七.エーヌ
今まさに奇襲を受けているのが萬山西麓の蒲察家の
西麓の寨には多保真がいる。多保真の身に何かあったらと想像すると……いや、想像することさえあまりにおぞましい。道僧は考えるのをやめた。
愛馬も既に目を覚ましていた。その背に鞍を掛けて飛び乗り、手綱を取る。愛馬はすぐに駆け出した。道僧の掲げる
途中で視界が明るくなった。向かう先に次々と炎が立ち上るためだ。
煙と火薬の匂いがする。破壊の音が聞こえる。悲鳴と断末魔。
だが、襲撃者の声が聞こえない。そのことに気付いて、道僧はぞっとした。尻尾をつかませない、姿の見えない
「
脚で馬の腹を締め、先を急ぐ。
やがて、寨から避難してきた兵士たちと出会った。兵士たちは
「待て、私だ、納合道僧だ! 救援に来た!」
はっと我に返った兵士たちに、道僧は尋ねる。
「多保真を見なかったか?」
一人の兵士がまろび出て、泣き声交じりに訴えた。
「
兵士が己の無力を嘆いて号泣するのを、道僧は聞いていなかった。人馬一体となって、つむじ風のように疾駆する。
多保真の帳幕の位置は把握している。
紫雲寺は無残に破壊されていた。ひしゃげた戸が放り出され、叩き潰された帳幕と一緒くたになって燃えている。紫雲寺の中は武器庫になっていたはずが、何もない。
体に
さまざまなものが無秩序に散らばり、打ち捨てられていた。鍋や碗、女物の帽子、割れた
道僧は馬から飛び降りた。
「多保真……」
呼ぶ声は、尻すぼみに小さくなった。山じゅうに響く大声で呼んだとして、応える声がなかったら?
ぴしり。
唐突に、思わぬ方向から音がした。小枝を踏み折った音だと察し、道僧は振り向きながら身構える。
細身の若い男がいた。胴鎧に長柄の斧、腰に弩を提げただけの簡素な武装だ。
「誰もいねえはずの方角から
軽やかな口調でしゃべる男は、破壊の跡がなまなましく残るこの場に不似合いな、奇妙に明るい笑顔だった。まるで今の状況を楽しんでいるかのように。
「貴様、襄陽の手の者か」
「それ以外の何だと思う? 萬山に住む仙人、なーんて言ったところで、柄じゃあねえしな」
「ふざけるな」
「そうかい。じゃあ、まじめにやろうかな。女真族の御兄さん、ちょいと手合わせしてくれよ。まあ、手合わせっつっても、あんたは本気出さなけりゃ死ぬぜ? ってことで、襄陽敢勇軍の
斧の男が地を蹴った。
道僧は足下の槍を拾いざま、斧を槍で受ける。勢いの乗った一撃は重い。弾き飛ばされそうなのを、踏ん張ってこらえる。形の違う刃が噛み合い、耳障りな音を立てた。
刃越しに男を睨む。男がにやりとする。
「手応えがありそうだね」
互いに半歩引く。
斧がひるがえる。速い。道僧は槍で受ける。火花が散って、また斧がひるがえる。道僧はすんでのところで
「させるかよ!」
斧の一閃。道僧の動きは読まれている。ぎりぎりの格好で槍を振るって斧の軌道を
どっと冷や汗が噴き出す。
「おいおいおい、どうした! 反撃してみろよ!」
重いはずの長柄の斧が、羽のようにひらひらと打ち振るわれる。軽快な一撃を槍に受ければ、しかし重い。やはり重いのだ。たやすく弾き飛ばされそうなほどに。
五合、六合と、辛うじて
電光石火のごとく打ち下ろされる連続攻撃を受け流し、躱し、防ぎ、また受け流す。
次の瞬間、槍が斧に絡め取られた。上からではない。下からすくい上げる軌道だ。
槍はあっさりと道僧の手を離れた。宙を舞い、地に転がる。
男の目に殺気が光った。
「
しかし。
どこかで銅鑼の鳴る音がした。男が目をしばたたかせた。
「おやおやおや、ありゃあ俺らの撤退の合図だ。仕方ないね。というわけで、俺、帰るわ。この試合は俺の勝ち逃げってことでいい? それじゃまた、生きてたら会おうぜ。あばよ!」
男は斧を担ぎ、ついでに今し方まで道僧が使っていた槍を拾って担ぐと、もと来たほうへと駆けていき、あっという間に木立の暗がりにまぎれた。
道僧は呼吸も忘れて立ち尽くしていた。
震えが這い上がってきた。斧の男は、道僧が太刀打ちできる相手ではなかった。銅鑼が鳴るのが少し遅ければ、道僧は簡単に殺されていただろう。
膝が砕けそうになったとき、声がした。
「道僧」
ほっそりとした姿が、ふらふらと、炎の傍らに立った。
「多保真……!」
「本当に、道僧なのね?」
多保真の肩から、汚れた
気が付けば、道僧は多保真を胸に抱き締めていた。ぬくもりと柔らかさと重みと震えを、己の両腕で確かめた。
「生きていてくれてよかった」
「紫雲寺に物乞いが住み着いていたの。あの者たちに、わたしはいつも食べ物を与えていた。襲撃があったとき、あの者たち、すぐにわたしに筵をかぶせて隠して、宋賊からわたしを
多保真は
「遅くなって、すまなかった。この手で君を救うことができなくて、ただ不甲斐ない」
「道僧は悪くない。来てくれた……危ないのに来てくれたの、それだけでわたしは嬉しいの、ほっとしたの。生きて……宋賊に何もされずに、生きていられて、ああ……っ」
「君まで奪われずに済んでよかった」
多保真が泣きじゃくる顔を上げた。涙で濡れた両眼はぎらぎらと強く光っている。
「そうよ、奪われてばかり! 徳寿を奪われた。王虎を奪われた。今度はわたしの女中、従者、忠実だった兵士や物乞い。宋賊は何もかもわたしから奪っていく!」
激情を宿した多保真は嵐の空の稲光のように美しく、また恐ろしかった。道僧は言葉を失った。多保真の吐息が熱い。それが感じられるほどの近さで、道僧は多保真のまなざしにとらわれている。
「わたしは宋賊が憎い」
道僧は、頭の芯が痺れるような気がした。多保真の美しい唇が、憎いと繰り返した。
憎いという言葉は、きっと甘美な毒なのだ。毒が多保真の漆黒の目に広がっていく。まなざしに力が増す。
多保真は、確信に満ちた声で言った。
「宋賊が憎い。憎くてたまらない。徳寿は下の者たちに優しく、本当にいい子だったけれど、一つだけ大きな勘違いをしていたわ。宋賊とわかり合えるだなんて、あの子、なぜそんな愚かな考えにとらわれてしまったのかしら。わたしは
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