五.樊城を打ち捨てよ

「趙家軍は、襄陽ではなくはんじょうに帰参せよ! はくれつ将軍は樊城にいる」

 伝令がもたらした趙淳の指示に従って、趙萬年たち分隊五百騎と魏家軍の先行部隊は樊城に向かった。

 樊城は、漢江の北岸に位置する城市だ。南岸の襄陽と対を為す出城だが、しかし、今は樊城から脱出する人と物の列が引きも切らない。

 あちこちにかがりが焚かれ、昼間のように明るかった。魚油の匂いが鼻を刺す。異様に明るく照らされた夜の街並みは、人の心をかえって暗く掻き乱す。

 趙萬年は門外に兵を待機させることにして、馬を降りて兵に預けた。樊城に入るのは、趙萬年と趙こうと王才、魏家軍の将官が三名だ。

 城内は人でごった返していた。

「すげえ人混みだな」

 目を見張る趙萬年に、「どいたどいた!」と荒っぽい声が掛かる。商人がに荷車を引かせ、城門を出ようとするところだ。

 趙淏が趙萬年の肩をつかんで引き、己の背にかばった。

「はぐれるなよ」

「はぐれねえよ! オレ、そこまで小さくねえって」

「私の後ろにいるほうが歩きやすいだろう」

「それは否定しないけど」

 趙淏は、きりりとした形の両眼を少し細め、口元を和らげた。趙淏は顔立ちも体付きも兄の趙淳より線が細いが、上背があるところは兄弟で同じだ。趙萬年は思い切り見上げないといけない。

 水陸の道を伝って樊城を離れる者がどこへ行くのか、趙萬年は知らない。親類や知人の伝手を頼って小さな村鎮にでも逃れるのだろう、と趙淳や趙淏は言う。

 疎開先の村鎮が金軍の支配下に置かれることもあり得る。村鎮は抵抗せず、食糧でも土地でも若い女でも、金軍に差し出すだろう。それで平穏が保たれる。

 武力を持たない民の多くは、徹底抗戦の籠城に付き従うよりも、黙って敵軍に奉仕することを選ぶものだ。命あっての物種である。

 趙淳はすぐに見付かった。趙家軍が屯所として使う寺院のそばで、次から次へと物事を尋ねに来る役人や兵卒、商人、子供を抱えた女や老親の手を引く男、果ては泣きじゃくる迷子にまで、逐一答えてやっていた。

大哥あにき! 魏家軍には神馬坡からの撤退を伝えてきたぞ。明日の日の出までに襄陽に入るって。先行部隊はオレたちと一緒に到着してる」

「御苦労だったな。そして早速だが、人手を全部、樊城から襄陽へ食糧と物資を運ぶ作業に回してくれ。城内を突っ切って南端の船着き場へ行けば、嫌でも仕事を割り振られるはずだ」

「わかった。兵は城門の外で待たせてるから、すぐに知らせて連れてくる!」

 趙萬年はきびすを返して駆け出そうとした。途端、人にぶつかった。顔面から突撃したのだが、やけにもちもちとして柔らかい。顔が肉に埋まり、じわりとぬくい汗の匂いが鼻をくすぐった。

「ちょいと、ちびさん、前を見て走りなよ。足をくじいたりはしてないね?」

 女の声が降ってきた。

 趙萬年は見上げた。美しい一方でみにくくもある女の顔が、あきれたような笑みを浮かべて趙萬年を見下ろしている。ずいぶんと背の高い女だ。趙淳や趙淏と同じくらいだろう。

 女は、目鼻立ちのくっきりとした美人だった。しかし、額から右の頬にかけて大きな古傷が走り、ねじれた皮膚ががたがたに盛り上がっている。

「うわッ、ご、ごめん」

 趙萬年は慌てて女から体を離した。女は平然としてえりもとを整えた。たった今まで趙萬年が顔をうずめていた豊満な胸は、男物のじゅうに包まれながらも強烈に目立っている。

 女は趙萬年にちらりと笑みを向けると、趙淳のほうへ一歩進み出て、表情を引き締めた。

「伯洌将軍、伝言です。襄陽の船乗りの頭目、りょせいゆうが申していました。樊城に蓄えられていたと砲弾、木牌たて、刀剣などは全て運び出した。武器庫は空になった、と」

 趙淳は伝言を聞きながら、女ので立ちを上から下まで観察していた。無理もない、と趙萬年は思う。趙家軍も魏家軍も、居合わせた者は皆、女の異装に目を奪われている。

 女は、髪の結い方も服装も、腰に提げた剣と弩も、すねまで覆う革製の六合靴も、何もかもが男の装いだった。傷のある顔に化粧っ気はうかがえず、六合靴の足は巨大で、てんそくをした女の足の三倍もありそうだ。

 完全に男の格好をしていてもなお、女は、匂い立つように女だった。年の頃は二十歳を二つ三つ過ぎたあたりだろう。並の男よりも大柄で顔に傷があることを除けば、ひどく美しい。

 趙淳が咳払いをし、女に応えた。

「旅はつはつかんからの伝言、確かに聞き届けた。武器庫で作業していた者は穀物庫に回るようにと、この趙伯洌からの指示を旅撥発官に伝えてくれ」

「かしこまりました。兄に伝えます」

「兄だと?」

「はい。あたしはりょすい。旅世雄の妹です。あたしは見ての通りの大女で、力も強いものですから、日頃から船乗りの兄の手伝いをしています。すいえい、とあざなで呼んでもらえたら嬉しいです。御見知りおきを」

「了解した、翠瑛。今、俺たちには味方が足りねえ。働ける者にはどんどん働いてもらいてえんだ。よろしく頼む」

 旅翠が笑み崩れた。無邪気な少女のような笑顔に、趙萬年は思わず見惚れた。

「伯洌将軍は正直ですね。女が首を突っ込むなとねのけるような男なら、人前でぶん殴ってやろうと考えてたんですけど」

「そいつは助かった。襄陽の女は肝っ玉が据わっていると聞いてはいたが、おまえさんは一際とんでもないようだな。花木蘭や平陽公主に勝るとも劣らぬ女将軍と御見受けする。頼もしいもんだ」

「御役に立ってみせますとも。生まれ育った襄陽を、あたしは絶対に敵の手に渡したりなんかしないんだから」

 宣誓するように力強く言うと、旅翠は一礼して去った。

 趙淳は、ほう、と息をついた。

てんなんて言葉じゃ表し切れねえ女武人ってのは、そうそういるもんじゃねえはずなんだが。おい、阿萬」

 急に呼ばれた趙萬年は我に返り、水から上がった犬のように、ぶるっと頭を振った。

「何だ、大哥あにき?」

「さっき言い付けた仕事、頼んだぞ」

「わかってる。今すぐ行ってくる」

「趙家軍と魏家軍を船着き場まで連れていったら、おまえは一足先に襄陽に渡って、城外から避難してきた民衆の交通整理を手伝え。庁舎に行けば、仕事はいくらでもあるはずだ」

「了解!」

 趙萬年は人混みの中を駆け出した。すぐさま背後から、趙淳に訴えを為す悲痛な声が追いすがってきた。

「将軍、御願いです、考え直してください! 樊城を燃やすなんて、そんな……!」

 趙淳が厳然として告げる。

「計画は変えられねえ。理解してくれ」

 趙萬年は奥歯を噛み締め、駆ける脚に力を込めた。

 樊城からの退去は今晩中に、と期限が申し渡されている。樊城が空になったら、翌日の昼には火を放ち、破壊するのだ。

 本来、漢江を挟んで両岸に建つ襄陽と樊城は、対であるからこそ意味を成す。どちらか片方だけでは、港としても渡し場としても不完全だ。襄陽は樊城に北面を預ける格好だから、これを捨て去ることは戦略的に見ても恐ろしい。

 しかし今、趙家軍には兵力が足りない。樊城を維持するために軍を二つに分かつのは、己の首を絞めるに等しい。

 だから樊城を放棄する。金軍に砦として利用されないよう、物資は残さず持ち去る、もしくは焼き捨てる。家屋もまた燃やし尽くす。城壁や土塀を崩す時間はないからそのまま残すことになるが、致し方ない。

 当然、樊城の住民から反発が起こった。趙淳は計画を曲げず、ただ、襄陽へ避難した場合には必ず手厚く保護すると約束した。

 反発は急速に収束した。四十年ほど前の湖北を知る老人たちが「大したことではない」と言い放ったためだ。

「今時の若い連中は何を甘ったれていやがるんでい? 戦略的撤退。上等じゃあねえか。命を失うことに比べりゃあ、めえの手でめえの家を燃やすくらい、大したことねえだろうよ」

「全くだ。儂らが若い頃、湖北は戦場だった。儂らが生まれる前も戦場だった。襄陽も樊城も、何度も焼け、何度も壊れ、何度も造り直してきた。そいつをもう一度やるだけさ」

 戦と聞くや、手入れの行き届いた弩を携えて趙家軍のもとに馳せ参じた老人も一人や二人ではなかった。趙淳は、老兵の中でも本当に体の動く者を選抜して、襄陽の城壁警備の任に就かせている。

 趙萬年の目の端に犬の姿が留まった。無人となった家の庭先に、つながれていない犬がぽつねんとしている。

「逃げろよ、

 人と違って、犬は、なぜ樊城が打ち捨てられるのか理解のしようもないはずだ。さっさと城外へ出なければ炎に巻かれてしまうかもしれないのに、庭先の犬は動く気配を見せなかった。

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