第72話 17新たな風が吹くその瞬間に

 窓から入りいる風に彼女の長い黒髪が少し揺れた。

 その髪はさらりと彼女の顔にかかる。


「どうして?」


 その手紙の内容は彼女は知らない。されど野崎恵梨香は、すべてを知っているかのように僕の顔を見つめた。


「どうしてって? それを私に聞くの? 笹崎太芽さん。……今更なんだけど」

「はぁ? 今更ってなんだ」

「覚えていないんですか? 夕べのこと」


 夕べ?

「ああ、ヤッパリ何にも覚えていないんだ……。あんなに」

 そんなことを呟くように言い、彼女は顔を下にうつむけた。


「ま、まさか……」

 酔った勢いとは言え、まったく記憶がない。それにだ、着ている。起きた時からこの服は昨日のままだ。

「でもあれはものすごく失礼じゃないの? どんなに酔っていても私のことをミリッツアさんと混同して、ずっと彼女の名を呼び続けていたんですもの。確かにね。気持ちは分かるんですけど」

「…………」

 それが本当ならば、何も言い返せない。


「その、なんて言うか。――――すみません。……本当にすみませんでした。酒におぼれ、記憶が無くなるまで、飲んで、挙句の果てに。野崎さんに」

 そのまま、正座して頭を深々と、額を床につけながら「本当に済みませんでした」と、謝罪した。


 そんな僕の頭の上でクスクスと笑う彼女の声が聞こえてくる。

「――――嘘よ」

「えっ!」

「嘘です。ごめんなさい。だから頭を上げてください笹崎さん」

 頭を上げ彼女の顔を見ると真っ赤に染まっていた。


「嘘って……」

「安心してください。笹崎さんは何もしていませんよ。ただ、私のことミリッツアさんと思っていたのは本当のことなんですけど。ずっとミリッツアさんの名前ばかり声に出していましたからね」


「面目ない」

 でも……よかった。「ホッ」と、肩の力が抜けたような気がした。


 そのあとに彼女が呟くように言う一言。その一言が、僕ら二人のこれからの行く末のトリガーになったのかは……それは今だに分からない。


「してもよかったんだけど」


 人との出会いと言うのは数奇なものでもあると思う。


 多かれ少なかれ、自分自身に対し何らかの影響と言うか変化が生まれてくる。

 その変化をどうつかみ取り、受け取るかで、数奇な運命と思われる事象が好機となり転換する。


 これは後に知った。彼女、野崎恵梨香から伝えられた事実だ。

 あの日、僕が街に出向いた日、彼女とこの広い東京で偶然に出会ったものだと思っていたが、実はそうではなかった。


 彼女は僕をずっと追っていたというか、僕の勤める会社はそれなりに名の知れた企業だ。その社名を知る人は多分誰もがどこかで聞いている耳にしている社名だ。

 その所在地もすぐに判明する。しかしそのビルの中に勤務する人の数は相当なものだ、そこから僕を探し当てるのは困難に等しいかもしれない。まして個人で、社内の従業員事情を聞き出すのは不可能に近い。


 野崎恵梨香は父親の訃報を受け取り、取るものも取らずに日本に帰国した。

 彼女は落ち着けば、またフランスへ戻る……つもり。いや、その気持ちは希望と言う言葉に置き換わっていたのは事実。


「私の父は、実家は小さいけど、洋菓子店を営んでいたの。父はその店のパティシエ兼オーナ。オーナーなんて言えば立派に聞こえるかもしれないけど、本当に小さなお店。母と二人で始めたお店だけど、その母親は私が中学生の時に病気で他界した。その時から父は変わってしまった。今になって思えば父の気持ち。ううん、お父さんは必死だったんだと思う。お母さんと二人で、二人三脚で過ごした営んできたあのお店を守るのに。……それなのに、私はそんな父から離れようとばかりしていた。一緒に、近くにいることがとても苦痛になっていた」


 彼女の出身は東北の北の方。されど末端ではない。冬は雪が降り積もり、夏は蒸し暑い気候の土地だという。

 そんな街で営むその小さな洋菓子店は、繁盛と言うほどでは無きにしろ。地元の人たちには愛されていたようだ。


「本当は私も、お父さんの……お母さんの代わりに。なれればよかったんだけど、それは出来なかった。父はそれを望んではいなかった。お父さんは……。たとえ、その隣にその姿はなくとも、厨房に立つとき、いつもその横にお母さんがいたから。私には分かっていた。二人の間に生まれた娘であっても、あの二人の中には私は入り込むことは出来ないんだっていうことを」


 実の親の姿を知ることもないこの僕にとって、彼女のその想いは初め理解は出来ない。と言うよりも、そんな感情を持てること自体、正直なところ羨ましくも思えたのは事実だった。


「嫉妬していたんだと思う。両親に」


 そして彼女のあの繊細な味覚の感覚が両親によって彼女は知らず間に……。多分野崎恵梨香は知っているはずだ。育てられたということを。

 究極ともいえる彼女のあの才能は、両親によって彼女に受け継がされていた。


 しかし、その才能を多分、彼女の父親は、自分のものにはしようとはしなかったんだろう。彼女は、外に。その持つ才能を自分の進むべく道に使わせたかったのかもしれない。

 だからこそ、父親は、なき妻と共に常に一緒にいたのかもしれない。


 愛する人との別れ。それはその愛が枯れた時に起きたとしても、心には何か刺さる哀しみが惑うものかもしれない。まして、その絆が健在なときに別れが生じた時、その、衝撃と言うものははかり知りえないものだ。


 今……。

 ううん、そうじゃない。あの時の哀しみは、そう言った本当の愛と言う実感を感じることが出来たからこそ苦しめたんだ。苦しかった。本当に悲しかった。


 その観点から思えば、彼女恵梨香のお父さんの想いはよくわかる。

 例え、実の愛娘であろうとも。その間に割り込むことなど出来ないものであり。割り込んでは欲しくはないという感情が芽生えてもおかしくはない。


 彼女の父親はわざと彼女、恵梨香を自分から遠ざけたのかもしれない。

 そしてあの才覚を恵梨香はフランスで発揮した。

 またすぐにフランスに戻れば彼女の人生はもしかしたら、もっと大きな花道が記されるのかもしれない。しかし、彼女は再び、フランスの地を踏むことは無かった。


 政樹からのエアメール。

 そっと彼女に僕の手から彼女手へと渡る。

 その文面を読み彼女はひと言こう言ったのだ。


「政樹を恨まないで」


 その一言が僕に重くのしかかる。


 もし、恵梨香とこうして日本で出会うことがなければ、僕は政樹を恨む。憎んだかもしれない。

 たとえ別れたにせよ、その想いはまだ強くこの心のうちにへばりついたままだからだ。その想いを、根こそぎ親友の政樹に奪われたという、傷。傷ではない。怒りになるだろうそれは憎悪となり、今までつちかってきた政樹との友情をも壊すことになっていたのかもしれない。


 だからこそ、恵梨香は僕を訪ねてきた。

 偶然に出会ったわけではない。すべては恵梨香が仕組んだといえば聞こえはよくないかもしれないが、僕ら。政樹との友情は恵梨香によって、保たれたといっても過言ではない。


 そして僕の傍にいる恵梨香。

 彼女こそ、僕らより深い傷を背負っていることに気づく。


 父親を亡くし、両親を亡くした恵梨香。

 なくしたものはそれだけではなかった。父親が一人で……。亡き妻と一緒に営んできた小さな洋菓子店。幼き思いが詰まる実家の家屋。すべてを恵梨香はあの地で実家の地から失っていたのだ。

 肉親はもう誰もいない。


 親戚縁者は父親が亡くなったとたん手の平を返したように、彼女を阻害した。

 自由気ままにフランスに行っていた彼女を、受け入れることは無かった。

 自由気ままと言えばそれまでかもしれないが、本当は。フランスに飛び立つことを勧めたのは父親であった。

 それとなく背中を押し続け、外の世界に触れさせる。そんな想いが彼女に対して、自分の身を遠のかせていたのかのしれない。


 単身、知らぬ土地で生きる。

 そうした時にふと彼女の心に浮かぶ父親の面影。そして出会う。政樹との想い。



「政樹を……う、恨まないで。私が愛した政樹。彼が幸せにこれからの道を。自分の足で歩いていくために必要な人は私じゃなかった。私ではいけなかった」



 政樹には、新たな風が吹きこまれなければいけなかった。



 そして僕たちにも。


 新たな風が舞い込んでくる瞬間を迎えていた。

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