第71話 16新たな風が吹くその瞬間に
「どうですか?」
「ええっと」
「美味しいですか? お味噌汁」
「お、美味しいです」
覗き込むように僕の顔を見つめる、野崎恵梨香さんの顔がすぐそこにある。
「良かった。お味噌汁あり合わせなんですけど……」
あり合わせ……て、言うか、ほとんど何もないような状態だったはずだけど。
冷蔵庫の中。
「もしかしてわざわざ買ってきてくれたんですか? これ」
「へっ? 買ってきたって……もしかしてインスタント? ち、違いますよちゃんと作ったんですからね――――あ、でも、勝手にお台所使って、冷蔵庫のものもつかちゃいました」
「べ、別にいいんですけど。何もなかったでしょ」
「そうですねぇ―。見事に何もなかったですねぇ。笹崎さんならもっと食材ていうか自炊ちゃんとなさっているのかと思っていたんですけど。予想が見事に外れましたね」
「すみません」
「あ、そんな攻めているわけじゃないんですけど」
こうして彼女と会話するだけで、胸の中の痛みが緩和されてくるような気がする。
でも、それと同時にわき上がる疑問。
どうしているはずのない野崎恵梨香がこの日本に、そして僕のこの部屋にいるのかと言う事だ。
彼女とフランスで最後に会ったのは、確か僕が日本に旅立つ一か月前の事。政樹は会っていたと思うんだけど。
でも彼奴「最近忙しくてよう。恵梨香に会えねぇんだよう」なんて言っていたけど。
連絡くらいはしていたとは思うんだけどなぁ。
政樹も知っているんだろうな。恵梨香さんが日本に来ていること。
恵梨香さんが作ってくれたみそ汁のおかげか、幾分気分も落ち着いてきた。
彼女が開けておいてくれたんだろう。
開いた窓からスッと風が部屋に舞い込んできた。
パリにいた時にミリッツアが選んでくれた、レースのカーテンが静かに揺れる。
そのカーテンを見つめながら。
「恵梨香さんはいつ日本に?」と、声に出ていた。
僕のその問いに彼女の表情はくもる。
その長いまつげを伏せながら、静かに彼女の口は開いた。
「父が他界いたしました」
一言そう言った。
「……そうでしたか。大変でしたね」
「ええ、急だったもので……。ほんと親不孝な娘です。親の死に目に会う事が出来ませんでした」
「……」
正直なんて言葉を返したらいいのか分からなった。でも彼女のその表情を見るとかなりの心痛な赴きと言うか、心労を抱えているということは感じられた。
親の最後。僕にはその最後を経験することは無かった。記憶の上ではあるが。
物心ついたときには親はいなかったからだ。
祖父母に育てられ、高校からは祖父母の家を出て自活をしていた。
大学もそして今の会社に入社してからも、ずっと一人だった。
だけどフランスに渡り、『レーヌ・クロード』と言う店に関わり、イレーヌと出会い。政樹と出会うことになった。
そして、初めて自分の傍に心から寄り添うことのできる人と、巡り合うことが出来た。
ミリッツア。
今も彼女のあのほほ笑みはこの胸にそして、瞼に焼き付いている。
未練がましいともなんとでも言ってくれていい。まだ僕はミリッツアの事を引きずっているのは否定しない。
あれは、彼女が僕のために決断した愛であるということは理解している。
理解しているが、それを受け入れるほどの、気丈な心は持ち備えてはいない。分かっているからこそ。まだ苦しいんだ。
その苦しみが、すべて。今の僕である。
「政樹は、政樹には連絡と言うか、伝えてあるんですよね」
そう彼女に聞くと。
スッと、首を上げ、空を。遠くのそのまた向こうに続く空を眺めるように見つめていた。
その表情は多分、彼女はフランスのあの空を見つめていたんだろう。わかる。
この僕自身がいつもそうしている。そうしなければ、孤独と、悲しさで押しつぶされそうになるからだ。
「――――言ってない」
ずっと遠くの空を見つめながら、恵梨香さんはそう答えた。
「言っていないって? 黙ってきたって言うことなんですか?」
ニコットそのこわばった顔を一変させ「そうなるんでしょうね」と彼女は言った。
「どうして。それじゃ、政樹は今……」
すかさず、机の引き出しにしまい込んでいたエアメールを取り出した。
まだ封が切られていない封書。
いつもならばペーパーナイフで綺麗に封を開封するが、今はその端を引きちぎるようにびりびりと裂き、封を開けた。
その中にある文面を。政樹のあの汚い日本語で書かれた文字を一瞬懐かしさを感じながら目に入れた。
しかし、その懐かしさと言う感情は一瞬にして飛び去って行った。
「よう、太芽。お前にこんな手紙を出してしまう俺を許してくれ」
書き出しは、いつもの、僕のすぐそばに……まるで隣にいるかのようなあの口調で始まっていた。
「お前が日本に帰ってから何日たったんだろうな。正直言うと、まだお前が、このパリにいないって言うことがまだしっくり来ていねぇんだよ。何時だったか、仕事が忙しくて、顔見せねぇ時あったよな。あんときもお前が忙しいの知ってたけど、でもよう、すぐ近くにいつでも会えるていうのが。安心しきっていたんだよ。それが今はもう会えねぇんだ。いねぇんだ。実は結構ダメージ食らってるみてぇだ」
ガラでもねぇな……。政樹。泣き言から始まるなんて。
「太芽――――すまん。始めに謝っておく」
次の文面を目にしたときには、文字がゆがみ始めていた。
「本当は俺がこんな弱気になってちゃいけねぇんだけど、そのなんだ。女って強ぇんだな。ミリッツアの事。支えてやるつもりが俺が支えられちまっていたんだ。太芽がいなくなってから彼奴、何か吹っ切れたように今までとは違う彼奴の姿を見せつけるように。ええっと、つまりだな。無茶苦茶ミリッツアは頑張って。太芽。お前のことを忘れようとしていたんだ。自分を自分自身を閉じ込めて、殺してまでも」
馬鹿だよ――――ミリッツア。そんなに苦しんだったら、……でもそれは彼女が選んだ道。そしてそれを受け入れたのもこの僕だ。
「そんなミリッツアの本当の姿に中に俺が触れた時自分のふがいなさと、ミリッツアに対する思いが一変してしまった。なんて言うんだ。こんなにも身近にそして、こんなにも長い時間俺の傍にいてくれている彼奴の本当の姿を、俺は見ようとはしていなかったていうことに気がついたんだ」
何を言っているんだ。政樹。この政樹の気持ちを理解することは今の僕には出来ない。
「そう言う気持ちていうのか、なんだろうな。こうして、俺も太芽と言う親友が俺の前からその姿を消したという事実に向き合う事が出来ねぇ寂しがり屋だった。でもなぁ、こんな俺よりもミリッツアの方が何十倍も寂しくて、悲しくて。苦しんでいた。その気持ちに触れることが出来たのは、恵梨香のおかげだと俺は思っている」
そこから、その一枚の手紙は余白になっていた。
次の一枚に。これが最後の一枚だ。
「俺たち。俺は恵梨香と別れた」
その一言の文面を見た時、僕の向かいに座る彼女。野崎恵梨香の姿を目に入れた。
その視線を感じたのかどうかは分からないが、また彼女は空に視線を投げかける。
「俺のこの気持ち。そして、俺のこの生涯をゆだねることが出来るのは、恵梨香じゃなかったんだ。許せ。太芽。恨むなら恨んでもいい。いや恨んでくれ。そうすることで俺はもしかしたら報われるかもしれねぇ」
俺と、ミリッツアを。
恨んでくれ。
なぁ親友……。
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