第三章 地の利、水の利を活用せよ

一.戦力の入れ替えに応ぜよ

 金軍がちょうりょうする湖北を突っ切って、朝廷からの指令がじょうように届けられた。ちょうじゅんから書状の文面を見せられるや、ちょうばんねんは悲鳴交じりの罵声を上げた。

「ふざけんじゃねえよ! すいを襄陽から引き抜くって、どういうつもりだ!」

 趙淳は頭を抱えている。

「どうもこうも、ここに書かれている通りだろうよ。襄陽に二人もの帥は不要である、趙淳に襄陽を預け、魏帥は兵力の足りないとくあんに赴くように、と」

「襄陽だって人手不足だっつうの! 徳安は徳安で、あのへんを縄張シマにしてる軍閥が預かってんだろうが!」

 ちょうこうが、品よく整えたひげを撫でながら言った。

「今、湖北方面の軍事を司るせん使の任に就いているのは、せつしゅくという御仁だ。朱子学を熱心に修養してきた文人官僚で、軍事方面の仕事は今回が初めてらしい。宰相のかんたくちゅうにとって利のある人事の結果、この役回りを押し付けられたようだが」

ちゅうれつ! 冷静に解説してんじゃねえ!」

「しかしばん、いきり立ったところでどうしようもないだろう? 薛宣撫は前線の状況を把握していない。徳安は襄陽より南にあるぶん都のりんあんに近いからと、案外その程度の理由で徳安の増兵を優先したのかもしれない」

「都でぬくぬくやってる連中は呑気なもんだ。前線から兵力を削るって、まじで頭おかしいだろ! この非常時、朱子学みてえな机上の空論なんかぶっこいてねえで、孫子の兵法くらい頭に入れやがれってんだ。手紙より食糧を送って寄越せよ、くそ野郎!」

「わめくな。おまえの声は耳に響く」

「だって! 黙ってらんねえし!」

 もっとわめいてやりたかった趙萬年だが、おうさいの大きな手に口をふさがれた。

 ゆうりょうは一行の面々をぐるりと見やり、きわめて深い溜息をついた。

「辞令に異議を申し立てている余裕はない。といって、これを無視して襄陽に留まれば、今後どんな処分が下るか……しかも、実際に徳安は金賊の標的となっている。あちらを捨て置くわけにもいくまい」

 徳安は襄陽より南西へ四百五十里(約二百五十二.五公里キロメートル)余り行ったところにある城市だ。街道はおよそ平坦だが、四千の兵を抱える魏家軍がこれを踏破するには、短く見積もって十日ほどかかることになる。

 湖北の戦況は一日毎に変化している。徳安へ発つならば、ぐずぐずしている暇はない。金軍に先んじて徳安へ到達しなくては、徳安を救援できないだけではなく、魏家軍が敵の只中に取り残される格好になってしまう。

 趙淳はしばし苦り切った顔をしていたが、目を閉じて一つ深呼吸をすると、笑顔を作って魏友諒に告げた。

「金賊が襄陽を完全に包囲する前に脱出して、徳安へ行ってくれ」

はくれつ将軍、だが」

「魏帥の言う通り、徳安も間もなく戦場になっちまう。湖北は、金賊と頻繁に戦っていた昔から軍資金や食糧の徴発絡みで治安が悪い。おかげで朝廷公認の軍閥は、茶や塩の利権を持った豪族を相手に戦い慣れてきたわけだが、今回は敵の規模が半端じゃあねえ」

「ああ、茶賊や塩賊の討伐とはわけが違う。金賊が擁する兵力も、戦闘が展開される範囲も、今までの人生で経験したことがない」

「だから徳安守備の連中も不安で、なるだけ戦力を集めたいのさ。魏帥は今回、しんで本格的に金賊と戦った経験もある。魏家軍は歓迎されるだろう」

 魏友諒が一際きつく顔をしかめると、眉間にも額にもくっきりとしわが刻まれた。

「襄陽の守りはどうなる? 趙家軍は精強だが、三千の兵力だ。襄陽やその近郊の兵卒と合しても、五千には届かない」

「そうだな。かなり少ない。魏家軍は金賊がうようよしてる湖北を突っ切らなけりゃならねえのに、力を貸すことができねえ」

「そこは気にしないでほしい。私のほうこそ襄陽の守りが薄くなるとわかっていながら、兵を貸す余裕がない。すまんな」

「なぜ魏帥が謝るんだ?」

「趙家軍には世話をかけっぱなしだ。神馬坡では包囲を切り開いてもらった。呂渭孫の暴走を止めてもらった。そしてまた今、守備の体制を固めたばかりのところで私は襄陽を離れなければならない」

「どれもこれも、戦場じゃあ大して珍しくもねえ偶発事だ。俺だって、白河口まで金賊の親玉と話しに行ったとき、かなり危うい状況で後を任せたわけだ。万一のことを考えると、魏帥がいてくれて心強かった」

「借りは私のほうが多い。本当に、このまま徳安へ発っていいのか? 兵力不足をどうやって補うつもりだ?」

 趙淳は、にっと歯を見せて笑った。

「当てがあるんだよ。戸籍の調査をして、はっきりした。襄陽の真の兵力は、今、表に現れている程度のもんじゃあねえ」

 確信に満ちた口調だ。趙萬年は趙淳を見上げた。

大哥あにき、何をたくらんでるんだ? 襄陽の真の兵力って?」

「仲良く籠城することになっちまったんだから、一蓮托生だと思ってな。出会い方によっちゃ俺たちの敵だったかもしれねえ男に掛け合ってきた。手を組もうってことで、あっという間に話がまとまったよ」

「何だよ、それ? 誰と話してきたんだ?」

 趙淳の両眼が鋭く、且つ楽しげに輝いた。

「襄陽一の財を誇る茶商と協定を結んできた。襄陽の茶商が抱えている用心棒や傭兵、提携している腕っ節自慢の船乗りがすべて、戦力を提供してくれるそうだ。趙家軍は襄陽の茶商と共闘する」

 趙萬年は息を呑んだ。

「茶商と用心棒と傭兵って、つまり、茶賊じゃねえか! 何でそんなやつらと協定なんか!」

 趙萬年の胸に激情が湧き起こって逆巻いた。

 茶賊は、趙萬年の故郷を奪った。幼い頃の記憶もろとも、平穏であったはずの暮らしをすべて破壊した。

 何も覚えてはいないし、この激情は本能のようなもので、理屈が通らない。

 けれども確かな事実として、趙萬年は茶賊を憎んでいる。共闘など、想像しただけでむしが走る。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る