第62話7.新たな風が吹くその瞬間に

「ねぇ太芽」

「どうした、ミリッツア」

 カーテンの隙間から差し込む光が僕の目をくらませる。


「あのね、……ううん、なんでもない。珈琲飲むでしょ」

「あ、うん。僕が煎れるよ」

「いいわ私に淹れさせて」

「わかった。ありがとう」


 共に一夜を、一つのベッドで過ごした日の朝。

 目覚めた時に彼女のぬくもりが、僕に安らぎを与えてくれる。


 僕が彼女に「好きだ」と告白してからもう半年がたった。

 僕らは、忙しい中でもお互いの仕事をやりくりしながら二人の時間を共に築き、そして楽しんでいる。


 最も政樹が融通をきかせてくれているのも僕は知っている。

 僕らの仲がうまくこれからも続くことを一番に願っているのは、なにせあの政樹だからだ。


「はい、珈琲」

「ありがとうミリッツア」

 珈琲の香りが僕の鼻をくすぐる。

「今日、どうしようか? 太芽はどこか行きたいところでもある」

「う―ん、そうだな。あ、そう言えば」

「どうしたの?」

「あ、いやちょっと気になっている店があってさ」


「はぁ、太芽ってホント真面目よね。それって仕事の事でしょ」

「んー、どうだろ。仕事と言えばそうかもしれないんだけど、でもこれはどっちかというとプライベートかな」

「プライベート?」


「先週僕が出張でボルドーに行ったって話したよね」

「ええ、聞いたわ。あなたのあの愚痴、覚えているわよ」

「おいおい、それは……、確かに愚痴ったのはすまなかったけど、何で担当外のこの僕がボルドーまで行って、知識も乏しいのにワインの買い付けの視察をしてこなきゃいかなかったんだ、という事を君に話しただけじゃないか」


「それって、りっぱな愚痴だと思うんだけど」

 にっこりとミリッツアは笑いながら珈琲をすすった。


「まぁ、それはいいとして。あのさ、ボルドーと言ったらワインだよな」

「そうね昔からワインの産地であることは有名よ」

「そう、それにもう一つ。まぁ今ではこのフランス全土どこでも見かけるんだけど、特にこのパリじゃ今や盛んにいろんな店が競い合っている菓子って言ったら、何を思い出す?」


「そうねぇ、フランスでしかもこのパリで今人気が出てきているのは、マカロンとか昔から受け継がれてきている焼き菓子だったらフィナンシェとかだと思うんだけど、ただ。ボルドーっていう地名が関係しているのなら、一つしかないわね」



 二人で声をそろえてその焼き菓子の名を言った。


「うん、そのカヌレ。ボルドーのあるワイナリーの工場長が、僕に教えてくれたんだ。パリの郊外に小さな店だけど、ものすごくおいしいカヌレを焼く店があるんだって。なんでも数年前にそのカヌレを作る職人? それは分からないけど、その人が僕と同じ日本人で、その人が焼き上げるカヌレが絶品なんだってさ」


「ん―、なんかその噂大分前に聞いたことあるような気がする」

「ほんと! ミリッツア」

「ええ、確か政樹がイレーヌと話しているのを聞いた覚えがあるだけよ。お店がどこにあるかまでは私は分からないし、たぶん政樹も知らないと思うわ」


「え、そうなんだ、政樹も知らないんだ。てっきり僕は政樹は知っているとばかり思っていたんだけどな」

「でも太芽その工場長さんから、お店の場所聞いてきたんでしょ」

「それがさ、肝心なところで仕事の話になっちゃって、実はその店の場所まで聞けなかったんだ」


「あらあら、肝心なところが抜けていたのね」

 少しあきれたような顔をするミリッツアだったが、彼女はすぐに

「それなら、私たちで探してみましょうか」と、言ってくれた。


 しかし手掛かりはこのパリ郊外という事だけしか分からない。

 まずは該当する菓子店をピックアップしてみた。もちろんその中には僕の会社とも取引している店もある。取引しているところの内情はある程度把握していたから、それらの店舗が該当しないことはすぐに結果が出た。


 そして、それ以外の店舗で日本人が働いているところを絞り込んでみた。

 まぁ、仕事のふりをして、電話をかけまくったんだけど。そのうち2店舗が残り、僕らはその店に足を運んでみた。


 だが、その2店舗ともカヌレは扱っていなかった。


「イレーヌなら、知っているかな?」

「どうでしょうね。でも彼の事だから、知っていても教えてはくれないと思うわ」

「どうしてさ?」

「そう言う自分が気になるお店や、菓子を見つけるのも修行の一つだって。昔言っていたから」


「はぁ、そうか。……でも残念だったな。ミリッツアと一緒にそのカヌレ食べてみたかったのに」

「ありがと太芽。その気持ちだけで十分、おいしく頂いていますから」

 なんだか物凄く照れくさくて、そのままキスをした。


 彼女もゆっくりと、僕の体をその腕で包み込む。

「愛している」そっと彼女の耳元でささやいた。彼女のその包み込む腕の力が強くなる。


「離れたくない。私はずっと太芽と離れたくなんかない。例え……、あなたが日本に帰ることになっても、私はあなたから離れることなんかない」


「僕もだ、ミリッツア」


 あれから、2週間が過ぎた。

 あれ以来僕らは、あのカヌレの事はすっかり忘れ、お互い忙しい日々を送っていた。

 ミリッツアも今までになく忙しい日々を送っている。


 もうじき、このパリで開催されるパティシエのコンテストがあるからだ。

 政樹はそののコンテストにエントリ―していた。


 毎年のように開催されるいろんなコンテストやイベントがあるが、今回はこのパリではかなり名誉あるコンテストだ。


 政樹も何度目のエントリーになるんだろうか。だが今まで、彼はあと一歩のところでその名誉を勝ち取ることは出来ていなかった。

 しかし今回は、政樹の意気込みは今までとは違う何かを感じさせていた。

 その気迫はこの僕にも伝わるほどだ。


 僕らのパリ支社もこのコンテストに向け、あるイベントを計画している。

 このコンテストはパリ全土はおろか世界から参加者が大勢やってくる。

 1次選考審査、そして2次選考審査と何度も振るいにかけられ、最終審査に残れるのはほんの数名にしか与えられない栄誉だ。

 その最終審査の中に今回、政樹は生き残っていた。


「今年は、俺が決めてやる! もし、最高峰に辿り着けられるんだったら、この命捧げてもいいぜ」


「おいおい、意気込みは分かったけど、そこで死なれたら元もこうもないだろ。なんのためのコンテストなんだよ。名誉つかんで玉砕はいくら何でもないだろう政樹」

「ははは、確かにそうだよな、太芽。ただ、俺はお前と本当にうまい酒が飲みたいんだよ」


「僕もだよ政樹。そして、ミリッツアもそう願っている」

「ありがとな、俺はお前らがいたから、ここまで頑張れるんだと思う。それに何としても答えないといけねぇ」


「そうだな政樹。がんばれ!」


「あ、そうだ。お前んとこの支社、今年はなんか変わった趣向のイベントやるそうじゃないか。何をやるんだいったい?」

「あはは、変わった趣向というわけじゃないんだけど、実はこれは初めての事なんだ」

「なんだよ、もったいぶるなよ」


「大したことじゃないんだけど、でも……やる方にとっては物凄く大ごとなんだけどな。実はほら、このコンテストに合わせていろんな商社なんかは、展示会や自社の商品アピールなんかを合わせてイベント組むんだけど、まぁ、うちも例外なくそのイベント計画している。だけど、今まではバイヤーや菓子店へのアピールがメイン。というよりはそう言う人たちにしか招待状は送っていなかったんだ。でも今年は一般の、菓子に興味のある人だったら誰にでも来てもらえるようにしたんだ」


「誰にでもって、それって一般客も相手にするっていう事なのか?」

「まぁ、簡単に言うとそう言う事なんだけどね」

「それってすげぇ大変なんじゃねぇのか」

「ああ、即売会もやるから、バイトの手配とかもろもろもすごく大変なんだ」

「それでミリッツアも最近機嫌が悪かったのか」

「ごめん、とばっちりお前の方に行ったのか? もしかして……」

「いいんじゃねぇの。それだけ彼奴はお前の事が好きだっていう証拠なんだろうからな」


「ありがとうな政樹」


 そして、このイベントが僕らにとって大きな変化と、かじ取りをしなければいけない事態になろうとは。


 そう彼女が僕らの前に現れるまでは……。


 あの運命の女性との出会い。それは僕らの未来に大きくのしかかる。




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