第4話 ペパーミント・フラッシュ

その日、僕は学校へ来ていた。

担任や学年主任に挨拶をし、すでに夏休みに入っていることもあり、休み明けから学校へ来ることを担任に告げた。

その他もろもろの手続きが、この後僕を引きずり回した。

この先の事などいろいろ相談に乗ってくれたが、まだ日が経っていない。

もう少し落ち着いてから、また相談する事で学校を後にした。


そうなのだ。両親を亡くし、未成年の僕は孤児となった。

この国では、未成年者は保護者がいなければ何も、学校すら行くことが出来ない。


父さんの親類からは、僕を養ういや、迎え入れるようなところはなかった。

決して、父さんが親類から煙たがれているわけではない。

本当にどこも苦しいのだ。


まして、母さんの親類は皆無に近い状態。

本来であれば、児童福祉施設へ行かなければならないところだった。

そんな状況のなか、元、親父の会社の顧問弁護士をしていた斎藤律子さいとうりつこから連絡があった。


「ごめんね 結城君 遅くなちゃって」

「いえ、どうしたんですか 僕に相談ごとって」

彼女は自分のいつものキッチンの椅子に腰かけた。

その場所は、彼女専用と言ってもよかった。

うちの家族公認の彼女の居場所だった。


父さんの会社は、片腕として業務をこなしてきた宮村隆浩みやむらたかひろが、父さんの残した会社を、いや一緒に歩んできた軌跡を失くしたくないと、すべてを受け継ぎ会社を存続させていた。


その時、彼女は会社の顧問弁護士の担当降りた。

理由は事務所の方針としか言わなかった。


そのあとも彼女は、僕のところにはよく来てくれた。

そればかりか、事後処理と言って、親父の財産管理処理や、僕の法的手続きなどもろもろ親身に行ってくれている。


「社長には本当にお世話になったからね」

背中まである長い髪をなでながら、瞼をそっと落とし寂しげにそういった。

彼女の瞳が少しづつ熱く、うっすらとうるんでいるのがわかる。


彼女は、社長である父さんに特別な思いがあったのだろう。それに対して、僕は何も問う気持ちはなかった。


それよりも彼女はよくこの家に来ていた。仕事としてだけではなく、プライベートとしても……。

彼女が父さんの会社の顧問弁護士を担当して3年。

会社は、小さいながらも海外と取引を行う会社。

バイヤーとして、会社の代表として、そして自分の信念のため世界各地を飛び回っていた。


当然トラブルも数多くついて回った。

こういったトラブルの回避または解決の道しるべとして、弁護士事務所と契約を結んでいた。彼女は、その弁護士事務所から派遣されていた。

はじめのころは父さんが家にまで呼んで、彼女から家にきて、まるで家族が一人増えたかのような……。


そして僕もいつしか彼女を姉のように感じ始めていた、ちょっと年の離れた何事にも頼りになる、姉貴的存在。

いつのころからだろう、僕は彼女のことをりつねえと呼ぶようになっていた。


「あのぉ……律ねえ」

「あ、ごめんごめん」

「あのね実は、あなたの保護者になっていただける方を紹介したかったの」

「えっ、保護者って?」


はじめは何のことかと、それが自分に向けられた言葉であるのを理解するのに、一瞬の間が必要だった。

葬式のとき、誰かが口にしていたことを思い出した。

「結城、これからどうするんだろうね。誰かいい引き取り手がいるといいんだけどね」


僕は一人になったんだ。

律ねえが静かに話し始めた。

「あなたもこのままだと施設に行くしかなくなっちゃうのね。それにこの家も、会社の抵当物件になっているから、このままだと宮村君がいくら頑張っても競売に掛けられてしまう可能性が高いの。社長の会社、多額の負債があるのよ」


彼女は口をつぐんだ。

辛そうな彼女をなだめるように

「それは、僕もうすうす感じていました。それにこの家に僕一人は広すぎます」

いや本心はものすごく寂しかった。


彼女にとってもこの家は思いで深い空間だったろう。

重く、とてもながく感じられる沈黙が続いた。

うつむいた彼女の顔を、サラサラとした髪の毛がうっすらと隠している。


今にでも、零れ落ちそうな涙を、隠すように。

自分の特等席から彼女は中庭に面した居間にある、親父の好きだったソファーに腰かけ黙って中庭にあるハーブ畑を眺めている。


「律ねえ。珈琲淹れるね」

僕は冷蔵庫から、ミネラルウオーターを取り出し、およそ二人分であろう量を専用のスリムケトルに入れコンロに置き火を点けた。


珈琲豆を測り、ミルに入れる。

豆を挽く、慎重に豆の状態を確認しながら。

そして、温めて置いたミルクパンに挽いた豆を入れ、余熱で豆に目覚めを告げさせる。ドリッパに豆を入れ一息入れる。

そうすると、ケトルから合図の音が奏でられる。

「ぽっ、しゅ、」

火を止めケトルのお湯を落ち着かせる。あらかじめ、カップにお湯を注ぎあたためておく。

ケトルのお湯が落ち着くのを見て、ドリッパの豆へお湯を注ぐ。


静かに、ゆっくり「のの字」を描きながら、一段目、二と……。

次第に珈琲の甘く切ない香りがたちこめる。


そっと、彼女の前にカップを置く。

「ありがとう」

「結城の入れる珈琲本当においしいね」

律ねえは僕の入れる珈琲のファンだ。


父さんや会社の人たちからも評判はよかった。

これと言ってどこかで勉強したわけでもなかった

本当に自己流のサーバーの仕方だ。でも、誉められるのに悪い気はしなかった。


自分でも珈琲を入れる度いろんな入れかを試してみた。

しかし、まだまだ発展途上だ。


「ごめんね 結城」 

律ねえはあえて、結城と言ったように思えた。

「本当は、私があなたの……。この家もあなたの唯一の居場所も、わたし何も守ってやること出来なかった。ごめんね……。ごめんね結城」


彼女はうつむきながら、涙を頬に這わせ両手をぎゅっと力を込めて握っていた。

そして肩を震わせながら、今までため込んでいた気持ちを一気に解放した。


今まで見た事のない律ねえの姿だった。


仕事のときはいつも凜とした力強さを感じさせ、それ以外のときは、朗らかで柔らかく心に温かささえ感じさせてくれた。

ふと、母さんと一緒に、キッチンで料理をしている姿や、庭のハーブ畑を二人してニコニコしながら、顔に泥を付けながら世話をしている姿がフラッシュバックしてくる。


今ここに母さんと父さん、律ねえがやさしく微笑んでいるような錯覚が見えてくる。


その時、何かが僕の中ではじけたような気がした。その瞬間、胸の鼓動が高鳴り熱い何かが、僕の頬を伝わった。


気が付けば、僕は律ねえを胸の中に抱きかかえ、泣いていた。

そう、今まで自分に禁じえていたものを開放するように。

彼女もその変化に気が付いたのだろう、そっとやさしく僕の背中に手を回した。

そして少しづつ、僕を包み込む手に力がそそがれる。


ふと見る彼女の顔は、あふれんばかりの涙が、通り過ぎたことを語っていた。

うるんだ瞳をやさしく見つめると、彼女は恥ずかしそうに下唇を軽く噛んだ。

少し赤く高揚した彼女の唇に、いつしか自分の唇が重なるのを感じていた。


彼女の唇は柔らかく、暖かく、かすかに珈琲の香りがした。

そして二人は、強く寄り添った。


庭のペパーミントから落ちる雨の雫が、雲の間からさす日の光に輝いていたのを僕は、ただ目に入れていた。


彼女がこの家を後にしたのは、次の日の昼下がりだった。


律ねえは、僕に保護者の名乗りを上げてくれた人物について説明してくれた。

その人は、父さんの古くからの知人であり。昔、僕が幼かった頃何度か家にも来ていたらしい。


父さんがこの仕事をするきっかけになったのも、その人が大きく関わっていたこと。


その人と知り合ったのは、海外で彼はその当時某有名店でパテシエの修行をしていたこと、父さんは大手食品商社に勤務していて、その店に何度も惜しげなく通っていたこと。


そして今彼は、この近くでカフェを経営していること。

律ねえと父さん、そして母さんも、そのカフェの常連であること。

父さんは律ねえに僕ら(たぶん母さんと共に)知らないことまで話をしていたようだ。


葬式のとき、彼は僕には声をかけれないでいたこと。


本当は真っ先に僕の所に着て、話をしなければいけなかったんだが、その彼自身もあまりの心痛さに何も出来ずにたらしい。

律ねえが僕の身を按じていたのと同じく、彼もまた僕の事を本当に心配していたことなど。その他もろもろ……。


彼女は最後に、彼の店の住所と彼の名前を書いたメモを僕に渡した。

「Cafe Canelé (カフェカヌレ)。三浦政樹みうらまさき


ふと まさかと思う気持ちが僕を貫いた。

しかし、いくらなんでもそんな偶然はないだろうとその時 僕はその気持ちを軽く流した。


律ねえは、出来るだけ早く彼に会うようにと言った。


「本当は、一緒に行ってあげたいけど、彼、初めは結城一人で来てほしいって言ってたわ。」

律ねえはカップの珈琲を飲み干し、僕に軽くキスをしてこの家を後にした。

まだ僕の唇には、律ねぇのあの柔らかい唇の感触が残っていた。

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