第66話11.新たな風が吹くその瞬間に
俺は今、猛烈に恋をしている。
今までただそこにある物だとばかり思っていた、なんの変哲もないあのカヌレという焼き菓子に。
そしてそのカヌレを焼き上げる彼女。
俺の心臓は今までになく鼓動し、今までになく熱く燃え上がっている。
太芽が俺と恵梨佳の仲に入り、女性とは本当に無縁だった……、まぁ、ミリッツアは別としてだ。
彼女とこうして今、付き合いだせたのも全ては太芽のおかげだと俺は感謝? いや感謝という言葉では言い表せないくらい。……言葉が見つからねぇ。
「政樹、今日も行くのか野崎さんの所に」
「ああ、そうだ」
「ふぅ―ン、まぁうまくいっているんだったら、それでいいんだけど。でもあの政樹がまさか野崎さんと付き合うなんて思いもしなかったよ」
「いや、実際その本人の俺が一番驚いている」
「だろうな」ちょっと苦笑い。
「だけどよう太芽、俺はこうして恵梨佳と付き合いだして初めて知ったよ。彼女の凄さを」
「そうか、僕も野崎さんにはここんところ、かなり助けられているからね」
野崎恵梨佳、生まれは日本の北東北。
地元の高校を卒業後、東京都内の大学に入学。卒業してこのフランスにやってきた。
彼女は今日本語の講師をしている。
パリで、外国語の語学講師の教員として働いているのだ。
ただ、その講師も週に3回ほど。
空いた時間を使い、自分の住まいの家主でもあり、あの店のオーナーは昼間カフェをオープンさせていた。オーナーは野崎さんにその時間帯を任せたのだ。
もちろん、講義のある時はバイトの子がいるのだが、カヌレを焼くのは彼女だけだ。
何故このムールという街でボルドーで生まれたカヌレを焼いているのか。
それにはまぁ、ここのオーナーがボルドーの出身という事もあったんだが、実はこのオーナー、小さいながらもワイナリーも経営している。
このムールの近くにあるブドウ畑で収穫したブドウでワインを作っているのだ。
こだわりは昔ながらの製法。
今はワインのおりをろ過するのにはろ過器という機械を使い、綺麗なワインの透明度を実現化している。
しかしここのオーナーは、大昔のやり方。つまりは卵白をろ過の工程で使っているのだ。ただ、すべて卵白だけで行っている訳ではなく工程の一部として使用しているようだ、無論その後ろ過器に再度投入している。
その為副産物として卵黄が残る。
その卵黄を利用するためにカヌレを焼いているという事だ。
どうして政樹から野崎さんの凄さを実感しているという言葉が出たのか。
それは彼女の感性の鋭さにあった。
いや鋭さではなく広さと表現すべきだろうか。
そんな彼女の焼くカヌレはこの小さな店から口コミで広がった。
知る人ぞ知る絶品のカヌレ。
そのカヌレに政樹は初め一口で惚れてしまった。
いや、あの時政樹は悟ったんだ。自分に足りない何かを。
そして、このカヌレを焼く野崎恵梨佳に出会い、その本人にも一目惚れしてしまった。
まぁ確かに始めは本当に大変だった。
あの政樹だぞ! 女性に免疫のめの字もない奴が、いきなり恋をしてしまったんだ。
「た、太芽。俺、どうしたらいい?」
「はぁ、どうしたらいいって何をだよ」
「いや、俺おかしいんだ。彼女の事でこの頭の中がいっぱいなんだ」
「お前それって野崎さんに恋してるっていう事じゃないのか」
「そうか、これが恋というものなのか」
「あのなぁ、政樹。お前この前一緒にいった時、いきなり野崎さんに言おうとしたろ「好きです」てさ」
「それの何がいけないんだ。どうしてお前はあの時、俺を止めたんだ」
「当たり前だろ、初対面でしかも本来はあのカヌレの事で出向いただけだったんだから。いきなり好きですなんて言ってみろ。ドン引きもいいところじゃないのか」
「そ、そうか。そう言うものなのか」
「何言ってんだ。僕とミリッツアの仲を取り持ってくれたのは、政樹お前だったんじゃないのか。あの時の政樹はどこに行ってしまったんだよ」
「あの時は、あの時でまぁなんだ。そう言うわけだ」
「おい、何言ってんのか分からないぞ」
それだけ政樹は野崎さんに夢中になってしまった。
あれから半年がもう過ぎていたんだ。
野崎さんは快く政樹に自分が焼くカヌレの手順を教えてくれた。
さすが長年パティシエとして修業をしてきた政樹だ。そのコツを飲み込むのにはさほどの時間はかからなった。
しかし、政樹が焼くカヌレと、野崎さんが焼くカヌレには明らかに違いがあった。
その違いが何なのかは今も政樹は、その答えに到達出来ないでいる。
彼奴が、野崎さんに自分の本心を打ち明けたのは、その答えに煮詰まった時だった。
彼女がパリに来た時、一緒に食事をしようと僕から提案して野崎さんに伝えた。
始めは遠慮していたが、僕の彼女にも紹介したという事ならという事で了解を得た。
最も本来の目的は、政樹と野崎さんに二人で話せる時間を作ることが、目的だったんだが、それが見事に思いもしない展開になってしまった。
お膳立ては、僕がミリッツアに告白した時と同じようにしたかった、しかしなんと野崎さんと合流してすぐに政樹は、ため込んでいたものをすべて出し仕切るように。
「野崎恵梨佳さん好きです。どうしようもなくあなたの事が好きです。お願いです。この気持ち受け取ってください」
彼奴にしてはかなりくさいせりふだったが、来て早々あんなことを言われると、せっかく僕が計画したお膳立てはすべて吹っ飛んでしまった。
始めきょとんとして彼女は
「え、うそでしょ。三浦さんみたいなすごい人がこんな私を」
「嘘じゃありません」
「ほんとに?」
「ほんとです」
そのあとしばらく沈黙が続いた。
ああ、政樹ごめん。なんの力にもなって上げれなかったな。
そんな言葉が僕の頭の中によぎった時。
すっと野崎さんの手が政樹の方に伸びた。
「私でよければよろしくお願いします」
呆然とする政樹に
「おい、何してんだよ」
彼奴の肩をポンと叩いてやった。
ハッとして我に返った政樹が野崎さんの手を取りながら言った言葉は、たった一言
「ありがとう」
と、言っただけだった。
そんなことがありながら、政樹は野崎さんと恋人同士になった。
「なぁ太芽」
「なんだよ政樹」
「恵梨佳に言われちまったよ」
「なにをだよ」
「もし、あの時、俺が恵梨佳に好きだと言った時。あの時すでに恵梨佳に恋人がいたらどうしたのかって」
「なんて答えたんだよ。いさぎよく諦めるとでも言ったか」
政樹は何となく笑ったような顔で
「俺は諦めねぇ、恵梨佳が振り向いてくれるまで……絶対に諦めねぇ、って言ってやった」
「そしたら恵梨佳の奴、いきなり泣き出して」
「ありがとう」って一言言ってくれた。
「そうか。ありがとうか……」
「ああ、ありがとうだ」
政樹はその言葉の意味を、いや野崎さんの想いをその一言で感じ取ったんだと思う。
「俺は恵梨佳には敵わねぇ。あの恵梨佳の持つ食に関する感性は彼女の宝だ。どうして彼奴はこの道に進まなったんだ、それが不思議でならねぇんだけど。でも、そのおかげで、俺は恵梨佳と出会う事が出来た」
「うんそうだね。彼女は物凄いよ」
「そうだ恵梨佳はすごい奴だ。そして、お前と出会う事がなければ多分、俺は恵梨佳とも出会う事はなかったと思う。太芽、俺はお前と親友でいられることに感謝している」
「そうか、それを言うなら、僕の方こそ政樹に感謝しないといけない」
僕が、あのレーヌ・クロードに初めて行ったとき、お前があの店にいてくれたから
今の僕らがあるんだと思う。
そのレーヌクロードも今大きく変わろうとしている。
政樹の名声を頼りに、レーヌ・クロードの扉をくぐる職人が多く集まった。
すでに政樹自身、指導を直接行う事はなくなったが、彼は自分の作り上げる作品を独り歩きさせるために毎日奮闘している。
つまりは、レーヌ・クロードのブランドではなく。
パティシエ、三浦政樹という名のブランドをこの世界に広めるために。
そんな政樹の姿を、いつも温かく見守っている二人。
イレーヌと優子。
僕はいつも思う。あの二人の信頼関係は夫婦として、いやそれ以上の何かをいつも感じている。
出来る事なら僕もあの二人の様にお互いを慈しみ、そして永遠にミリッツアを愛したいと思っている。
そんなことを思うある日の事。
僕は優子からある話を聞かされた。それは、彼女とイレールが出会った頃の話だった。
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