第63話8.新たな風が吹くその瞬間に
政樹の勝負の時がやってきた。
すでに政樹は前日から会場入りをしている。
このコンテストに出向く時、僕とミリッツアは、政樹に激励の言葉を投げかけたかったが、そんな雰囲気じゃなかった。
もうそのプレッシャーに、政樹は押しつぶされてしまうのではないだろうか。そう僕らが感じるほど彼奴の精神は高ぶっていた。
そんな時、イレーヌが政樹に告げた言葉。
「政樹、お前と初めて出会った時の事を覚えているか? お前がまだ16歳で、たった一人でこのパリに来た時の事を」
政樹のレシピを持つ手の震えが、静かに収まっていく。
そして、目を閉じてすっと上を見上げた。
「あの時の政樹の目は輝いていた。そして希望に満ち溢れていた。どんなことが自分に降りかかろうとも、お前はそれを跳ねのけるだけの自信を、あの時の目が語っていた。私はあの時の政樹のあの目の輝きを一生忘れない」
見上げる政樹の目からは、一筋の涙がこぼれていた。
「ああ、覚えているよ。忘れるもんか」
「そうか、それならそれでいい。あの時のあのお前の姿が今でも私の目に、心に焼き付いている。もう、私はお前に教えることは何もない」
「もう、私はお前に教えることは何もない」
イレーヌが言ったその一言。政樹はその一言を聞いた時、こらえていた涙があふれだした。
「そんなこと言うなよ。俺はまだこんなに半人前なんだ、もうどうしようにもなく不安で仕方がないんだ。もっと、いろんなことを俺は教えてもらわなければいけないんだよ」
ユーコが泣きじゃくる政樹をそっと抱きしめた。
「政樹、あなたはもう立派に成長したのよ。子はいずれ、親の手から離れて自分で道を切り開かなければいけない。物凄く寂しいけど、物凄く嬉しい。今日はあなたが私たちから巣立つ最初の日なの。頑張って、頑張って自分の道を未来を切り開いて……政樹」
「そんなこと言うなよユーコ。もうお別れみたいじゃねぇか」
「ううん、お別れなんかじゃない。ちゃんと自分の持てる力を精一杯出し切って、またその姿を私たちに見せて。多分、その時の政樹はもう今のあなたとは違っているはずだから」
「別れるのは今までの自分とだ。今ここから、お前は新たな道に進むんだ。自分という新たな道にな」
にっこりとイレーヌは微笑みながら言った。
その時の顔は初めて会った時よりも、しわが多くなった顔だったけど、あの時のイレーヌのその優しい瞳は何も変わっていなかった。あの時のままだ。
ずっとイレーヌも、ユーコも、俺の事をその瞳で支えてきていたんだ。
政樹は二人を抱きしめて
「うんそうだよな。俺はいつまでも甘えてはいけないんだよな。親父、お袋、ありがとう。今までこんな俺を、何も分からない、こんな俺を、ここまで育て上げてくれて……本当にありがとう」
「うん、頑張ってこい」
「いってらっしゃい政樹」
僕は政樹がうらやましく思えた。
こんなにも政樹は、イレーヌとユーコから愛されていたんだと。
本当の親子ではない。でもこの3人の絆は本当の親子の様に結ばれているんだと、僕はその時そう思えた。
僕の横で涙ぐんでいるミリッツアの肩をそっと引き寄せ。
「将来僕らも、こんな親でありたいな」と、そっと彼女の耳元でささやいた。
ミリッツアは体を小刻みに震えさせ、顔を僕の胸にうずめて
「うん」とうなずいた。
そんな僕らを目にした政樹は
「おい太芽、何ミリッツアまで泣かせているんだ」
「あ、これはなんだ。その、もらい泣きだよ、もらい泣き。そうだよなミリッツア」
「……うん、そうよ」
照れ臭そうに真っ赤な顔で、ミリッツアは答えた。
「それよりも政樹、もうそろそろ出ないと時間、会場入りもうしないと」
時計を見て僕が言うと。
「大丈夫さ、そんなに焦ったて、どうにもならないだろ。まぁ、ちょっくら行ってくるか」
そこにはいつものあの政樹がいた。
「それじゃ、親父、お袋。行ってくる」
片手をあげ、大きなショルダーバックを肩にかけ、満面の笑顔で政樹はここ「レーヌ・クロード」を出ようとした。その時、イレーヌが政樹に一言言った。
「政樹、レーヌ・クロードの扉はいつでも開かれている。そして……その扉を閉じるのも己自身だ」
「ああそうだな。その通りだ」
その一言を政樹は残し、会場へと向かった。
そして僕は支社に戻り、そこから不眠不休で展示会ブースの設営準備に追われた。
いよいよその当日を迎えたが、もうすでに僕は準備段階でぼろぼろの状態だった。
だが、そんなことは言ってられない。ここからが僕にとっても……そして、政樹にとっても正念場だ。
今回の新しい僕らの取り組みは、他社も注目している。
中には無謀なことをするもんだと言ってくる同業者もいたが、このパリという地で、菓子を愛してやまない人たちは大勢いる。
そこらの雑貨屋などで手に入る資材や器材などは、職人が扱ういわばプロが使うものとは違うのは言うまでもない。
まして食材も中々一般には出回らないものが多い。
興味を持ってくれる人たちは大勢いるはずだ。
だけどやっぱりこれは、無謀に近いことをやっているのではないか、という想いが僕を襲う。
疲労がそうさせているのかもしれない。
この企画を提案したのは、この僕だ。
絶対にこの企画は成功させたい。そう、今、政樹が戦っているように、僕も己に負けることは出来ないんだ。
そんな不安を抱えながらオープンした僕らのブースは、大盛況だった。大勢の人たちが興味深々僕らが扱う商品を買っていってくれた。
「笹崎、やっぱりお前すごいわ」
先輩たちもこの反響に驚いていた。
支社長も感心しながら
「笹崎、今回お前が立案したこの企画は、今まで我々が行ってきた常識を覆してしまったようだ。こういう新たな取り組み、チャレンジはやはり若いお前たちの時代を創り上げる
「そ、そんなことはないですよ」
「いや、謙遜しなくてもいい。その君たちの様な若い感性が、これからはこのパリには必要なのかもしれない」
古き良き伝統を守り続ける体制から、時代は変わりつつある。その変化にどこまで柔軟に対応できるかという発想が、これからは必要になってくるんだ。と支社長は言っていた。
もうそろそろ、コンテストの最終審査結果が発表される時刻だ。
政樹は大丈夫だろうか?
コンテスト会場まではすぐ目と鼻の先だ。だが、招待状がなければ会場に入る事も、その会場の敷地に入ることもできない。
確か審査の結果は速報で張り出されるはずだ。
一時期のピークからすれば大分客の数はひいてきた。その時を見計らってバイトの子に。
「ごめん、ちょっと外れてもいいかな?」
「いいですよ」と了解をもらい、コンテスト会場の方に出ようとした時、僕の目の前に一人の女性が近づいてきた。
「あのぉ、もしかして……日本の方ですか?」
その日本語に、はっとして彼女に目を向けた。
長い黒髪に白い肌、くりっとした黒い瞳。どことなくユーコの若い時の姿を想像させられそうなその女性。
淑やかで、控えめで……綺麗な何かを引き付けるような雰囲気のある
「あ、そうですけど、あなたも日本から?」
「ええ、そうです」
「そうでしたか、助かっちゃった。何となく話しかけずらかったんですよね」
「あ、フランス語話せなかったんですか?」
「いいえ、そうじゃなくて、私みたいのがいいのかなぁって」
「大丈夫ですよ。僕らのこのブースは、一般の方にも開放していますから、ここにある物でしたらなんでもご購入できますよ」
「うん、実はね欲しいものがあって今日ここに来てみたんですけど」
「欲しいもの? どんなものでしょう」
「あのね、カヌレ型とバニラが欲しんですけど」
カヌレの型……。
「すみません、カヌレ型は今日は置いていないんです。バニラでしたらこちらの方にご用意しています」
彼女は促されるように、バニラを並べている方に目を向けながら。
「そうですか。カヌレ型は置いていなかったんですね。卸の業者さんから買うと物凄く高いんですよね。もしかしたら、商社さんだったら安く手に入るのかなぁ、なんて甘いこと期待しちゃってたんですけど。残念です」
そう言いながら彼女が手にしたのは、ポット瓶に入れてある乾燥バニラだった。
「バニラでしたら、こちらのエッセンスタイプの方が使いやすいと思いますけど」
「そうね、でも私、この乾燥バニラをいつも使っているから」
「それってカヌレを作るためにですか?」
「ええ、そうなんです」
カヌレを作るために。そのカヌレという響きに僕は何か動かされたように。
「確か、カヌレ型も欲しかったって言っていましたよね」
「ええ、本当はそっちの方が一番欲しかったんですけどね。今使っている型、大分古くなってきて、そろそろ限界なのかなぁって。それに今の数だと足りなくなってきちゃったんです」
足りないって、どれだけ1回に焼くんだこの人は?
「もしかしてどこかの菓子店の方ですか?」
「あ、そんなお店なんていう感じやないんですけど、私の住んでいるところの1階が夜お酒を飲めるところで、そこの店主さんが昼間だけカヌレを焼いているんです。そこをちょっと手伝わせてもらっているだけなんですけどね。本当に小さなところなんですよ」
「ん―、そっかぁ。でも何だか物凄く僕興味湧いてきました。もしよかったら、ご住所とお名前教えてもらえませんか? あ、僕パリ支社の笹崎と言います」
彼女に僕の名刺を渡した。
「でも……、こんな大手の商社さんが来られるようなところじゃないですよ」
かなり遠慮しながら彼女は言った。
「気になさらないでください。カヌレ型今日はありませんけど、取り寄せは出来ます。よかったら必要な数教えてもらえますか? たぶん、仲買が入らない分でも大分お安くお出し出来ると思います」
「いいんですか?」
「ええ、いいですよ。ご準備出来ましたらご連絡差し上げます」
彼女はにっこりとほほ笑んで
「ありがとうございます」と、深々と頭を下げた。
彼女からもらったメモ。そこには住所と電話番号。
そして彼女の名前が書かれていた。
これが、彼女、恵梨佳との初めての出会いだった。
この時僕らに
新たな風が吹き始めていたのを僕はまだ、感じとる事さえ出来ないでいた。
その風は運命を変える風。
Le vent est un vent qui change le destin.
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます