三.先駆けを務めよ

 神馬坡を預かる総勢四千のゆうりょうの軍団は、ただ一方的に攻められているわけではなかった。兵力の一部が土塁の外へ突出し、金軍の包囲を打ち破ろうと奮戦している。

 金軍は歩兵ばかりだ。それも弩をあてがわれただけの下っ端であるらしく、矛や刀を振るう魏家軍の武勇を前にすると、為すすべもなくわらわらと逃げ散る。

「あんなもん、オレたちの敵じゃねえ」

 馬上でつぶやいた趙萬年は槍を弓に持ち替え、弓にを番えた。一瞬のうちに狙いを定め、射る。こめかみに箭を受けた敵兵が倒れる。

 いかだをつないだ浮き橋を駆けながらの離れわざだ。身の軽さも騎射の正確さも、趙萬年は趙家軍の誰より勝る。

 趙萬年はさらに箭を番えて射る、射る、射る。魏家軍に突き崩されつつある金軍の側面を襲った格好だ。逃げ惑う敵兵が倒れた者に足を取られて転び、後続がまたそれにつまずいて転んで折り重なる。

「趙家軍の御出ましだッ!」

 叫ぶ趙萬年の声に、敵兵の悲鳴がいくつもかぶさる。

「敵襲、敵襲!」

 趙萬年に金軍の訛りは聞き分けられないが、おそらくそう言った。

 金軍に動揺が広がっている。神馬坡の土塁へと飛ぶ箭の雨が急激に勢いを弱めた。敵の弱腰を見て取った魏家軍がかくの怒号を上げ、ひときわ激しい攻勢に転ずる。

「そうだ。引っ繰り返そうぜ!」

 趙家軍五百騎の先頭で、趙萬年も呼応してほうこうする。

 引きつった顔でこちらに弩を向ける敵兵がいる。その箭が放たれる前に、趙萬年は敵兵の眉間を射抜く。

 趙萬年はたちまち神馬坡の中洲に上陸した。既に弓から槍に持ち替えている。

 戦陣には敵味方の箭が乱れ飛ぶが、趙萬年は構わず駆け抜け、槍を振るう。何人を蹴散らし、斬り捨て、踏み付けたか、いちいち数えてなどいられない。

 王才が趙萬年のすぐ後ろに付き、趙家軍の旗を背負って声を張り上げる。

「趙家軍、推参! 死にてえやつは掛かってこい!」

 王才も槍を使うが、趙萬年のそれより長大で重厚なものだ。ぶん、と唸った槍が敵兵の頭をかぶとごと叩き割る。血とのう漿しょうが飛び散る。

 ずば抜けた剛力の王才が、たかが十六歳の少年とあなどられることは、まずない。並の大丈夫おとなのおとこよりも体が大きい。ひげだけはまだうぶのように薄いが、精悍な顔つきはもはや子供のものではない。

 趙家軍は敵陣を引き裂きながら駆け、神馬坡の砦の南隅へと回る。魏家軍が南門から突出して金軍を退け、趙家軍を誘導した。趙萬年を先頭に、ほぼ失われないままの五百騎が砦へと飛び込む。

 魏家軍の頭目、魏友諒が趙家軍を迎えた。

「よく来てくださった。本当に、何と心強いことか!」

 馬から降りた趙萬年、趙こう、王才は抱拳して一礼し、すぐさま挨拶を切り上げて本題に入る。趙淏が話し手となった。

「趙家軍の長、我が兄たる趙淳よりことづてを預かってまいりました。魏帥すい、神馬坡を捨て、襄陽に御入りください」

ちゅうれつ殿、それはまことにはくれつ将軍がおっしゃったのか?」

「まぎれもなく兄が申しました。均州、そうよう、光化は既に金賊の手に落ちました。兵力が少なすぎたのです。堅固な城壁にってさえ、金賊の大兵力に抗うことができなかった。襄陽は失敗できません。一兵でも多く襄陽に集めねば、我々には打つ手がないのです」

「あいわかった。ならば、この砦を破壊しよう。金賊に利用されるのはしゃくだ」

「作業を御急ぎください。兄は期限を切って襄陽の城門を閉ざします」

「籠城するのか? 期限とはいつだ?」

「明日の朝、太陽が昇るまでのうちに襄陽に御入りください。籠城はいつまでになると申せません。ありったけの食糧と物資を御持ちいただければ心強い。よろしく御願いします」

 魏友諒は趙淳より三つばかり年上というから三十代半ばのはずだが、趙萬年の目には、もっと老けているように見えた。眉間のしわが深く、それを強調するように額が後退している。頭頂に結った髪も薄そうだ。

 趙萬年がじろじろと眺めていると、視線が気になったのか、魏友諒は趙萬年のほうを向いていくらか表情を緩めた。

「阿萬、大きくなったな。儂を覚えているか?」

「十歳の頃に何度か会った。それと、大哥あにきがたまに手紙を送っていたのを知ってる」

「先頭で浮き橋を渡ってくるのを一目見て、ああ阿萬が来たとわかったぞ。見事な先駆けだった。体は小さくとも、胆力は人一倍だな」

「体が小さいとか、余計な一言だ。オレ、弓も槍も短兵も、趙家軍の中では五指に入る腕なんだぜ。特に騎射は誰にも負けねえ」

「そうか、これは失礼した。隊を預かり、兵士の命を背負う身だったな。戦場ではもう一人前だ」

 魏友諒はそう言いつつも、口調はまだ子供を相手にするかのように柔らかい。むくれる趙萬年の隣で、頭一つ大きい王才が、にんまりと笑った。

 趙萬年が十八歳と年を明かせば、多くの者は驚く。大きな目と柔らかい形の頬やあごがいけない。日に焼けてもすべすべした肌と、少しも嗄れずに太くならない声のせいもあって、せいぜい十五歳といったところだ。

 なかなかの美少年だと、金持ちの寵童に求められたことが一度や二度ではない。そのたびに趙淳や趙淏が割って入る。趙淳は穏当ななだめ方で相手を説得するが、趙淏はいささかたちが悪い。いつものきまじめな顔で、これは私のものだと公言して相手を黙らせる。

 趙淳の言伝を告げた趙萬年たちに神馬坡でのんびりとする余裕はない。趙家軍から魏友諒に兵士の貸し出しを提案したが、魏友諒は、ありがたいと言いつつも断った。

「むしろ逆だ。仲洌殿、阿萬よ。我が魏家軍の先駆けを務め、襄陽まで導いてくれぬか?」

「魏帥はどうすんだ?」

「儂は殿しんがりだ。安心しろ。必ず明日の朝日が昇るまでに襄陽に合流する。出来の悪い弟分に留守を預けてもいるしな。何にせよ、金賊は、日が落ちれば一度退却するはずだ。趙家軍は金賊の退却を追撃する形で突出し、道を拓いてくれ」

「わかった」

 日没は目前に迫っている。西の空はいつの間にか赤い。ただれるような色をした太陽が土塁の向こうに姿を消さんとするところだ。

 趙萬年は唐突に、今日は何も食べていないと気が付いた。

 夜明けと同時に鎧甲よろいを身に付け、武器を執った。初めは襄陽の役人に命じて戦の備えを進めさせ、昼頃に城外へ出て魏友諒の救援に向かった。

 胃がよじれるような感覚がある。腹が減っているはずなのに、わからない。

 趙萬年は乾いた唇を噛んだ。舌先ににじんだ血の味は、やけに鮮烈だった。

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