第68話13.新たな風が吹くその瞬間に

「笹崎、荷物の整理の方は大体終わったか?」

 支社長が僕の背に何気なく語り掛ける。


 僕は振りむかず

「ええ」とだけ返した。


 このパリ社、僕にとってはかけがえのない職場だ。その職場を失う訳にはいかない。

 そっと僕の肩に支社長の手が乗る。


「また……。また戻ってこれるよ。笹崎ならきっと」

 目が熱くなる。今にでも零れ落ちそうな涙を必死にこらえていた。


 そして……。

 僕が一番今失意に総じているのが、ミリッツアの事だ。


 あの時、僕はユーコにミリッツアを連れ、日本に向かう事を話した。

 だが彼女は、イレールと自分の出会いの話を僕にした。


 二人が異国で体験した苦悩と寂しさ。そして今までなしえて来た自分をすべて捨て去らなければいけない辛さ。

 あの話の後ユーコは僕にそっと付け加え語った。


 今はミリッツアを日本に連れて行くことは彼女のために、いや、ミリッツアが今まで積み重ねて来た人生を全て捨て去らなければいけない。という事をそれとなく僕に悟ったのだ。


 もちろん始めはミリッツアも僕と一緒に、日本に来てくれるのだと思っていた。

 僕らはどんなことがあっても絶対に別れることなどない、と誓い合っていたのだから。


 当のミリッツアも僕と一緒に日本に行く覚悟を決めていた。

 しかし、ユーコの話を訊き僕はミリッツア自身の未来を思い描いた。

 彼女は将来どうなりたいのか?

 何故、彼女はパリから離れた田舎から、レーヌ・クロードへ弟子入りをしたのかを。


「わ、私は……将来自分の店を持ちたいという夢を持ってレーヌ・クロードの扉を開いた。でも、その夢はたとえ日本に行っても出来るんだと信じている。それに愛する人の傍に居られることの幸せの方が、今の私にとって一番の願いでもあるんだから」


 愛する人。一緒にいられる幸せ……。僕もその幸せは失いたくはない。

 だが、現実はそんなに甘いものではないと言う事は、二人とも薄々感じてはいたことだ。


 僕は日本に帰れば本社勤務とは言え、また一番下っ端からのやり直しになるだろう。

 その時に本当に僕はミリッツアを、支えてやることが出来るのだろうか?

 一時の幸せを追い求め、大きな失意を呼び寄せる結果になる事は目に見ている。


 僕らのこの幸せは、この地フランスにいるからこそ育まれた幸せであるんだと思う。

 政樹、イレール、ユーコ。僕らはこの人たちの支えがあるからこそ続けられたものなんだと。


 悩んだ。気がおかしくなるほど僕は悩んだ。

 でも決断は出来ないまま、ずるずるとこの日までやって来た。


 あと残り1週間……。

 僕がフランスに居られる最大限の時間だ。


 正直今は、ミリッツアの顔もまともに見ることさえ出来ないくらいだ。

 どうすればいいんだ。


「なぁ政樹、そんなにことを急ぐな。とにかく時間をかけるんだ。今はそれしかない。お前が日本に帰って、本当に落ち着いたらそのときミリッツアを迎えに来い。お前たちの気持ちが本当の物ならば、それくらいの時間どうてことない時間だと思う」

 政樹はこういってくれた。


 ユーコも、イレールも多分同じことを言うと思う。

 その通りだ。そうなんだよ。その通りなんだよ。


 何も間違ったことじゃないんだよ、お前らの言っていることは。

 でも僕自身のこの気持ちが収まらないんだ。

 収まらないんじゃない……。


 寂しんだ。


 ミリッツアと離れるのが……寂しんだ。


 政樹と離れるのが寂しんだ、ユーコとイレールと離れるのが寂しんだ。


 いっそうの事、僕がこの会社を辞めてしまえば……。

 いやそうしたところで、また支社に迷惑がかかるのは必須だ。


 どうあがいても僕はこのフランスの地に留まることは許されない。


 そんな時ミリッツアから連絡が来た。


「ねぇ太芽、時間ある? んーあるよね、あるある! あのね、デートしよ。私たちのパリでの思い出作り。写真一杯撮って美味しいもの食べに行こう」


 ミリッツアの声はいつになく明るく元気な声だった。


 次の日、僕らは二人でパリの街を歩き回った。

 その日はパリにしては日差しが強い晴天だった。歩き回る中、汗がにじみ出てくるほどだ。


 今では毎日のように見慣れているパリの街並み。

 でもこうして二人で歩くと、その見慣れた街並みも新鮮な感じに見えてくる。


 僕らはしっかりと手を繋ぎ、肩を寄せ合いこの街並みをずっと歩き回った。


「あはは、太芽ほっぺにクリームついてるよ」

 人差し指でほほについているクリームをミリッツアがとり、アムっと口にした。

「んーこのクリーム太芽の味がする」

「それってまずいっていう事?」

「ちょっとしょっぱいかなぁ」

「マジかぁ、どれどれ、どんな味がするんだい」

 と、ミリッツアにキスをした。


「いつもの味だよ。ミリッツア」


「んっもう、太芽のバカ! 恥ずかしいじゃないこんな人通りの多いところで」

「別に僕は恥ずかしくなんかないよ。愛している人へのキスは当たり前の事じゃないか」

 ミリッツアは、うふふとほほ笑んで「そうね」と一言言った。


 陽が陰り僕らは公園のベンチに、二人で寄り添うように座った。


「今日は楽しかったなぁ」

「本当に? 特別いつも見慣れている街の中だったんだけどなぁ」

「あら、太芽は楽しくなかったの?」

「いいや、十分に楽しませてもらいましたよお姫様」

「お姫様? もう変なこと言わないでよ」

 ちょっとすねた顔が可愛い。


 公園の街灯が灯り始めた。


 ここからはパリの街が見渡せる。街の灯が徐々に灯されていく。

「寒くないかい?」

「うん、大丈夫」

 ミリッツアは下を向き答えた。


「ねぇ、太芽。明後日行っちゃうんだよね。日本に」

「うん、ごめん。一緒に連れて行けなくて」


「ううん、これは私が決めたことだし、太芽も納得してくれたでしょ」

「うん、必ず迎えに来るよ。ミリッツア」

 彼女は俯いたまま何も返してこなかった。


 少し風が出て来た。


 ミリッツアの肩に手をまわし、彼女の体を抱きかかえるように僕の体温で温めた。

 金色の髪がふんわりと僕の頬に触れる。


「ねぇ、太芽……」

「ん、どうしたミリッツア」



「あのね……、私達……、別れよっか」



「えっ! な、何で」


「うっ……、駄目みたい。私、太芽がいつも傍に居ないと駄目みたい。私には出来ないよ。地球の反対側にいるあなたをずっと待っていることなんて」


「でもそれはミリッツアも言ってくれたじゃないか『待ってる』って、君自身からそう言ってくれたじゃないか。それなのに……、ほんの一時の辛抱だよ。手紙だって毎日書くから、なんなら電話もするよ……」


「うん、そうだよね私から言ったことなんだけど、でも多分耐えれない。先の見えない時間を私は耐えることは多分出来ないと思う。こうしてあなたの温もりを感じることの出来ない日々を、私は送ること自体耐えられない」




『分かってよ!! 私は……一分、いいえ一秒でもあなたの事を思わずに生きて行くことなんて出来ないのよ。これ以上私を苦しめないで……お願い』




 Au revoir ... Quelqu'un que j'aimais. Taiga Sasazaki.

「さようなら……私の愛した人。笹崎太芽」



 泣きながらミリッツアは僕の前からその姿を消した。


 余りにも唐突過ぎた別れだった。

 僕は彼女の本当の気持ちに、気づいてやることが出来ていなかったんだ。


 でも彼女の言ったことはこの僕も同じなんだ。


 たとえ一分でも、一秒でも君のその温もりを感じることが出来ない日々を僕は送ることは出来ないと思う。


 パリの夜の灯が涙でかすむ。



「愛している。僕は君の事を愛している。ミリッツア……。 revoirさようなら





 ただいまより成田行の最終のご登場手続きに入らせていただきます。


 空港には支社長が見送りに来てくれていた。


「すまんなぁ、本当はみんなでお前を見送りたかったんが、俺一人きりで」

「いいえ、支社長こそ、本当にお忙しい中すみません」


「いいってことよ。本当にお前は思い出深い、多分俺の中ではずっとあのオフィスの中にいるんだろうな」

「そんなご迷惑ばかりおかけしていて」


「そんなことは言うな。それはそうと、レーヌ・クロードの人たちは見送りには来ないのか」

「ええ、みんなにはすでに挨拶を済ませていますので……」


「そうか」

 それ以上は支社長は何も言わなかった。


「それじゃもうそろそろ……」

「ああ、……笹崎」

「はい」

「また……戻ってこい。このパリに」

「はい。それでは」


 飛行機は滑るように滑走路を飛び立った。

「いつの日かまた……。またいつの日か。僕はこの地に来るだろう」




「行っちまったな。本当に会わなくてよかったのか?」

「……うん」

「そうか……」


「よく耐えたわね、ミリッツア」


「ユーコ、私……私、太芽の事が好き、愛してる……私、死ぬほど愛している」

 ミリッツアはユーコに抱きかかえられながら、大声で泣いた。


 その声は空港の展望エリアに響き渡った。


「またな笹崎……」

 ぼっそりと政樹が口にした言葉に続けるように、イレールがその肩に手を添えて

「また帰ってくるさ、私の息子だからな」


「そうだな……親父」



 この時、新たな風が僕らに吹き始めていた。

 それは、……。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る