第70話15新たな風が吹くその瞬間に
正直この手紙の封を開けるのには、勇気が必要だった。
このまま、封を切らずに仕舞い込んでおこうか。
封を開ければあの日々の思いが蘇ってくるだろう。もう限界に近い。
逃げたいんだ。こんな環境から。こんな仕事から。こんな自分から――――すべてを捨てて
逃げ出したいんだ。
政樹。会いたい。
東京とパリの距離はおよそ九千七百三十八キロメートル。
今僕が居るところからすれば、この地球の裏側のようなものだ。ちょっと飛行機に乗って行ってくるか。なんて気軽に行ける距離じゃない。
そんなの分かっている。
分かっているが、分からないままでいたかった。
手に取るエアメールを、そっと机の引き出しの中に、封を切らずに仕舞い込んだ。
そのまま、二日が過ぎた。
帰れば、机の引き出しの中をずっと気にしている。されど、封を開ければ今にでも爆発しそうなこの気持ちをおさめることなどできない。野薔薇のツタで縛られたこの体が棘で引き裂かれようとも、僕はこの手紙を読めば、きっと……。
「はぁ」と重いため息をつき。
このまま部屋にこもっていれば、気がおかしくなりそうだ。いや、もうすでにおかしくなっているのかもしれないな。
明日は休みだ。飲みに行こう。
一人くすぶっているのはよくない。うんと騒がしいところ、この気を紛らわしてくれるような華やかな街に繰り出そう。
街の灯りがきらびやかな明るさと、雑踏が……多分この苦しい胸の中に渦巻く想いを忘れさせてくれるかもしれない。
そう願う自分がいた。
運命と言うものは、時に奇跡を導いているかのような錯覚を植え付ける。
ありえない事。絶対にありえないと思っていることが現実になって目に映った時、それを奇跡と感じる。今の僕にとって起こってほしい奇跡。
それは、次に目を開けた時。あのパリの空の下にいることだ。
絶対にありえない奇跡。
そんなことがあったら。多分僕は何らかの事故にでも遭遇して、死んだのかもしれないな。
魂はあの地に帰っていったんだと。
体はここにあるが、すべてはまだあのパリの大地に根ずいているんだ。
いささか。いや、かなり酔っているようだ。
街のきらびやかな明かりがまるで虹のような色彩に見える。街の雑踏が心地いい。このまま溶けてなくなってもいいとさえ感じてくる。
ああ、気持ちいい。久々だ。こんな気分になるのは、何もかも縛られていたものから解放されたような錯覚に陥っていた。
「笹崎さん。笹崎さん」
誰だ? 僕を呼んでいるのは?
誰だろう……。とても懐かしい香りがする。甘く、芳醇なコクのある香り。
何だろう。どこで香っているんだ。この香り。
うっすらと目を開けると、人の面影がぼんやりと見えた。誰かがいてくれる。その安堵感か、酔いが限界を越えていたせいか。意識が遠のいていく。
目が覚めた時、優しく久しく感じることのない香りが洟から抜けていく。
みそ汁の香り。
もう何年も自分一人の時に、この香りを感じることは無いように思える。
ふと、ぼやける瞼に動くもの。いいや、人だ。どうやって自分のこの部屋に帰ってきたのか、記憶がない。
でも確かにこの雰囲気は自分の部屋だ。日本にいる今の自分の部屋だ。
起き上がろうとした時、むかむかとしたこみあげるものが襲ってきた。そのままトイレに駆け込んで、吐き出そうとしたが出てくるのは、苦くすっぱい胃液。じりじりとのどが焼けるように刺激される。
出るものはないが、吐き出そうとする反応は続いている。
「あのぉ、大丈夫ですか?」
ドアの向こうから声が聞こえてきた。
誰だ? ……確かに人がいるのは分かっていた。でもいったい誰なんだろう。
「笹崎さん」
ん? どこかで聞いたことのある声だ。……女性の声。僕の事をそう呼ぶのは、会社関係の人か?
ウっ! またこみ上げる吐き気。
問われる声にこたえようとしたいんだが、答えることが出来ない。
また襲い掛かるこみあげる感覚。
相当飲んでいたんだろうな。これだけ具合が悪くなるだけ飲んだんだ。と、自己嫌悪に陥る。
ようやく落ち着き、重い体を突っ込んだ便器から放して、ドアを開けた。
その前に立っていた人。
目の中に映し出されたその女性。
つややかな黒髪に、懐かしさを感じる瞳の輝き。
「嘘だ!」そう声を上げ、また思わずドアを閉めてしまった。
「あのぉ……。笹崎さん」
「は、はい」
「大丈夫ですか?」
「は、はい」
そぉっと、ドアを再び開けると、今この目に映し出されているその人の姿を、受け入れることの出来ない自分が今ここにいる。
まだ酔っているのか……。それとも、精神崩壊して幻覚でも見ているのか?
「嘘ですよね」
「えっ! なんですか?」
「あの、もう一度ドアを閉めてもいいですか?」
「ちょっと、待ってください。ドア閉めなくてもいいと思うんですけど」
いや、できることならもう一度このドアを閉めて、再び開けた時、目の前にいるこの女性が別の人であることをどこかで願う自分がいる。でなければ、どうこの状況を説明するんだ。
会う事などない人。こんなところにいるはずがない人。その人が僕の目の前にいる。そんなことがあっていい訳がない。
「ほんと大丈夫ですか? 顔、真っ青ですよ」
「
彼女はにっこりとほほ笑んで、「はい」と返した。
間違いない。彼女だ。野崎恵梨香さんだ。
フランスにいるはずの彼女。日本にはいないはずの彼女が……、今僕のこの日本の、この部屋の中にいる。
「なんで?」
「ええええっとですね。……なんででしょうね」ニコッとおちゃめに笑う彼女の顔を見た時、一瞬にして、初めて彼女と出会ったあの会場の風景が蘇ってきた。同時にすべての体の力が向けていく。
そのまま、倒れ込むように彼女の体にしがみついてしまった。
「大丈夫ですか! もう笹崎さん飲みすぎですよ。どうなされたんですか。ほんとここまで来るの大変だったんですから」
まったく記憶がない。
どうして彼女が、どうやって彼女とこの東京で出会ったんだ。
それよりなんで彼女が日本にいるんだ?
「とにかく、お冷でも飲みます?」
「は、はい。いただきます」
甘く切ない香りが、彼女からこの僕の体にしみこむように香る。
渡されたグラスの水をごくごくと飲み干すと、幾分気分が良くなったような気がする。
「はぁ、なんか落ち着きました」
「そうですか。それはよかったです」
「あのぉ、もう一杯。いただけますか」
「もう、あなたのお家なんですけど、そんなに遠慮しなくたっていいんですけど。そうだ、お味噌汁つくってあるんですけど飲まれます? 二日酔いにはお味噌汁効きますよ」
「い、いただきます」
椀から湯気香るみそ汁の香り。
一口口にした時。
心のほころびが、ほどけたようなそんな感じがした。
そして、浮かぶ名。
政樹。
一通のあのエアメール。
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