第61話6.新たな風が吹くその瞬間に

 うっすらと僕の目にたまる涙。

 そのほほ笑みが僕のこの胸を締め付けた。

 ユーコ・ミシェーレ。彼女のそのほほ笑みは、忘れかけていた母親のほほ笑みとあのぬくもりをこの僕に思い出させてくれた。


「どうしたの笹崎さん」

「な、なんでもないです」

 目からあふれる涙をぬぐい、できる限りの笑顔で僕は彼女に答えた。

「今日は貴重な体験をさせていただき、ありがとうございました」

「何言っているのよ。手伝ってもらったのはこちらの方なんだから、お礼を言うのは私たちの方よ」


「どうしたんだよ笹崎。お前、もしかして泣いているか!」

「な、泣いてなんかいるもんか」

「でも目が赤いぞ」

 三浦が茶化すように言う。

「何か思いだしたのね笹崎さん」ユーコ・ミシェーレは僕の頭にそっと手を添えた。

 不思議と心が和む。不思議と心が熱くなる。

 消え去ろうとしていた母さんの面影がこの目に、目の前にいるユーコ・ミシェーレと重なるように見えてくる。


「幼い時になくした母を。忘れかけていた母の面影を思い出してしまいました」


「……そう。あなたのお母さんは」

「僕が8歳の時に病気で他界しました」

「そうだったの」

「そんなところで立ち話も何だろう。さぁ、せっかくユーコが腕を振るってくれた料理がさめてしまうぞ」


 イレーヌが僕らを食卓に招いてくれた。

 とても懐かしい、いい香りがずっと僕の鼻をくすぐっていた。

「今日君が来るからってユーコが、日本の料理を君に食べてもらいたいって言ってな。ご覧の通りだ」


 食卓には大きな深皿から立ち上がる湯気。そうこれは、肉じゃがの香りだ。それだけじゃない、魚の煮つけと白いご飯。お味噌までもついている。

 フランスに来てからずっと口にすることがなかった懐かしい味。

 いや、僕にとって肉じゃがは母さんの味だった。

 僕が幼いころ母さんはよくこの肉じゃがを作ってくれた。


「お口に合うかしら? どうぉ、笹崎さん」

「おいしいです。物凄く美味しいです」

 また目頭が熱くなってきた。

「笹崎、お前って涙もろいんだな」

「政樹、それは違うわよ。あなただって昔はそうだったじゃない。みんな同じなのよ。心がきれいな証拠なの、涙を流せるって」

 ユーコ・ミシェーレは静かに言う。


「何も俺を引き合いに出さなくてもいいだろ。ユーコ」

「あら、今度は政樹が照れちゃったの」

「そんなんじゃない。おい、太芽お前ひとりの分じゃないんだぞ、俺たちにも食わせろ。黙っているとお前ひとりで全部平らげそうだからな」


 箸がぴたりと止まった。

「あら笹崎さん、政樹の分なんかいいからお腹いっぱい食べてね」

 ユーコ・ミシェーレはやさしく温かい視線を僕に、投げかけながら言ってくれた。

「ひでぇな」ちょっとすねた彼奴のその姿が何となく同年代なんだという事を、改めて感じさせてくれた。


 温かく楽しい食時の時間だった。

 あれから、時間が経つのは物凄く早かった。僕はおよそ1か月間もの間毎日ここ『レーヌ・クロード』に通い詰めていた。


 もうすでに政樹とも意気投合していた。オーナーのイレーヌも、ユーコも。僕のことを本当の息子の様に温かくそして時には厳しく接してくれた。

 この1か月間の時間は僕にとって、とても大切な時間だったと思う。


 パリ支社に久しぶりに顔出してみると

「よ、パティシエの笹崎じゃないか」とみんなから久しぶりに会う僕を笑顔で迎えてくれた。

 支社長から「よく頑張ったな」と褒められたが、商社としての仕事の成果はまるっきりなしの状態だった。


「申し訳ありません。期待して戴いた結果が出せませんでした」

「何を言っている笹崎。お前は十分に仕事の成果をここに持ち込んでくれているよ」

 それはどう言う事なんだろう。


「お前は、あの『レーヌ・クロード』とこのパリ支社のつながりを築いてくれた。今はそれでいい。十分すぎるくらいだ。あとは笹崎お前のやりたい様にやればいい。きっといい結果が必ず後からついてくるはずだ」


 あとはお前の好きにやればいい。支社長は僕に『レーヌ・クロード』を一任するという事なのか。

 責任重大! 身震いがした。

 だけどその反面安心もした。

 もう僕にとって『レーヌ・クロード』は、このパリの実家の様なものに感じていたからだ。


 月日は流れ、あれからもう2年の歳月が過ぎ去っていた。

 支社長の言う通り『レーヌ・クロード』との繋がりはこのパリ支社にとって大きな利益を生む事に繋がった。


 評判を聞きつけたバイヤーたちは皆、パリ支社の商品を保証書付きと言わんばかりに注文してくれるようになった。

 これも『レーヌ・クロード』という店の名がしえたことだった。


 僕はあれからまるで自分の家に帰るかのように、仕事抜きで『レーヌ・クロード』に通う日々を繰り返している。

 三浦いや、政樹とはもうお互い名前で呼び合う仲でもあり、僕らは親友と呼べる信頼関係をお互いに持ち、その絆を一番の財産だと二人で分かち合うように飲みに行くような仲になっていた。


 そしてもう一人僕には大切な人が出来た。

 それは政樹のもとでアシストしていたミリッツアだ。


 始めミリッツアは政樹の事が好きなんだとばかり思っていた。

 たまに時間が空いたときにお店の手伝いをかって出たりしたりしたが……、もっとも洗い物専門なんだけど。

 そんな時ミリッツアは必ず僕の傍にやってきて一緒に洗い物を手伝ってくれた。もうそのころは彼女は洗い物なんかしなくても、ちゃんと自分のアシストが付いていたのに。

 それでも僕の所で楽しそうに一緒に洗い物をしていた。


 ある日政樹と二人で行った酒場で。

「なぁ、太芽。いい加減お前もちゃんとしろよ」

「え、何のことだよ政樹」

「馬鹿か? お前は、ミリッツアの事だよ」

 その名を政樹から言われると、一瞬で顔全体が熱くなっている自分に気が付いていた。


「だ、だけど。政樹、お前ミリッツアの事好きなんじゃないのか?」


 政樹はプレッスィヨン(ジョッキに入れられたキンキンに冷えた生ビール)をグビッと流し込み。

 ドン、とカウンターにジョッキを置いた。


「好きじゃない。と、言ったら俺は大ウソつきだ」

「やっぱりな。だったら政樹、お前の方がもっとしっかりしないといけないんじゃないのか」

「だからお前は大馬鹿ってんだ! ミリッツアが好きなのは……お前なんだよ。太芽。お前だって気づいていたんだろ、あいつの気持ち。だけど俺に気ぃ使って黙っていた。でもなぁ、それって俺も苦しんだよ。……実際」

「そ、それは」

 ジョッキを握り、ゴクゴクと喉にプレッスィヨンを流し込んだ。


「好きだよ! 僕はミリッツアの事が好きだ」

 大声で叫んだ。店にいた客が何事かと驚いて僕ら二人に目を向けた。

「よく言った太芽」

 どんと政樹は僕の背中を叩いた。


 ゴホ、ゴホ むせた。

「いきなりなにすんだよ」

「ははは、お前からその言葉出てくるの待っていたんだ。もそろそろだな、ちょうどいい時間だ」


 政樹はにやつきながら時計を見た。その時店の扉が開いた。


 そこにいたのは彼女

 Militza(ミリッツァ)・Dubois(ジュブワ)

 まさか……。


 ミリッツアは僕らの所に来て

「あら、もうかなり出来上がってるのね」と少しあきれながら僕らに言う。

「ああ、出来上がらねぇと今日はいけねぇ日だからな」


「なにそれ? それじゃ私も出来上がる準備しないといけないみたいじゃない」

「ああ、そうだなミリッツア。お前も飲め。なぁ、太芽」

「う、うん」


 ど、どうしたらいいんだろ。さっきあんなこと言ったばかりなのに、しかもその本人が来るなんて……。あ、俺、もしかして政樹にはめられた? 


「政樹ぃ― 、……」

「なぁに困り果てた情けねぇ顔してんだ。さっき宣言したんだろ。予行練習はもう終わりだ。さぁ、本番行ってみようか! なぁ太芽」


 この野郎、完全に面白がっていやがる。


「何、何が始まるの? 政樹」

 身を乗り出してミリッツアはワクワクしながら言う。


「好きなんだよ」ぼっそりと政樹が言った。


「ん? 好き? ……政樹が私の事? なぁんだ、そんなことだったの」


 は?


「私も好きよ政樹の事」


 えっ!


「俺も好きだよミリッツアの事」

 おい! 政樹、お前何言ってんだ、さっきまでのあれはいったい何だったんよ。お前がそんなこと言ったらもう終わりじゃん。


「俺にとってミリッツアは妹の様なもんだからな」

「そうね、私も政樹は兄さんっていう感じかしらねぇ」


 はい? おいおい、お前らの好きっていうのは、そういう事なのか。

「さぁ、太芽次はお前の番だな」

 ミリッツアが僕の顔を見つめている。


 もう後には引けない……究極な窮地。でも今言わないといつ言えるんだ。

 もうどうにでもなれ!


「僕は、笹崎太芽は……Militza(ミリッツァ)・Dubois(ジュブワ)の事が好きです。僕と付き合ってください」


 そっとミリッツアの顔を見ると、彼女は耳の先まで真っ赤な顔をしていた。

「……あのぉ。ごめんいきなりこんなところで」

「うん……」

 うん、て……。やっぱりちゃんと告白すればよかったんだ。


「ご、ごめんミリッツア」

「ううん、違うの太芽さん。うれしい。私もあなたの事好き。本当に私でいいの?」

「いいも何も、本当に僕でいいの?」

「うん」


「よっしゃぁ! うまくいった。さぁみんなで乾杯だ」

 店中の客みんなで盛り上がった。


 何より一番うれしそうな顔をしていたのは。

 彼奴、政樹だったのを僕は今でもちゃんと覚えている。

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