第五章 寨を襲い、攻城兵器を破壊せよ
一.リュミエール
土煙を透かして見た日輪は、なるほど、輪だ。丸い形をしている。
鐘の音が響き渡った。
「休憩を告げる合図よ。兵士たちがこれから食事を取るの」
慣れた口振りで告げた多保真は、身をひるがえして
晩冬の薄青い晴れ空には雲ひとつない。ここのところずっとこんな調子で、雨も雪も降らない。漢江の水位も例年より低いと、湖北育ちの
十二月十日。十五万の兵で以て襄陽に本格的な攻撃を仕掛け、敗退した日から七日が経った。あの攻城の翌日には、漢江の北岸へ退避する途中を襄陽の水軍に襲撃され、甚大な被害を出した。
「二日で四千人死んだ」
道僧はつぶやいた。目の前では、水路の掘削に動員された兵士たちが生きて動いている。それが奇跡のようにすら感じられる。
兵士たちが身にまとうのは
多保真が鐘楼の上から身を乗り出し、兵士たちに笑顔で手を振った。
「皆、御苦労様です。おまえたちの頑張りには感謝の念が絶えません。本当にありがとう!」
兵士たちが多保真を仰ぎ、色付いたざわめきを上げた。中には、まるで安っぽい舞台を演ずる妓女に声援を投げるかのごとく、多保真の名を呼ぶ者までいる。
道僧は拳を握り、掌に爪を立てた。多保真へ向けられる多数の好色な視線が腹立たしい。観音様だ、天女様だと多保真をたたえる声も、その裏には下卑た欲望と妄想が渦巻いているに違いないのだ。
今の多保真は、まるで
楼上の多保真は日輪を背負い、甘やかな声で笑った。
「我が蒲察家がおまえたちの仕事に責任を負う限りは、決して飢えさせなどしません。一日あたり五合の米穀と一合の酒を、一人ひとりに給します。たんと召し上がって、仕事に励んでくださいまし。水路が開通した暁には、また宴を開きましょう」
兵士たちがまた歓声を上げる。道僧の胸がもやもやと曇る。
ふと、多保真がこちらを向いて手を振った。弾けるような笑みだ。兵士たちが道僧の姿を認め、不恰好な御辞儀をする。
道僧は仏頂面のまま、兵士たちに手を挙げてみせた。
「楽にしてよい。休憩中であろう。休むべきときは、体だけでなく気も休めておけ」
「おお、もったいない御言葉!」
「ありがとうございます!」
「御視察、励みになります!」
思いがけず威勢のよい返事が戻ってきて、道僧はたじろいだ。このような遠方に行軍してきた上、度重なる敗北と肉体労働でくたびれているはずの彼らが、なぜこれほど
道僧は、数歩後ろで控える王虎を振り返った。
「我が
髪に白いものの目立つ王虎は静かに微笑んだ。目尻には老人のようなしわが刻まれた。
「
「動員されているのは漢族の兵士ばかりだろう? 女真族の女をよく思う者ばかりではあるまい」
「金に住まう者でも、漢族は、女真族を北方の異民族と呼ぶのですか?」
「
「今は女真族の王が華北の政権を握っておられます。大きなものを持っておられる」
道僧は脱力するように笑った。
「そなたは何と素直な男だ」
「
「そうだろうか? 儒学を信奉する漢族が、さほど容易に国や民族の境を越えられるのか?」
「納合
「女真族の目に、漢族はそのようには映っておらん。政治、学問、文化、芸術に、農耕社会の圧倒的な経済力。そのすべてが、今でも、我ら女真族にとって途方もない憧れなのだ」
「恐れ多い御言葉です」
「事実だ。女真族は愚かな蛮族だと、漢族は思っているはずだ。だから、あんなふうに漢族に無防備な笑顔を向ける多保真を見ていられない。あなどられているのではないか、よからぬことをたくらまれているのではないかと、気が気でならないのだ」
器の小さなことを言っているかもしれない。思いを言葉にした後で、道僧は恥ずかしくなった。
王虎はかぶりを振った。
「御心配には及びません。漢族は存外、御しやすいところがございますれば」
「たやすい者たちだと感じたことはないが」
「漢族は数が多いゆえに、群れで一つの意志を持とうとします。一人ひとりの意志はなく、群れで一つの意志を共有するのです。
「多保真が光だと?」
「漢族の目にも、
道僧は、土埃にざらつく喉で咳払いをした。
多保真が鐘楼から降りてこようとしている。楼上の士卒が手を貸そうとしたが、身の軽い多保真は危なげなく梯子に移った。
道僧が小走りに鐘楼に近付くと、多保真は梯子の途中で跳躍し、道僧の目の前にひらりと舞い降りた。
「また危険な真似を」
「道僧は心配性ね。多少の
「それでも、君が周囲の反対を押し切って戦場に出ていると知ったときは肝が冷えた。今だって、このような場所に……」
多保真のほっそりとした指先が道僧の唇に触れた。道僧は言葉を呑んで目を見張る。兵士たちのざわめくような、笑うような、冷やかすような声が聞こえた。かっと顔が熱くなる。
黙り込んだ道僧をよそに、多保真は王虎に向き直った。
「おまえの助言のおかげで、間もなく水路が完成するわ。そうしたら、我らが金軍はまた一つ力を付けることができるの。先日の攻城はくじかれた。けれども、次こそはわたしたちが勝利してみせる。水路は、勝利のための大きな布石よ」
王虎はひそやかに抱拳の礼をした。
今ここで掘削されている水路は萬山の西麓に始まり、襄陽の西南を流れる
水路はあらかた掘り終わっている。
多保真は、まだ水のない
「この水の道を得れば、物資の輸送がたやすくなるわ。今、金領を発した物資の半分は、漢江の上流から船で運ばれてきている。萬山の
そこで王虎が提案したのが、この水路の掘削だった。
水路掘削の献策により、王虎は
なるほど徳寿がおぬしを気に入ったというのもよくわかる、と撒速は笑った。その一言を耳にするや、王虎は目に涙を浮かべ、額を地面にこすり付けるようにして謝辞を述べた。
多保真は生き生きと目を輝かせ、軍略を語る。
「やはり船は重要だわ。兵や物資を運ぶ効率が、水路と陸路では大違いよ。金軍は戦船の数が足りていない。これは重大な弱点ね。造船の技術がほしい。湖北の占領が成ったら、まず真っ先に技術者を囲い込むべきだわ」
徳寿がここにいれば、姉の男勝りな様子に美しい苦笑を浮かべてみせながら、自身も目を輝かせて共に語り合うのだろう。
道僧はただ相槌を打つだけだ。もともと会話をすることはさして得意ではないが、人が死ぬ光景を目の当たりにする日々の中で、言葉をどこかに置き忘れてきたように感じる。心が、あるいは魂が、現実の時の流れから取り残されている
疲れている。立ち止まりたい。せめて徳寿の喪に服したい。ゆっくり悲しむことすら許されないのか。
唇を噛んだ道僧の半歩後ろで、王虎が、静かな声で多保真を呼んだ。
「
多保真の黒い
「ぜひ聞かせてちょうだい。おまえは物知りで、軍略に通じている。話を聞くのがとても楽しいのよ。さあ、遠慮せずに御話しになって。ねえ道僧、わたしたち、今回の水路の件のように、また撒速様の御役に立てるかもしれない!」
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