫雲寺は無残に破壊されていた。ひしゃげた戸が放り出され、叩き潰された帳幕と一緒くたになって燃えている。紫雲寺の中は武器庫になっていたはずが、何もない。

 体にの刺さった男が転がっている。脚を折った馬が、横たわったまま悲しげにいなないた。いくらか離れた場所では、雲梯とおぼしき影が炎に呑まれている。

 さまざまなものが無秩序に散らばり、打ち捨てられていた。鍋や碗、女物の帽子、割れた木牌たて、刃のこぼれた槍、剣の鞘、靴、帳幕の支柱、かまどの跡。

 道僧は馬から飛び降りた。

「多保真……」

 呼ぶ声は、尻すぼみに小さくなった。山じゅうに響く大声で呼んだとして、応える声がなかったら?

 ぴしり。

 唐突に、思わぬ方向から音がした。小枝を踏み折った音だと察し、道僧は振り向きながら身構える。

 細身の若い男がいた。胴鎧に長柄の斧、腰に弩を提げただけの簡素な武装だ。

「誰もいねえはずの方角からひづめの音が聞こえたんだよな。今回、俺らは歩兵だけだってのにね。変だと思って来てみりゃあ、やっぱり新手の登場かい」

 軽やかな口調でしゃべる男は、破壊の跡がなまなましく残るこの場に不似合いな、奇妙に明るい笑顔だった。まるで今の状況を楽しんでいるかのように。

「貴様、襄陽の手の者か」

「それ以外の何だと思う? 萬山に住む仙人、なーんて言ったところで、柄じゃあねえしな」

「ふざけるな」

「そうかい。じゃあ、まじめにやろうかな。女真族の御兄さん、ちょいと手合わせしてくれよ。まあ、手合わせっつっても、あんたは本気出さなけりゃ死ぬぜ? ってことで、襄陽敢勇軍のはい益明、参るッ!」

 斧の男が地を蹴った。

 道僧は足下の槍を拾いざま、斧を槍で受ける。勢いの乗った一撃は重い。弾き飛ばされそうなのを、踏ん張ってこらえる。形の違う刃が噛み合い、耳障りな音を立てた。

 刃越しに男を睨む。男がにやりとする。

「手応えがありそうだね」

 互いに半歩引く。

 斧がひるがえる。速い。道僧は槍で受ける。火花が散って、また斧がひるがえる。道僧はすんでのところでかわし、退いて体勢を立て直そうとする。

「させるかよ!」

 斧の一閃。道僧の動きは読まれている。ぎりぎりの格好で槍を振るって斧の軌道をらす。

 どっと冷や汗が噴き出す。

「おいおいおい、どうした! 反撃してみろよ!」

 重いはずの長柄の斧が、羽のようにひらひらと打ち振るわれる。軽快な一撃を槍に受ければ、しかし重い。やはり重いのだ。たやすく弾き飛ばされそうなほどに。

 五合、六合と、辛うじてしのいだ。腕が痺れ始めている。体格に差はないというのに、りょりょくが違う。技量が違う。

 電光石火のごとく打ち下ろされる連続攻撃を受け流し、躱し、防ぎ、また受け流す。

 次の瞬間、槍が斧に絡め取られた。上からではない。下からすくい上げる軌道だ。

 槍はあっさりと道僧の手を離れた。宙を舞い、地に転がる。

 男の目に殺気が光った。

シャアッ!」

 しかし。

 どこかで銅鑼の鳴る音がした。男が目をしばたたかせた。

「おやおやおや、ありゃあ俺らの撤退の合図だ。仕方ないね。というわけで、俺、帰るわ。この試合は俺の勝ち逃げってことでいい? それじゃまた、生きてたら会おうぜ。あばよ!」

 男は斧を担ぎ、ついでに今し方まで道僧が使っていた槍を拾って担ぐと、もと来たほうへと駆けていき、あっという間に木立の暗がりにまぎれた。

 道僧は呼吸も忘れて立ち尽くしていた。

 震えが這い上がってきた。斧の男は、道僧が太刀打ちできる相手ではなかった。銅鑼が鳴るのが少し遅ければ、道僧は簡単に殺されていただろう。

 膝が砕けそうになったとき、声がした。

「道僧」

 ほっそりとした姿が、ふらふらと、炎の傍らに立った。

「多保真……!」

「本当に、道僧なのね?」

 多保真の肩から、汚れたむしろが滑り落ちた。着衣に乱れはない。帽子を失った髪がほどけ、乱れて顔に掛かっている。

 気が付けば、道僧は多保真を胸に抱き締めていた。ぬくもりと柔らかさと重みと震えを、己の両腕で確かめた。

「生きていてくれてよかった」

「紫雲寺に物乞いが住み着いていたの。あの者たちに、わたしはいつも食べ物を与えていた。襲撃があったとき、あの者たち、すぐにわたしに筵をかぶせて隠して、宋賊からわたしをかばってくれて……あの者たちが代わりに連れていかれてしまったけれど……」

 多保真はせきを切ったように泣き出した。今まで声を上げずに一人で耐えていたのだ。

「遅くなって、すまなかった。この手で君を救うことができなくて、ただ不甲斐ない」

「道僧は悪くない。来てくれた……危ないのに来てくれたの、それだけでわたしは嬉しいの、ほっとしたの。生きて……宋賊に何もされずに、生きていられて、ああ……っ」

「君まで奪われずに済んでよかった」

 多保真が泣きじゃくる顔を上げた。涙で濡れた両眼はぎらぎらと強く光っている。

「そうよ、奪われてばかり! 徳寿を奪われた。王虎を奪われた。今度はわたしの女中、従者、忠実だった兵士や物乞い。宋賊は何もかもわたしから奪っていく!」

 激情を宿した多保真は嵐の空の稲光のように美しく、また恐ろしかった。道僧は言葉を失った。多保真の吐息が熱い。それが感じられるほどの近さで、道僧は多保真のまなざしにとらわれている。

「わたしは宋賊が憎い」

 道僧は、頭の芯が痺れるような気がした。多保真の美しい唇が、憎いと繰り返した。

 憎いという言葉は、きっと甘美な毒なのだ。毒が多保真の漆黒の目に広がっていく。まなざしに力が増す。

 多保真は、確信に満ちた声で言った。

「宋賊が憎い。憎くてたまらない。徳寿は下の者たちに優しく、本当にいい子だったけれど、一つだけ大きな勘違いをしていたわ。宋賊とわかり合えるだなんて、あの子、なぜそんな愚かな考えにとらわれてしまったのかしら。わたしはあやまたなくてよ。決して」

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