二.床を払え

 幾日経ったのか、もうわからなくなった。

 趙萬年は寝てばかりだった。怪我をした後に特有の眠気にとらわれるまま床を離れることができず、しかもふうじゃにやられて感冒かぜまで患ってしまったのだ。

 ちょうぐんの本営を兼ねる襄陽府知事の庁舎は、各方面との連絡のために人の出入りが激しい。趙萬年はそんな建物の一室にこもっていたわけだが、ちょうこうりょすいあたりが面会謝絶を言い渡したらしく、見舞い客の訪れもなかった。

 ねつじゃに浮かされて、ぼうっとしながら、日に何度か薬湯を飲んだ。漬物と鶏卵の入ったかゆにも薬草の類が煮込まれていたらしく、鼻が利くようになった頃に、つんとした匂いに気が付いた。

 そしてある朝、ようやく風邪も熱邪も去っていったみたいだ。頭にもやのかかる感覚が消えた。がいじゃが渦巻いて調子の狂っていた五臓六腑が動き出し、久方ぶりに空腹を覚える。

「何か食いたい」

 趙萬年がつぶやくのと、部屋の戸が開くのが同時だった。

 戸を開けたのは趙淏で、二つの手にはそれぞれ粥と薬湯の碗がある。両手がふさがっているのに難なく戸を引いてしかも全く音を立てないという芸当が、いかにも隠密任務を担う趙淏らしくて、趙萬年は少し笑った。

 趙淏は切れ長な目を見張った。

ばん、起きていたのか」

 また音を立てずに戸を閉める。寝台に歩み寄る足音も、少しも聞こえない。

 趙淏が身頃のぴったりとしたじゅうを好むのは、衣擦れの音さえいとうからだ。あしさばきの邪魔になる裾の長い上着も滅多に着ない。

 趙萬年は寝台に腰掛けたまま、傍らの小卓に二つの碗を置く趙淏を見上げた。

「ついさっき目が覚めた。いつまでも寝てらんねえって」

「阿萬が熱を出して寝込むなど、五年ぶりだな。回復してよかった。ああ、粥より先に薬湯を飲め」

「ええっ、腹減ってんのに」

 口を尖らせながら、趙萬年は薬湯を飲み干した。旅翠の家で煎じてもらったのと同じ、甘苦い味がする。

 趙淏は趙萬年から空の碗を受け取り、代わりに粥の碗を差し出した。

「旅すいえいは腕が立つだけではなく、いくらか医術の心得もあるようだな。阿萬の看病は、脈を按ずるにせよ薬を調合するにせよ、彼女が一人で請け負って、私や大哥あにうえでさえ近付かせてもらえなかった」

「うん。翠瑛はすげえよ。オレも薬のことがわかったら、皆の役に立てるよな。ずっと寝っぱなしの間に、怪我や病気ってきついんだなって痛感した。これを治すための知識があるって、すげえことだ」

 趙萬年は、碗に突っ込んであったさじで粥をすくい、ふうふうと息を吹き掛けてから口に運んだ。

 米は、ちょうじゅんが気前よく公営倉を開放し、給食所に運び込んだものだ。籠城より前に夜逃げした襄陽府知事が戻ってきたら、激怒することだろう。貯蔵された米は、中央から派遣された官僚にとって、非常時に民衆に分けるべき食糧ではなく、己の私腹を肥やす財産なのだ。

 趙淏は目を細めて趙萬年の旺盛な食欲を見守っていた。

「本当に回復したようだな。安心した。目覚めないんじゃないかと心配した日もあったんだぞ」

「こんくらいじゃ死なねえっての。二哥にいちゃんおおだな」

二哥にいちゃんはやめろと言っているだろう。私はおまえの実兄ではない。それに、決して大袈裟でもないぞ。阿萬、今日が何日かわかるか?」

「わかんねえ。何日?」

「十八日だ。阿萬が怪我をした日から、十五日も経っている」

「嘘っ? そんなに?」

「心配するのも道理だろう。あの戦闘で体が傷付いただけではなく、気も大いにすり減ってしまったに違いないと思った。阿萬はよくやってくれるから、そのぶん苦しませてしまうな」

 趙淏は、髪を下ろしたままの趙萬年の頭にてのひらを載せた。趙萬年は粥を食べる手を止め、趙淏を見上げた。

「手、冷たい。外に出てたのか? ちゅうれつこそ、気がすり減ったような顔してる。何かあったんじゃねえの?」

 趙淏の目の下に、はっきりと隈がある。それをごまかすように趙淏はそっぽを向き、小奇麗なひげの口元を歪めた。

「外と連絡がつかない。襄陽と同じくかんがんさつそくの軍による襲撃を受けているはずのずいしゅうとくあん、金と国境を接したせん地方やわいなん地方。手紙を送ったそれらの場所のどこからも返事が来ない。朝廷にも南方の諸城市にも援軍要請を出したが、こちらも音沙汰なしだ」

「向こうがオレたちを無視してるってことか? それとも、クソ金の包囲のせいで手紙自体が途中で止められちまってる?」

「手紙を持たせた者が生きて戻ってきていない以上、どちらとも判断できない。いずれにせよ、嫌な状況だ」

 趙萬年は匙を碗に突っ込むと、手を挙げて、頭上にある趙淏の手をぽんぽんと叩いた。冷えた手は筋張って骨が太く、趙萬年の掌よりもずっと大きい。

「援軍が来ねえことは最初から覚悟してただろ。よそ者の援軍よりかんゆうぐんのほうが強いしさ、どうにかなるって。それより、仲洌に頼みがあるんだけど」

「頼み? 何だ?」

「髪、結ってくれよ。仲洌がやってくれたら、すげえ綺麗に仕上がるから、いいんだ」

 趙淏は嘆息するように笑った。

「わかった。まずは食事をしてしまってくれ」

「うん。すぐ食っちまう。あのさ、オレが寝てる間に何が起こったか聞かせてくれよ。ザコ金、攻めてきたんじゃねえか?」

「いや、さほど深刻な襲撃はなかったな。数百の軍勢がちょっかいを出しに来たことが数度。そのたびに難なく撃退した。この十五日間における戦闘は、むしろこちらから仕掛けたものばかりだ。敢勇軍の奇襲が劇的な戦果を上げている」

 夜の闇にまぎれ、河川や水路から忍び寄る敢勇軍は、金軍のさいに押し入って帳幕や小屋を破壊し、攻城兵器を焼き、武具や食糧や家畜を奪ってくる。

 水際の戦闘で傑出した指揮官ぶりを発揮するのは、船乗りのりょせいゆうだ。

 十二月五日の夜、四千人を率いて出撃した旅世雄は、軍勢を三つに分かち、一隊を伏兵として下流の浅瀬に待機させた。上流の二つの隊で金軍の寨を水陸から襲撃すると、金軍兵士は慌てふためき、旅世雄の想定にたがわず下流の浅瀬へと逃げ込んだ。

 ここで伏兵が弩を斉射した。金軍兵士は、を受けて倒れ、あるいは深瀬に落ちて溺れ、浅瀬の先に停泊した渡し船までたどり着かない。上流側へ戻ろうにも、敢勇軍によって水陸ともに封鎖され、寨にも火が放たれている。

 五日の夜の戦闘は敢勇軍の大勝利に終わった。これを皮切りに、敢勇軍を水先案内とする奇襲は毎晩のように展開されている。

 襲撃をかける寨の近くまで船で繰り出し、数十人単位の隊を組んで上陸し、攻め入る。弩と炎が奇襲部隊の武器だ。遠方から射掛け、向かわせたいほうへ金軍を走らせる。がら空きになったところに炎を放つ。混乱に乗じて奪い、破壊する。

 最近の戦況について語る趙淏が、一つの数を口にした。

「二千一百、だったな」

「何の数だ?」

「奇襲の際に破壊あるいは焼却したうんていの数だ。今までの合計で、二千一百。雲梯は、城壁に直接登るためのはしを備えた戦車だが、金軍が用意したそれは牛皮のすだれを張り巡らせてある大型のものだ。車の部分に兵士を数十人、積んで運べる」

「そのでかい雲梯が二千以上もあったってのか!」

「金の本国で造ったものを運んできたらしい。造りかけのものは、より構造の単純な洞子ばかりだった。あれもまた兵士を防護して前線まで運ぶのが目的の戦車で、巨大な盾の役目を果たす。つまり、敵陣に攻め込みながら守りをも果たす、厄介な代物だ」

「でも、造ってるそばから、ぶっ壊してやってんだろ?」

「ああ。壊したり、奪ったりな。特に、金軍が使うれんは頑丈で質がいい。持ち帰れるだけ持ち帰って、こちらでも使わせてもらうことにした。そうだ、戦果を上げたといえば、げんちょくも大したものだぞ」

 趙萬年は、どきりとした。いつもは共同戦線を張る弟分のおうさいが、ただ一人で活躍した。本当はオレがいなくてもいいんだ、と思った。ざわつく胸中を隠して、趙萬年は目を丸くしてみせた。

「へえ。あいつ、何やったんだ?」

「十二月六日のことだ。城西で破壊工作を企てた三百人ほどの敵部隊を撃退して頭目の首級を上げ、さらに追跡して、敵が応援を呼ぶ狼煙のろしを上げたところを捕捉した。その狼煙に従って寄ってきた別の敵部隊も、元直の張った罠で仕留めた」

「そっか。やるじゃん」

 王才は強い。それは事実だ。認めなくてはならない。趙萬年を軽々と抱え上げる力があるだけではなく、旅翠が言っていた通り、口の堅さは心の強さだ。王才によってどれほど自分が守られているか、趙萬年も実感した。

 きっと王才は趙萬年をやすやすと超えていってしまう。王才にはそれだけの器がある。

 粥を食べ終えた趙萬年が碗と匙を小卓に置くと、趙淏は、待ち兼ねたように早速、趙萬年の髪に触れた。いつの間にか、その手に愛用のくしがある。

「仲洌の、その癖」

「癖? 何のことだ?」

「物を持つとき、掌や袖の内側に隠すようにする癖だよ。ぱっと見には、何も持ってないように錯覚する」

「ああ……癖だな。実にくだらない癖だ」

「暗器を隠し持つためだよな? 音を立てないのと同じで、普段から訓練してる。隠密の任務でしくじらないように」

 趙淏は言葉を返さず、ただ、ひっそりと笑った。

 趙萬年の髪が、少しきつめに引っ張られながら、整然とまとめられていく。久方ぶりに髪を結うと、首筋がひんやりとした。今度こそ本格的に目が覚めたように感じる。節々にわだかまっていた疼痛が霧消していく。

 できたぞ、と趙淏は趙萬年の肩を叩いて合図した。趙萬年は趙淏を振り返った。

「仲洌、暗器の使い方、オレにも教えてほしい。暗器だけじゃなくて、偵察とか情報収集とか、仲洌がやってる仕事、覚えたい」

 趙淏は顔をしかめた。

「駄目だ」

「どうして?」

「何度も言っているだろう。私が担っているのは、女子供に手伝わせてよい仕事ではない。阿萬にはさせられない。汚い仕事だ」

「子供扱いすんなって!」

「そうじゃない。子供扱いではなくて……とにかく駄目だ。おまえは日の当たる場所に立つべきだ」

 趙萬年はかぶりを振った。奥歯を噛み締めてうつむき、悔しさを押し殺してつぶやく。

「日の当たる表舞台に立つのは、オレじゃなくて元直だ。オレはあいつとは違うことをやって、趙家軍の役に立たないといけねえ」

 趙淏は溜息をついた。身のこなしの一切が猫のようにひそやかなくせに、時折こぼす溜息は妙に大きく、ひどく雄弁だ。

 沈黙が落ちた。

 それも束の間。駆けてくる足音が聞こえる。

 趙萬年は顔を上げた。趙淏は、身構えるように戸に向き直った。

「仲洌、来てくれ! 城西にクソ金軍が!」

 王才が怒鳴りながら部屋に飛び込んできた。報告を聞くや否や、趙淏が音もなく動き出す。王才は蜻蛉とんぼ返りで部屋を駆け出ようとした。

 趙萬年は寝台から立ち上がった。

「おい元直! オレのことは視界にねえってか?」

「えっ、阿萬、起きたのか!」

「城西っつったな? オレも行くぞ!」

 趙萬年は、寝台の脇に立て掛けられていた剣を手に取った。

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