第64話9.新たな風が吹くその瞬間に

 あの日の空の色は、忘れる事の出来ない色になった。

 僕にとっても、政樹にとっても……。


 あの日、僕は政樹のもとに。駆けつけることは出来なかった。

 あの瞬間を、この目に僕は刻みたかった。


 政樹は、あのコンテストで最優秀の栄冠という名誉はもらえなかった。

 だが、彼奴は、それに匹敵する三冠の一人となった。

 政樹の年代で、しかも日本人としてこの栄誉を受けたものは、未だかつて誰もなしえなかったことだ。


 僕がようやく政樹と会う事が出来たのは、コンテストが終わってから1週間が過ぎた頃だった。

 政樹ははそれまで雑誌社の取材に振り回され、会合の後援会、その他もろもろのつながりの祝賀会に引っ張りまわされていた。


 彼奴の名は一気にこのフランス、いや、世界中にその名を広めた。

 政樹の創作する作品にはあるキャッチフレーズつけられた。


「妖精のささやき」Murmure de fée


 派手さはないが、その美しさと細やかな繊細さ。その菓子は見る者を魅了させ、一口味わうごとに、どこからともなく優しく語り掛けてくる。

 まさにそれは妖精たちが、囁いているかのように。


 そして僕は、展示会の後処理に追われていた。

 今回、僕が提案した展示会への試みは、新たな相乗効果を生み出した。

 今まで接点がなかったパティシエと、菓子好きの一般のお客との接点だ。


 展示会が終わった後、多数の菓子店からの問い合わせが殺到した。

 今求められているニーズが、今回僕らのブースを訪れた一般のお客から専門店のオーナーやパティシエへ何らかの形で伝わるという、予想だもしないことが起きていたようだ。


「笹崎、今回のこの成功をきちんとした報告書としてまとめておいてください」

 支社長からの指示だった。

 お客からの問い合わせに、この報告書の作成。そして展示会の決算処理。

 この1週間は本当に目の回る思いだった。


 そして、もう一つ。忘れてはいけない注文を受けていた。

 その注文の品が入荷した。

 そう、野崎恵梨佳のざきえりかさんからの注文だ。

 カヌレの型。

 見積もりを取り、単価を決め彼女にその内容を電話で報告した。


「本当にそんなに安くしていただいていいんですか?」

 金額を伝えた時の彼女の第一声だった。

「大丈夫ですよ。ちゃんとことらも利益は取れていますから」

「本当にいいんですか?」


 いったい彼女はどこの店で購入しようとしていたんだ。正直、この金額はうちの正当な一般いわゆるビジター価格だ。

 それなのにこれほどまで喜ばれると、少し気が引ける。契約している店舗にはもっと安い価格で売買しているからだ。


「ところでご注文の数量ですけど何個くらいにいたしますか?」

 多分どんなに多くても10個くらいだろう。しかしその僕の勝手な思い込みは、彼女のあの一言でひっくり返ってしまった。


「50個。50個お願いします」

「えっ、今なんとおっしゃいました?」

「ですから、カヌレ型50個でお願いします」

「だ、大丈夫ですか?」

「はい、そのお値段でしたらぜひお願いいたします」

「ちょっと、お待ちくださいね」


 まさか50個もの注文が来るとは思いもしなかった。

 そうなれば単価ももう少し考慮してあげたい。商売人としては甘いのかもしれないが、支社長に声をかけ、単価のプライスダウンの相談をした。


「ん、珍しいな笹崎。お前からダウンの相談をしてくるとは。いったいどこの店からの注文なんだ」

 僕は住所と連絡先、そして彼女、野崎恵梨佳さんの名を支社長に告げた。


「ほう、これはまた。笹崎、これもあの展示会つながりか?」

「はいそうです。野崎さんがブースに来てくれたんですけど、カヌレ型は用意していなかったので、後日ご連絡致しますとお伝えして、今に至ります」


「そうか、彼女も来てくれたとは……」

「支社長、野崎さんをご存知なんですか?」

「まぁな、私も偶然彼女の存在を知っただけなんだが。確か笹崎、お前と同じ日本人だったな」

「ええ、そうですね」


「同国出身のよしみでか、それとも彼女を一目見て惚れたか? 黒髪の似合う美人さんだったからな」

「そ、そんなんじゃないです。それに僕にはちゃんと彼女がいますんで」


「ははは、そうだったな。冗談だ。まぁ、いいだろう。私も彼女の焼くカヌレに惚れた一人だからな。そうだ、納品はお前が行ってこい、そうすれば手数料分浮くだろう。うん、それがいい。それと分かっているだろうが、現金取引のみだからな」


「はい、ありがとうございます」

 まさか支社長があの野崎さんの事を知っているとは、思いもしなかった。

「すぐに、野崎さんにもう少し安くできることを伝えると」


「そんな、そこまでして頂かなくても」

 恐縮した様子が目に映るような声だった。

「それで納品は何時ごろまでご希望ですか?」

「あ、そんな。いつでもいいです。そんなに急ぎませんから。いつでも、本当に笹崎さんのお仕事のお邪魔にならいようにしてください」


「わかりました。では僕の時間が空いた時に、お届けさせていただきます」

「笹崎さんが持ってきてくれるんですか」

「ええ、支社長からの指示ですので」


 そして今僕はあのカヌレ型と共に、野崎恵梨佳さんの所に向かっている。


「確かこの方向でいいんだよな」

 教えてもらった住所の近くに車を止めて、それらしいところを探したが見つけることは出来なかった。


「おいおい、本当にこの辺だよな」ちょっと、いやかなり不安になった。

 支社から車でおよそ1時間のところ。パリ市街地から北に向かい、オアーズ川が流れる静かな街並みのところだ。

 それらしい焼き菓子を扱っていそうな店を探すが見当たらない。


 ふと目にしたバーの様な、それでも日中はカフェとして営業しているような感じの小さな店が目に止まった。

「はぁ、ここで一休みしていくか。もしかしたらこの店の人が知っているかもしれない」

 その木製の扉を開けた。ドアに取り付けられている鈴が鳴る


 一歩その店の中に足を入れた瞬間。

 何とも言えない甘く、香ばしい香りが僕を包み込んだ。


bienveueビヤンブニュ(いらっしゃいませ)」

 奥の方から、若い女性の声がした。


 そしてその女性ひとの姿をこの目に映し出した。

 彼女のその姿を見た時、僕の胸の中がざわついた。

 つややかな黒髪と透き通るような肌、そしてあの黒い瞳から放たれるなんとも言えない優しい視線。

 見つけた。ようやく見つけた。


 野崎恵梨佳さんを……。


 これが僕と彼女が焼く、カヌレとの出会いだった。


 以前僕がボルドーに赴いた時、ワイナリーの工場長から教えてもらった。絶品のカヌレを焼くところがあることを。それがここであり、彼女、野崎恵梨佳が焼き上げるカヌレこそが、そのカヌレであった。


 カヌレ、その昔。ワインの産地として名高いボルドー地方では、ワインの”おり”いわば不純物を取り除く際に卵白を使っていた。

 必要なのは卵白だけだ。残った卵黄を修道女たちが焼き菓子として作り始めたのが。


 cannelé de Bordeauxカヌレ・ド・ボルドー


 その歴史は古く。一時は廃れた時もあったが、今はその伝統的なフランスの焼き菓子として君臨している。

 カヌレの特徴は蜜蝋で固められ、あの独特の歯車の様な溝の型で焼かれた焼き菓子である事だ。


 外側は黒く固めでカリッとしているが、その中はしっとりと濃厚な卵の風味とバニラの香り。そしてラム酒のほのかなささやきが香る一品。


 見た目は決して今どきの菓子の様に華やかではない。されど、その秘められた濃厚な味わいは、今も多くの人たちが愛してやまない焼き菓子の一つだ。


 僕とミリッツア二人で探したが、見つけることが出来なかったカヌレ。

 そのカヌレが今、僕の目の前にある。そしてそのカヌレを焼き上げる彼女のその姿が今、僕の目の前に現れた。



 風が吹き始める。


 僕らに、風が吹きはじめた。


 その風は僕らのつながりを、その糸を絡み始める。

 そう野崎恵梨佳。

 彼女は、僕ら3人に大きな影響を与えた女性ひとだった。



「やぁ、政樹。久しぶりだな」

「おう、太芽。ほんとそんな気がするぜ」

「あら、ほんの1週間しかたってなくてよ。あなた方が出会うのは……」

「そうか? ミリッツア」

「そうよ、だって太芽私の所にも会いに来てくれなかったんだもの1週間も!」


「ごめん、ミリッツア」

「別にいいのよ……、どうせ忙しかったて言うでしょうから」


「おいおい、そんなにすねるなよミリッツア。此奴だって本当に忙しかったんだろうからよ」

「あら、政樹は太芽の肩を持つの? 別にいいけど」

「ごめん、本当にごめん。お詫びと言ったらなんだけど、見つけたんだよ。ほらボルドーで教えてもらったおいしいカヌレを焼いているところ」


「え、そうなの?」

「うん、はいどうぞ。これがそうだよ」

 僕はそのカヌレをミリッツアに手渡した。


「あ、そうだ遅くなったけど、政樹。おめでとう」

「な、なんだよ。別に大した事じゃねぇ―よ」

「なに言ってんだ。物凄くすごいことだよ。これで三浦政樹の名は世界に知れ渡ったんだからな」


「ふん、だからそれがどうしたって言うんだ。俺は、ようやく自分で歩き始めるスタートラインに立っただけだ」

 そしてそのカヌレを、彼奴はカリッと音をたて口にした。

 その瞬間、政樹の表情は一変した。



「太芽……お前、このカヌレ。どこで手に入れたんだ」

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