三.撃退の準備を怠るな

 一言でいうと、死ぬかと思った。

 趙萬年を始めとする護衛部隊や援軍の兵士の多くは、そうこぼした。

 金軍の騎兵は次々と現れた。およそ二千人の襄陽軍は、延べ一千騎超と渡り合うことになったらしい。激戦の後、金軍の寨に忍び込んだ趙淏が聞き出した情報である。

「まあ、切り傷すり傷だらけになって死ぬかと思った割に、大怪我以上のことになったやつは意外と少なかったけどな。明け方にようやく撃退できたときはもう、へたり込んじまった」

 王才たち、塹壕の掘削を担当した兵士たちは、また違ったくたびれ方をしていた。

「皮簾一枚の向こう側で戦ってるのに、俺たちはひたすら穴を掘ってたんだぜ。不安だし心配だし、気が狂いそうだった」

げんちょくの怖がり屋」

「違うって! 心配だったんだって!」

 塹壕は完成した。最も攻め込まれやすいと想定される東南角から南門の正面まで、四百十数歩(約六百四十メートル)の長さに渡る塹壕である。幅は八尺(約二.五メートル)、深さは六尺(約一.九メートル)あり、武装した大集団がこれを越えることは容易ではない。

 明け方に入城した趙萬年と王才は、そのまま泥のように眠った。たっぷりと昼を回ってから旅世雄に起こされ、飯を食う前にまずは汚れを落とせと呆れられた。

 言い付け通り、こざっぱりとしてから給食所に赴き、食事を腹に収めた趙萬年と王才は、唐突に南隅中央の楼閣の太鼓が打ち鳴らされるのを聞いて、はっと身を硬くした。顔を見合わせ、次の瞬間には駆け出している。

 楼閣には趙淳がいた。趙淳が眉間にしわを刻んで見下ろす南門の外に、路世忠率いる敢勇軍の五百人がいた。

大哥あにき、何があった?」

「今、終わったところだ。路せいが、城南に伏兵を置いて待てば金賊の襲来を返り討ちにできると予言してな。作戦を許可したら、本当に戦果を上げてきた」

「戦果って? ダサ金の連中、何しに来たんだ?」

「城南には、民家や寺の土塀があちこちに残っている。あれは騎兵にとって邪魔だから必ず撤去しに来る、と路子誠は言った。そいつがその通りになった」

「確かに! 昨夜の戦いでも、土塀にぶつかって自滅する騎兵がけっこういたんだ。それにしても、子誠のおっさん、明け方までオレたちと一緒に戦ってたのに、そのまま城南に引き返したってのか?」

「ほかに適任者がいなかったからな」

「だったら、オレや元直にも声掛けてくれりゃよかったのに」

「おまえたちはくたびれていたし、援軍を率いたはいえきめいも軽傷を負った。仲洌は旅えいえいたちを連れて、西の水路に金賊がこしらえた柵を撤去しに行っていた。城壁や船着き場の警備にも人員を割くと、昨夜から今朝にかけては本当にぎりぎりで回すことになった」

 趙淳は深い溜息をついた。明るい日差しを浴びる顔は、そこだけ日陰になっているかのように血色がない。

大哥あにき、寝てねえだろ?」

「全軍の作戦行動が完了するまで、俺が眠れるはずがないだろう」

「そんなこと言ってたら、大哥あにき、一睡もできなくなる」

 趙淳はかぶりを振って、趙萬年に背を向けた。

「路子誠たちを迎えに行ってくる。おまえたちにもすぐ別の仕事を命じることになるが、俺の伝令が呼びに来るまで、楼閣で外を見張っていろ」

 わかった、と趙萬年は返事をしたが、趙淳は振り返りもせずに歩み去った。

 ずっと黙っていた王才は眉を曇らせていた。

大哥あにきさ、やっぱり様子がおかしいよな。一月頭の戦いからこっち、ほとんど笑ってねえし、寝るとこ見たことねえし。前はさ、寒い日の夜勤では体を温めるための酒を大哥あにき自身が配ってただろ? それもほかの人に任せてる」

「酒の配給な。大哥あにきもよく一緒に飲んで、皆の士気を上げてやってたのに。大哥あにきがあんな辛気臭い顔ばっかりしてんじゃ、こっちも調子狂っちまうよ。話し掛けても素っ気ないしさ、つまんねえ」

 趙萬年と王才はふてくされた顔をして、城壁の外を見やった。

 数日前の激しい雨は、春をもたらす嵐だったのかもしれない。昨日は寒かったが、今日はぐんと暖かく、時折吹く突風は遠い西の沙漠から細かな砂を運んでくる。

 城の東南方面の陽だまりの中に、金軍の寨がある。初めは資材を積み上げ、その周囲を捨て駒のような歩兵が見回るだけだったが、今では頑丈な木柵が植えられ、騎兵の集団が昼夜を問わず警戒している。資材の量も日に日に増していく。

 趙萬年は腕組みをした。

「騎兵が怖いって、皆、言ってた。馬は力が強いし脚が速いし、馬の上から武器を振り下ろす一撃はすげえ重いし、騎射はいつ箭が放たれるか予測できねえし」

「クソ金軍もそれに気付いたんだろうな。ここんとこ毎日、騎兵の姿を見ない日はねえ。あの寨をぶっ壊しに行くときも騎兵と戦うことになる。作戦が必要だな」

 ほどなくして、趙淳の伝言を預かってきたという趙家軍兵士が、見張りを交代しに来た。

「南隅の寺で今度の出陣に備えた武器作りをするから手伝うように、とのことだったよ。行ってらっしゃい」

 兵士は、昨夜の戦闘で負傷した手を布でぐるぐる巻きにしている。骨が折れたからしばらく戦線を離脱するという。刀傷が腐って腕ごと壊死するよりはましだが、骨のつながり方によっては二度と関節が利かなくなることもある。

「養生しろよ」

 趙萬年は言い置いて、王才と共に楼閣を後にした。

 武器作りだと聞いたが、実際に作業現場に行ってみると、小道具作りと呼ぶほうが正しかった。騎兵への対抗策として、しつれいせんたけかごを大量に準備していたのだ。

 蒺藜箭は、人馬の足下に放って通行の自由を奪うための道具だ。一寸(約三.一厘米センチメートル))ほどの棘を持つひしの実形の鉄塊が、紐に通してある。鉄塊を踏んだり紐に引っ掛かったりすれば転倒を免れず、これを避けようとすれば行軍の速度がはなはだしく落ちる。

 竹籠も同じく、行軍を妨害するために使われる。がっしりと重い木材で作れば、きょという名が付くのだが、あいにくと襄陽には拒馬の製作に十分な木材も時間もない。苦肉の策で、薪として使いづらい竹で拒馬を作ることになったところ、案外悪くないと判明した。

「あっ、軽い! これならオレでも運べる!」

「阿萬にも持てるくらい軽いってことは、寨に攻め込む軍全体が素早く動けるってことだ」

「奇襲に速さは絶対必要だから、今回はまともな拒馬より竹籠のほうが都合がいいな」

 蒺藜箭は女衆の手によって、あっという間に作業が進んでいく。趙萬年と王才は竹籠を作る組に入った。日頃から竹を扱い慣れた職人や大工が適度な細さに竹を割り、動員された兵士は見様見真似で編んでいく。

 竹籠とは呼ぶものの、それは筒の形をしている。直径は二尺(約六十二.四厘米センチメートル)、長さは六尺(百八十七.二厘米センチメートル)ほどで、背の高い男なら小脇に抱えて運べる大きさだ。

 趙萬年は手を動かしながら、ふと、その竹籠があるものに似ていると気が付いた。

「これ、ちくじんみたいだな。寝床に持ち込むには、ちょっとでかいけど」

 竹夫人とは、抱いて寝るための筒状の竹籠だ。暑い季節、素肌に竹籠を抱けばひんやりとして心地よく、寝苦しい夜もいくらか過ごしやすくなる。

 王才は竹を取り落とした。

「ば、、いきなり変なこと言うなよ!」

「変なことって、竹夫人? そりゃあ、肌寒い季節に夏の話をするのは変かもしれねえけど」

「いや、そういう意味じゃなくて」

「冬場もさ、抱いて寝たら温かい竹夫人があればいいのにな」

「やめろ」

 ちょうどそのとき、裴顕が完成した竹籠をいくつか担いでやって来た。通りすがりに、趙萬年の声が聞こえたらしい。

「抱いて寝るのが何だって? 人肌が温かいって話かい?」

 裴顕はにやにやして首を突っ込んでくる。趙萬年は竹籠を指差した。

「これが竹夫人っぽいって話だよ」

「お、なるほど。阿萬たちの村でも、竹夫人を使うんだな」

「使うよ。抱いてたら気持ちいいし」

「気持ちよくなってきて、ついつい押し付けまくって、めちゃくちゃ熱くなって、汗かきまくったりとか」

「押し付ける? 何を?」

「おいおいおい、何その初心うぶな反応。元直、おまえはわかってんだろ?」

 趙萬年が見上げると、王才は真っ赤になっている。

「元直、どうした?」

「な、何でもねえ」

 裴顕のにやにや笑いは容赦がない。

「竹夫人はあの硬さがなあ。夫人っていうより、がりがりに痩せた小娘みたいだろ。それがむしろいいってやつもいるけど、俺はやっぱり柔らかいほうが」

「益明、そういう話はやめろ」

「元直はがりがりでもいいって口か。まあ、そうだよなあ? 身に覚えがあるんだよなあ? ほらほら、吐いちまえよ。竹夫人のいけない使い方、いくつのときから知ってた? いたいけな阿萬は知らないらしいぜ?」

 裴顕がちらりと趙萬年を見やった。視線につられた王才は、きょとんとする趙萬年を見て、にやにやする裴顕を見て、耐え切れなくなって顔を覆ってしゃがみ込んだ。

「……つらい……」

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