第65話10.新たな風が吹くその瞬間に
今思えば、僕らのあの友情はこんなにももろいものだったんだろうか。
崩れゆく気持ちに、新たに芽生える恋心。
一度からまった糸を、もとに戻すことは容易なことではない事を。僕は知ることになった。
どうして、どうして。
「太芽……お前、このカヌレ。どこで手に入れたんだ」
僕が持ってきたあのカヌレ。一つのカヌレが彼奴、政樹の運命をも変えてしまう。
名誉を勝ち得た政樹は、口にしたカヌレを飲み込み、すべての力が抜けきったように椅子に座り込んでしまった。
「どうしたんだ政樹」
がっくりと、肩を落とし語るように彼奴は話し出した。
「うまいなぁ、このカヌレ。なんの変哲もないただのカヌレだぞ。だけど、不思議なんだ。俺の心が引き込まれる。誰かがこの俺を呼んでいるような気さえする。そんな声が聞こえてくるような気がする。優しい声が俺のこの中に入り込んでくるようだ」
「政樹……」
「なぁ太芽、俺をこのカヌレを焼いている人に会わせてくれないか」
「それはかまわないが、本当に大丈夫なのか政樹」
「ああ、俺は大丈夫だ。いや、もしかしたら大丈夫じゃないかもしれねぇ」
「どっちなんだよ、いったい!」
「政樹のこんな姿見るの私初めて」
ミリッツアも心配そうに政樹の肩に手を添えた。
「そんなに心配すんなよ、これでも落ち込んでいるんじゃねぇんだ。なぁ、太芽、お前は俺に本当に素晴らしい、祝いの品を持ってきてくれたみたいだ」
「それはどういう事なんだ政樹」
「言っただろ、俺はようやく自分の道を歩みだすスタートラインに、立ったばかりなんだと」
「ああ、言ったな」
「でもな、俺まだそのスターラインから一歩踏み出す勇気がなかったんだ。コンテストで騒がれ、確かに俺も舞い上がっていた。それでも、この一歩をいつ踏みだすのか、そのタイミングがいつなのか。本当に俺はこれから自分の力で、道を切り開くことが出来るんだろうか。そんな不安がずっと付きまとっていた。情けねぇけどよ、正直な気持ちだ」
「何そんな弱気なこと言っているの? 政樹、あなたはずっと努力してきたじゃない。傍にいた私があなたのその姿を、今まで見続けてきた私が言うのよ。あなたはそんな情けない人なんかじゃない」
「ありがとうな、ミリッツア。お前にそう言ってもらえると嬉しいよ」
政樹はすっと顔をあげ、僕の顔を見つめ
「もう一度言う。頼む、俺に会わせてくれ。このカヌレに命を吹き込んだ人に」
「ああ、分かった。でも今日はもう無理だ。僕も支社に戻らないといけない。それに車で1時間はかかるところなんだ。僕が休みの時に、その時でもいいかな政樹」
「ああ、かまわねぇ。頼む」
その夜僕の部屋にミリッツアが来てくれた。
「よかった今日はいてくれたのね」
「ん、それは?」
「私この1週間何度かここに来たのよ。でもあなたはいなかった。仕事忙しいのは分かっていたけど、ずっと帰っていない様な感じだったから物凄く心配していたのよ」
「ごめん」
「もう、太芽あなた謝ってばかり。もうそんなこと気にもしていないわよ。ただね」
「ただ?」
「あんまりいないから、浮気でもしているんじゃないかって一瞬思っちゃった」
ニコット無邪気な笑顔をしながら、ミリッツアは僕の目を見つめていった。
「ば、馬鹿な! そんなことするわけないだろ」
「本当に?」
「本当さ、僕が愛しているのは……君、ミリッツアだけだ」
そっと彼女の唇にキスをした。
目を閉じながら、ミリッツアの手が僕の背中を包み込む。
温かい、彼女の温かい手のぬくもりが僕の体に伝わる。
柔らかい彼女の唇が物凄く愛おしく思える。
全てが、彼女のすべてが物凄く愛おしい。
さらさらとした金色のつややかな髪、どこまでも鮮やかな、ブルーの透き通るような瞳。
ミリッツア・ジュブワ。彼女は僕にとって、僕のすべてだ。
彼女の肌から伝わるこの想いは、一番大切なそして一番の宝物だ。
彼女を僕は一生愛し続けたい。
「太芽、私は、あなたを一生愛し続ける。例え、あなたが天に召されても、その気持ちを変えることはない」
今僕の胸の中で抱かれている僕の妖精、いや、女神。ミリッツアは僕の女神だ。
これからもずっと永遠に君を愛し続けることを約束するよ。
声には出さなかったが、そう心の中で思った時、彼女は僕を強く抱きしめた。
僕らは今、幸せの中でその心を満たしていた。
「待たせたね、政樹」
僕の休日に合わせ政樹を彼女、野崎恵梨佳の所へ連れ出した。
「ミリッツア、君も一緒に行くかい?」
僕が彼女に訊くと、ミリッツアは首を横に振った。
「私は遠慮しておくわ。あなたたち二人で行って来て」
ミリッツアは何かを悟っていたんだろうか? 僕らが野崎恵梨佳に会う事に少し悲しげな表情を見せていた。
「なぁ、政樹」
「なんだ太芽」
車の中で政樹は一言も話をしようとはしなかった。
腕を組み、ただひたすら前を見つめていた。
政樹は今、何を思っているんだろう。
あのカヌレに出会った時から、何かに導かれているようなそんな感じを僕は政樹から受けている。
もし、このことで、政樹の人生に何か大きな変化が訪れるのなら、僕は良い方向に向いてもらいたいと願う。
なぜか、僕の心の隅に、黒い何かが、立ち込めている。
それが何なのかは分からない。しかし、これがどのような結果を生み出そうとも、僕はそれを受け入れる覚悟できていた。
「この方向は……」
政樹が目的地近くまで来た時にぼっそりと口にした。
「そうだ、ムールだ」
「ムールか。そんなところにいたのか。あの噂の人は」
「噂の人って?」
「本当はな、噂は聞いていたんだ。あのカヌレの事は」
「うん、ミリッツアから聞いたよ。前にイレーヌと話していたことがあるのを彼女が聞いたことがあるって」
「そうか……」
「どうしてその時、お前は動かなかったんだ。お前だったら興味はあったんじゃないのか?」
「まぁな確かに興味はあったが、あの時の俺はまだイレーヌに甘えていた。俺を見守ってくれているあのレーヌクロードという店が、俺を守ってくれていたんだ」
「それで」
「うん、まぁなんだ。今は」
「今はどうしたんだ政樹」
「ええい! お前は俺を尋問しているのか?」
「いいや、ようやく口を開いてくれたなって。今までずっと何も話さなかったから、話しやすいようにしてやっているだけさ」
「馬鹿か、お前は」
「あぁ、心外だなぁ。これでも結構お前に気つかっての事なんだけどなぁ」
「そんなことで気使うな、この馬鹿が!」
「ひどいなぁ、馬鹿馬鹿呼ばわりされる筋合いはないと思うんだけどなぁ。さぁ、着いたよ政樹」
車を止め、僕らはあの店へと向かった。
「ちょっと待った太芽。本当にここなのか?」
「ああそうだよ。ここがあのカヌレがあるところだ」
「嘘だろ? どこにもそれらしい感じはないじゃないか。それにここはパブ? じゃないのか」
「うん、夜はそうなっているようだけど、昼間の時間はカフェとして営業しているんだ」
「そ、そうなのか。しかし、なんだ。この店構えだと、どうしても酒が飲みたくなる雰囲気じゃないか」
「あははは、そうだな。でも今日は酒は飲めないな」
あの木製のドアを開けた、チリリンとドアの鈴が鳴る。
「やぁ野崎さん」
僕の声に彼女は振り向き驚いた声で
「さ、笹崎さん。どうしたんですか」
「すみません急に押しかけて、今日は僕の親友を連れてきました」
「笹崎さんの? 私てっきり、やっぱり金額が違うから、請求されるんじゃないかと思ってしまいました」
「あははは、そんなことはありませんよ。もうちゃんとお金も頂きましたし、あの金額で決済させていただきました。あの取引はもう終わりましたよ」
「はぁ、よかった」
ニコッと笑う彼女の笑顔は僕らの心を和ませてくれた。
「あ、紹介します。僕の親友の三浦政樹です」
「…………」
「おい、どうしたんよ政樹」
目を真ん丸と見開いて体を硬直させている政樹のその姿を見て彼女は
「あのう、こちらの方も日本からの?」
「……は、はい。単身で16歳の時、こっちに来ました。み、三浦…ま、政樹です」
「ええ、単身て言う事は16の時に一人で来たんですか?」
「はい、そ、そうです。パティシエの修行をするために、き、来ました」
「そうなんですか、でも、どこかで見たことがあるような? あ、この前テレビに出ていた方じゃないですか。確かあのコンテストの三冠の一人に選ばれた、若き天才パティシエとして」
額から大粒の汗を垂らしながらも、政樹は野崎さんから目を離さなかった。
「そうだね、そのコンテストで三冠に選ばれた正真正銘の三浦政樹です。彼とは僕がフランス支社に転勤になってからの付き合いなんです」
「わぁすご――い! そんな有名な方がどうして私の所に?」
「この前頂いたカヌレ、彼にも分けてあげたんだ。そうしたら……」
「俺、……惚れました。あなたの焼くカヌレに。そして……」
俺は……。
「教えてください。あなたの焼くカヌレの作り方を……」
この時、政樹は初めて恋という甘く、そして苦しい胸の痛みを感じていた。
カヌレに恋をしたのか……それとも。
Vous êtes tombé amoureux de Canelé... ou ?
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