八.兵民をねぎらって宴を開け

 大晦日の襄陽はにぎやかだった。日頃の奮闘をねぎらう宴が昼から開かれ、兵も民も入り交じって唄を歌い、講談に興じ、酒を酌み交わし、忘れがちだった笑顔を取り戻した。

 その日、趙萬年の城壁警備の当番は、西の空が赤く焼ける頃に始まった。日が沈んで気温が落ち、空が暗くなって星が明るく輝き出すまでを城壁上で過ごすと、交代の刻限だった。

 趙萬年と王才の持ち場に上ってきたのは、旅世雄たち敢勇軍の船乗りだった。皆、酒精の入った赤い顔をしているが、足取りや身のこなしは確かなものだ。

 仕事から解放された趙萬年と王才は、襄陽の街並みを歩いた。

 城内にいくつかある広場や大きな寺、ぶんびょうと武廟、またそれらに至る道と付近の食堂には、今夜ばかりは盛大に明かりがともされている。普段は火事の危険に備え、軍に関わりのある施設を除いては夜間の火の使用が禁じられ、おかげでひどく暗いのだが。

 夜が明るいというだけで、人の心も明るくなるのかもしれない。あるいは、火を焚いて暖かくなった空気が、人の心をも温めるのか。

「こうしてみると、襄陽は本当に人だらけだな」

 趙萬年は声を張り上げた。前を歩く王才は肩越しに振り返り、うなずく。

「ああ、すげえ人混みだ。戦えない人たちは、いつもは閉じこもってんだろうな。表に出てきたら、こんなにすげえことになるんだ」

 およそ四百五十丈(約一.四公里キロメートル)四方の襄陽は今、もとからの住民に加え、趙家軍が駐屯し、近隣からの避難民なども受け入れたため、二万人以上が暮らしている。あまりの狭苦しさがたたって心身の病を発した者も少なくない。

 そんな日頃の鬱憤を晴らすべく、城を挙げての今日の宴はとにかく陽気で騒がしい。趙こうが采配を振るって風紀の監視をしているおかげもあり、今のところ、喧嘩や火事が起こってはいないようだ。

 趙萬年は王才に追い付いて隣に並ぼうとするのだが、そのたびにちらりと振り返る王才が正面に来て邪魔をする。

「なあ、元直!」

「何だよ?」

「おまえの背中しか見えない」

「阿萬は俺の後ろから来いよ。人波に流されたくないだろ」

「何だそれ! 年下のくせに生意気だぞ!」

「年下とか関係ねえ。阿萬は危なっかしいんだ」

「元直なんか、ちょっと前までオレに手え引かれながら付いてくるばっかりだったのに」

「代わりに今度は俺が阿萬の手え引いてやろうか?」

「なめんな、野郎!」

「違えよ、なめてるわけじゃねえ。とにかく、離れずに付いてこいよ」

 明日、新年を迎えれば趙萬年は十九、王才は十七になる。今だ若年の二人は、酒を飲むより飯を食らうことのほうがずっと好きだ。

 敢勇軍が三日ほどかけて牛や豚を狩ってきたおかげで、宴にはたくさんの肉料理が供されている。狩場は金軍のさいだ。あちらでは貧相な食糧事情の年末年始と相成っているかもしれない。

 先程、旅世雄から、西隅広場で振る舞われている料理が美味かったとの情報を得た。細切れにした牛肉ときのこをざっと炒め、塩と醤で味付けし、大蒜にんにくと唐辛子とさんしょうを効かせて、米にぶっ掛けた料理だ。腹にたまるし、香辛料の薬効で汗が出るほど体が温まるという。

 果たして、西隅広場の料理は美味かった。腹がいっぱいになったし、唇がひりひりするほど辛くて、それもまた悪くなかった。その上、給仕を切り盛りしていたうちの一人、優しげな顔で大きな腹をした女が旅世雄の妻だと聞いて、何だか愉快でもあった。

 王才は旅世雄の妻に御代わりをよそってもらった後、額の汗を拭いながら、にんまりした。

えいえいのやつ、西隅広場の料理が一番美味いなんて言ったのは、つまりのろじゃねえか」

太太おくさんの顔見ながら食う飯が一番美味いって?」

「そう、それ。永英の気持ち、俺にもわかるな。俺ひとりより、阿萬と二人で食う飯のほうが絶対に美味いし」

「永英んとこの子供が産まれるの、春なんだってさ。それまでにスカ金を追っ払えたらいいな」

「阿萬、無視かよ」

「あ? 何だ?」

 王才は言葉を探すように口元をもごもごさせたが、結局黙って、皿に盛られた飯をさじで掻き込んだ。

 趙萬年と王才は一杯ずつ酒を飲んでから西隅広場を後にして、いつもと違う襄陽を歩き回った。

 茶商の路世忠が、趙萬年が知る限り初めて本業を営んでいた。花の香りを閉じ込めた特製の団茶を、一夜限りで誰にでも大盤振る舞いしている。

「これはこれは、趙家軍のわかしょうぐんの御二人ではありませんか。一服していきませんか?」

 勧められたが、日頃は親に外出を禁じられた若い娘たちが今宵ばかりはと、はしゃぎながら花茶と干し果物を楽しんでいる。好奇心旺盛な目に撫で回され、聞こえよがしに黄色い声を上げられて、趙萬年も王才もそこに突っ込んでいく気がしなかった。

 趙家軍と敢勇軍の若い連中が集う一角があった。にぎやかな名調子で競争をあおっては皆の気分を盛り立てるのが得意なはい顕が、歌自慢の大会を開いている。

「おいおいおい、色恋のうたなら、もっと心を込めようぜ! そんなんじゃ、惚れた女の胸を疼かせることなんざできねえぞ」

 からかう裴顕に、それじゃあおまえが歌ってみろよと野次が飛ぶ。裴顕はひょいと酒樽の上に飛び乗った。舞台俳優のようにおおな御辞儀を一つ。

「では、とうちょうれん・春景』。御清聴あれ」


花褪殘紅青杏小(花はたいざんの紅、青杏は小なり)

燕子飛時、綠水人家繞(燕子の飛ぶ時、綠水の人家にめぐる)

枝上柳綿吹又少(枝上の柳綿は吹きて又少なし)

天涯何處無芳草(天涯、何處いずこにか芳草無からん)

ほら、もうすっかり春だ 色あせた花のあとには青い果実

水辺の家に燕が来たよ くるくる飛んでいたよ

柳の花が風に舞い踊るよ ふわふわ旅立っていくよ

ほら、草の匂いのする春の丘は ここにあるんだ


牆裏秋千牆外道(しょうの秋千、しょうがいの道)

牆外行人、牆裏佳人笑(牆外の行人、牆裏の佳人は笑う)

笑漸不聞聲漸悄(笑はようやく聞かず、聲は漸くしょうなり)

多情卻被無情惱(多情、かえりて無情ののうこうむる)

ねえ、ブランコを漕ぐ君 僕は君の壁の外にいるんだろう

壁の中は見えないんだよ 笑い声だけ聞こえてきたよ

それもだんだん消えたよ 声すら聞こえなくなったよ

ねえ、近付いた分だけ余計に今 苦しくなったんだ


 騒がしかった歌自慢の会場は静まり返った。裴顕の声は笛の音にも似て、少し乾いてかすれながら空気を震わせ、熱い吐息と共にどこまでもまっすぐに通る。

 表情豊かな裴顕の顔に、見たことのない色が宿っていた。振り向かれることのない、ひたむきな恋慕。詞に詠み上げられた情景がありありと聴衆の脳裏に浮かぶのは、裴顕が真にいだく想いが強く込められているからではないか。

 歌い終わった裴顕が、ふっと柔らかく微笑む。

 拍手が沸き起こった。すると、次の瞬間には切なげな面差しはどこへやら、裴顕はいつもの調子に戻って、酒樽の上でふんぞり返った。

「どうだ、恐れ入ったか! 喧嘩も強けりゃ歌もうまい、脱げば華麗な肉体美! この裴益明よりいい男だと自信のあるやつがいれば名乗り出ろ! 勝負してやるぜ!」

 趙萬年と王才は、あれじゃあ見事な歌も台なしだと、顔を見合わせて笑った。

 明かりのともった道は人が多い。にぎわいに少し疲れて、趙萬年と王才は水路沿いを歩く。庁舎へ戻って眠ったら、朝にはまた城壁警備の当番だ。

 王才が急に趙萬年の腕を引き、立ち止まった。

「あのさ、阿萬。俺、おまえに話が……」

「ちょい黙れ。あれ見ろ」

 趙萬年が指差す先に、人影が二つあった。男と女だ。表の明かりがうっすらと届く柳の木の傍らで、逢瀬と呼ぶにはいささか離れて向かい合っている。

 男は趙淳で、女は旅翠だった。まさに今し方、ここで出くわしたらしい。趙淳が気まずげに言った。苦笑しているらしかった。

「すまない、何というか、あの……別人かと思った。悪い」

 旅翠は屈託なく笑った。気っ風のよい華やかな笑声に合わせて、髪飾りがきらきらと揺れるのが見えた。

「あたしだって、男の格好ばっかりしているわけじゃあないんですよ。まあ、ついさっきまで厨房の裏方で、動きやすいいつものじゅうを着ていましたけどね」

 淡い色をした袖は大きくゆったりとして、くるぶしまで届く裾は柔らかな形に広がっている。半ば結い上げ、半ば背中に流した髪は、思い描いていたよりずっと豊かで長く、香り立つように色っぽい。

 趙淳はさりげなく旅翠から目をらした。

「宴は大盛況だな。息抜きになりゃあいいんだが」

「なってますよ。戦働きでくたびれ気味の男たちはもちろん、閉じ込められっぱなしのみんなも、久しぶりに心から楽しそうです」

「そうか」

「それと、兵士たちに恩賞をくださっただけじゃなくて、花街の女たちにも商売の許可をくださって、ありがとうございました。あの子たち、戦闘も料理も武器作りもできない育ちをしてますから、これでやっと御役に立てるって、すごく喜んでて」

 趙淳が、少し笑った。

「翠瑛、若い娘が平然と花街の話なんかしてくれるなよ」

「残念ながら、あたしは船乗りですから、すれちまってるんですよ。男が花街にしけ込むのは仕方のないことでしょう?」

「まあ、おかしな犯罪が起こる前に花街の女たちに協力を取り付けることができたのはよかったな」

 水路のそばは風が抜ける。柳の枝がしなやかにそよぎ、旅翠の髪もまたふわりと膨らむ。旅翠は、顔の前に流れてきた髪を指ですくって耳に掛けた。

「一つ、御尋ねしていいですか?」

「どうした?」

「伯洌将軍と仲洌将軍が皇族のらくいんだという噂があるんです。ほら、趙姓って、宋の皇室と同じでしょう?」

 趙淳が低い笑い声を立てた。

「御落胤だったのは、俺たちの曽祖父さんだ。親父は貴族の教育を受けたらしいが、俺と仲洌は山出しの無頼漢に過ぎねえよ」

「御二人とも無頼漢には見えません。やっぱり、由緒ある血筋の御人だったんだ」

「おいおい、こんな血筋、何の役にも立ちやしねえぞ。何せ、皇室はもちろん朝廷からもよその城市や軍閥からも、一兵の援助も受けられねえ程度の権勢だ。大したもんだろう」

 趙淳は笑ってみせていたが、ぷつんと切って落とすように、うつむいて溜息をついた。

 しばらく趙淳も旅翠も無言だった。柳の枝がふわふわと踊る。

 やがて旅翠が、さて、と言って踵を返した。袖も裾も髪も、舞を舞うようにしなやかになびいた。

「あたしはそろそろ帰ります。伯洌将軍も、休めるときには休んでくださいよ」

 振り向いた横顔には傷がある。だが、その傷を隠さずに微笑む旅翠は、誰よりも美しい。星明りをまとう姿は、内側から輝いているようでもあった。

 趙淳は立ち尽くして、女傑のたおやかなたたずまいに見惚れている。辛うじて一言、ありふれた文句を口ずさむばかりだ。

「夜道に気を付けてな」

「あたしにちょっかいを出せるような男がいると思います?」

 ころころと笑いながら、旅翠は一人、水路のほとりを歩いていく。

 趙萬年は駆け出した。短い距離を突っ走って、立ちん坊している趙淳の尻に、勢いよく飛び蹴りを食らわせる。

「ば、莫迦、痛えじゃねえか!」

「莫迦は大哥あにきだ、大莫迦野郎の朴念仁! おたんこなす! 翠瑛を家まで送ってやれよ、へっぽこぴー!」

 追い付いてきた王才が、無言で趙淳の背中を押した。趙淳は二人の弟分に睨まれ、目を泳がせ、天を仰いで大きく息を吐き出してから、旅翠を追って小走りになった。

「まったく世話が焼ける」

 趙萬年がしかめっ面で腕組みをしたとき、不意に暗がりから現れた趙淏が、いつになく楽しげにくすくすと笑った。

 満天の星の下、こんな情景を描きながら、襄陽のかい二年(一二〇六年)最後の夜は更けていった。

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