第69話14.新たな風が吹くその瞬間に
成田に降り立った時。日本の空気を懐かしむ余裕などあの時の僕にはなかった。
ミリッツアとの別れ、そして、あの地で知り合った多くの仲間たちの事で頭の中がいっぱいだった。
誰も出迎えに来ることなどない空港に一人。一人きりになってしまったという孤独感が、僕の中で渦巻いていた。
重い足取りを何とか動かし、外に映る飛行機を遠目で目にただ入れるような感じで眺めていた。
またあの飛行機に乗れば、戻れる。
そんなことばかりが頭の中で浮かんでは消え、そして苦しめる胸の奥底から湧き出るように、また浮かんでくる。
されど、戻ることなどは出来ない。
いつかは消え去るだろう。
……きっといつかはこの苦しみと。悲しみから救われる日が。
古巣とでも言うのだろうか。戻った食品部は様変わりしていた。
いつも僕のことを気にかけ、教育してくれたあの課長の姿はもうこの部署にはない。
北九州支社の支社長として栄転されたことは、パリ支社にいた時に知った。
本人はとてもめんどくさがっていたようだったけど、栄転であることには変わりはない。
あの人のことだ。
このチャンスを生かさずにただ、時を刻むようなことはしないだろう。
数年後。本社に戻った時には重役役員としての椅子が用意されていることを、ちゃんと計算に入れていることくらい僕には分かる。
ただ、もう課長(当時の呼び)と一緒に仕事をすることは無い、という寂しさも感じていた。
そして戻った本社食品部。二人の新人の顔があった。
だが、パリ支社から帰った僕の立場はこの新人よりも格下げされた位置にあった。
業務を開始すといっても今までのように、引き継ぐ業務はない。
ただ現、主任から言われたのは。
「笹崎さんは、特別プロジェクトに関わることはしなくてもいいですよ」
「それはどういうことなんですか?」
「いやぁ、別に深い意味はないんですけどね。多分ね、パリ支社のやり方と大分違いがありますから、今、笹崎さんにあんまりかき回されたくないんですよ……。正直に言いますと」
率直すぎる言い方だよな。
「それに、笹崎さんは多分、この食品部から外れる人ですから……」
「えっ! それ、どういうこと?」
「あれ、聞いてなかったんですか? 内示を受けて帰国されたと思っていたんですけど」
しまったという顔をする彼。まだ内示も受けていないことを本人に言ってしまったという、あらまじき発言をしてしまったと焦る様子が良くわかるんだけど。
「す、すみません、今言ったことは忘れてください。出来れば僕からは聞かなかったことにしてくれませんか」
「いや、でも……」
ここまで言われて引き下がるのもなんかシャクだ。
「君からは聞かなかったことにしておくから、教えてほしんだけど。どういうことなのか」
彼は仕方なくその口を開いた。
「……これはあくまでも噂なんですけど。今回笹崎さんが本社に戻ったのは、広報企画部から引き抜きがあったからだということらしいんですよ。でも、これはあくまでも噂。噂ですから……だってご本人が知らないって言う……。まいったな」
「広報企画部?」
「ほら、笹崎さんパリ支社で企画したイベント大成功させたじゃないですか。その企画力を買われたんだと思いますよ。て、いう噂がありまして。その……」
困り果てたように言葉を詰まらせている。
これ以上聞き出すのはちょっと酷かもしれない。
そんな噂が。実際この噂が本当だとするならば、この会社の人事のやり口はなんか裏がありすぎる感満載だ。
僕がいない間に、この会社の中は何かが変わったようだ。
もしこの噂が本当ならば、彼が始めに言ったように、この食品部の仕事にあまり触れては欲しくないという意図が理解できる。
しかし、そんな内示も実際。僕には何も告示されていない。
なら始めっから……。今回の転勤には本社の強引さを感じていなかったわけではない。僕が応じなければ、パリ支社の閉鎖もありうると勧告してくるくらいだ。でも、そうなれば僕はあの時どういう行動に出たか。なんとなく想像ができてしまう自分がいる。
確かに、功績を認めてくれたこと。そのことには感謝するが、なんかやり口に納得がいかない。
本当に僕は日本に帰ってくるべきだったんだろうか。
こんな想いまでして。
最愛の人たちと別れ。すべてを投げ捨てて……。
すべてを……。
その時、もし、ミリッツアを強引にこの日本に連れて来ていたとしたら。
彼女が受けるすべてのことが、瞬時に頭の中に描かれていく。
愛、想いだけでは済まされない。
彼女への影響すべてを。
ヨーコが話してくれた。彼女とイレールの若かりし日々の事を。
それがどんなに苦しく、そして辛いことであるか。あの時の僕にはまだ他人ごとのように感じていたんだと。改めて、恥じる。
そう思えば、よかったのかもしれない。
――――ミリッツアと別れて。
本当にそんなことを思っているのか? 笹崎太芽。お前は感じているんだろ。実際。どうしてミリッツアが別れを言い出したのか。
知っているんだろ。彼女の本当の気持ちを。
すべては俺の為だって言うことを。
馬鹿だよな。甘々だよな。
俺って。
彼女の本当の意味での愛を感じる自分に、涙があふれていく。
その日、この気持ちに溺れ、意識がなくなるまで酒に酔いしれた。そうでもしなければ、潰れてしまそうだった。
それから二週間後。人事異動の内示が僕に言い渡された。
「食品部所属、笹崎太芽。広報企画部、課長補佐としての移動を命ずる」
課長補佐。昇進移動と言う内示であった。
まったくの初めての業務に、これから僕は向き合わなければいけなくなった。
それは僕のこれからの人生の変化に関わる予兆だったのかもしれない。
そして、政樹にも。彼の人生を変える出来事がこれからおきようとしていることを僕らはまだ知る由もなかった。
なれない仕事に翻弄する日々。
課長補佐と言う役付けであるが、実際は新人には変わりない。この部署では僕は一番の下っ端だ。
一応課長補佐と言う役付けであるがゆえに、部署のメンバーはそれなりの対応をもって接してはくれるが、実際は陰ではボロボロ状態だった。
歯がゆい人間関係に、うまく進まない仕事。
正直、精神的にはかなり追い込まれた状態にまで来ていたのは事実だ。
そんな時。僕宛に一通のエアメールが届いた。
差出人は――――。
三浦政樹。
手に取るその名前に懐かしさと、寂しさを感じる自分。
この手紙を開けてしまえば……。僕は。
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