第67話12.新たな風が吹くその瞬間に

 今から30年以上も昔の話。

 時は日本の年号で昭和という年号が続いていた時代だった。


 そんな時代に一人の若者が、はるばるフランスと言う国から来て、この日本と言う国の土を踏んだ。


 その時日本はバブル経済と言われた好景気の時だった。

 次から次へとなだれ込む仕事。夜の繁華街はあふれかえる人の波。

 人びとの財布は厚かった。そんな時代。

 その若者はたった一つの想いを胸に、この日本にやって来た。


 ある女性に会うために。


 彼はそのために全てを投げ捨て、この日本と言う国へやって来たのだ。

 日本語なんて分からない。

 彼女の住所と地図しか持っていない。しかもその女性とはもうかれこれ10年以上音信不通だった。


 彼女の所に行っても会ってくれるという保証は何もない。

 何故、彼はそこまでしてその女性に会いに来たのか。


 それは幼い時に交わした約束だったから。


 彼女は幼少期、フランスに少しの間滞在していた。

 その時知り合った女の子。


 隣の家に住んでいた子は何時しか、彼の幼少期の淡い恋を描き始めさせてしまった。

 そして彼女が日本に帰る時、一つの約束をした。


 もし、10年たって私の事を忘れずに愛してくれたら、結婚しようね……と。

 ただ一つその約束を果たすために彼はこの日本にやって来た。


 彼の名は『イレール・ミィシェーレ』18歳の誕生日がきたその日、イレールはフランスの地を飛び立った。

 そう彼女に会うために……。

 鴾崎優子ときざきゆうこ。イレーヌが会いに行くのは鴾崎優子と言う名の人だ。


「イレールはね、いきなり私の前にやってきて、ユーコ愛してるってフランス語で言うの。もうフランス語なんてしばらく使っていなかったから、何? って驚いたわよ。だってイレールの事私正直忘れていたんだもん」


 優子が苦笑いをしながら言う。


「それじゃぁ、二人の約束は守られていなかった、成立しなかったという事ですか?」

「うんうん、ここだけの話だけどね」


 そっと僕の前に青いつた模様のティーカップに入った紅茶が置かれた。

「でもね……」

 ニコット僕の顔を見ながら優子は微笑んだ。


「すぐに思い出したの。あ、フランスにいた時のあの泣き虫イレールだって」

「泣き虫イレールって」


「ふふふ、泣き虫って言うのは本当よ。でもね、彼が涙する時は彼自身何らかの意味があるの」

「意味ですか?」


「そう、イレールって物凄く感受性が強い子だったの。だから心に何か響くことがあればすぐに涙を流しちゃう。そんなイレールを私はフランスにいた頃物凄く愛おしく思っていたのよ。本当は弱虫で泣き虫なんかじゃない。とても強い子なんだけど、その強さを涙で隠すような子。ずっとほっとけなかった」


 窓から庭の木々を見つめながら懐かしむように彼女は言う。


「私たち家族が急遽日本に帰ることが決まった日、私はイレールこういったの」


『あなたとお別れするのは嫌、私の本心はここにとどまって、あなたと一緒に共に時間を過ごしたいってね』


「でもねイレーヌはこう返してきたの」


『僕もユーコとお別れするのは嫌だ! でも、ユーコだけがここに残れば、ユーコの両親が悲しむ。だからユーコだけがここにいちゃだめだ。そうしないとユーコは幸せになれない。もし10年……10年後、また再会した時にお互いの事を覚えていたら、今のこの気持ちが変わっていなかったら、その時僕は……優子をこのフランスに連れ戻す』


「あの時イレールは涙一つ流さなかった。あれは彼の決意だった。まだ本当に幼い、ううん、気持ちはもう立派な大人だった。私はあの言葉に背中を押されるように日本に帰ったの」


 そして10年と言う月日は優子の心に変化をもたらしていた。


 日本に帰ったあと、優子の家庭は崩壊寸前まで悲惨な状態になり、両親は離婚してしまった。

 せっかく、イレールが優子がいないと優子の両親が悲しむからと言って一緒に日本に返したのに、現実は悲しみを呼び込むこととなった。


 それからというもの、優子は生きるために母親と共に必死に耐え、この日本と言う荒波の中生き抜いてきた。


 そこにイレールが突如現れたのだ。


「はじめは戸惑ったわ。でも、この10年片時も私の事を忘れずにいてくれた人がいたことに、私の心は弾けた……。涙が溢れてきて止まらなかったなぁ、あの時」


 すっとミントの香りがする優子のブレンド茶葉。

 砂糖を入れずとも香りの後、ほのかな甘みが口の中に広がる様な感じの紅茶。


 僕はこの紅茶が好きだ。まるで優子の優しさが体の中に沁み込むような感じがするからだ。


「それからすぐに優子はフランスにイレールと共に来たんですか?」

「ううん」

 優子は顔を横に振った。


「母がね、体調崩しちゃったの。働けなくなった母の代わりにイレーヌが一生懸命働いてくれたわ。私たちが住んでいた狭いボロアパートにイレーヌを迎えてね。ホントイレールの寝る場所もなかったなぁ。でもね彼、本当に一生懸命に私たちを支えてくれた。2年間の間」


「2年間……」


「うん、そう、2年目の春。母が息を引き取ったの……」


 優子はティーカップを眺めながら

 もし、あの時イレールが私の前に現れなかったら、今頃私はどうなっていたんだろうかと、しみじみと話しをしてくれた。


 イレールもあの2年間は辛かったけど、得るものが本当に沢山あったと今でも優子に話をしているようだ。


 中でもイレールが日本で出会った和菓子。


 この和菓子がイレールの人生を、優子の人生をも大きく変えた出会いだったと彼は言う。


 肩を寄せ合い、二人で優子の母親を見送った後、二人はこのフランスの地へまた戻って来た。

 そこから二人はまた一から自分たちの未来を信じ、二人の想いを一つにして生きて来た。


 イレーヌは日本で魅了された和菓子から、フランスの菓子造りへと情熱を注ぎ込んだ。このフランスに戻り10年間修業を積み「レーヌ・クロード」をオープンさせるまでになった。


「ようやく自分の店が持てたんだけど、始めは誰もお客さんなんか来なかった。作っては捨て、作っては捨ての繰り返し。なんかあの頃が本当に懐かしいなぁ」


 少し優子の目が潤んでいるのが分かる。


「二人で、もう駄目かなぁって思ってた時、あるお客さんの一言が私たちを救ってくれたの」


『美味しかったよ。また夢と至福の時を買いに来たってね』


「その言葉を聞いた時、イレールったら大粒の涙を流しちゃって……、私も泣いたなぁ。その時に知ったの。イレールの涙を見たのはあの幼かったころ以来だったんじゃないかって。彼、ずっと歯を食いしばって涙一つ流さずに頑張っていたんだって。本当に強い人なんだイレール・ミィシェーレと言う私の大切な人は……」


 優子の目からあふれ出した涙は頬を伝った。


「あらやだ、どうしちゃたんでしょう。涙なんか流しちゃって私」

 僕は何も答えることが出来なかった。


 政樹、ミリッツア、恵梨佳、そしてこの僕、太芽

 僕ら4人の出会いは、イレールと優子が築き上げたこの『レーヌ・クロード』が引き寄せたんだと僕は改めてそう思った。


『レーヌ・クロード』ここは二人の切なる想いと、僕らの若き青春の時を与えてくれた場所だ。


 僕らにとってと、ても大切な場所。


 そして僕は……この場から離れなければならないことを……もうじき、その時が来ることを恐れている。

 その恐れていることが実際に今、僕の身の上に降りかかってしまった。


 そのことを僕は優子に話をした。


 いずれはやってくるだろう。

 僕が日本に帰る日が……。


 出来ることなら、僕はここに留まっていたい。

 いつまでも……。


 だが、現実は無情な状況を投げかける。


 せめて日本に帰るのなら、ミリッツアと共に帰りたい。

 彼女と別れることは、今の僕にとってあり得ない事だった。


 本社の辞令を理由を付け先延ばしにしたつけが、2度目の辞令で支社に降りかかった。


 僕が本社に戻らなければ、パリ支社を閉鎖するという本社の意向だ。




 もう僕には、日本に帰るという……いかなければならない事態にまでなっていた。

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