第60話5.新たな風が吹くその瞬間に
次の日の朝、僕はオフィスにはよらっず真っすぐに『レーヌ・クロード』へと向かった。
オフィスに寄ったりしたら、逆に支社長にどやされそうな気がしたからだ。
しばらく僕は『レーヌ・クロード』に出向という事になっているようだ。
なぜ、この僕をあのイレール・ミィシェーレは呼んだんだろう。
僕が日本人だからか?
そしてあそこにいた僕と同じくらいの年の奴。ちょい小生意気なところが少々むかつくが、あの笑った顔は憎めない奴だと思った。
高校を中退して単身、このフランスにやってきたと言っていた。
その勇気というか行動力にはかなわいな。まぁそんなことを競うわけでもないんだが、ただ、これから向かう先で、僕を待ち構えているあの二人の事を想像すると身震いがするのなぜだろうか?
車を飛ばし覚えたての道順を経て、ようやく『レーヌ・クロード』の店の前に着いたのは朝の8時を少し過ぎたあたりだった。
「少し早く来すぎたかな」
車の窓から、店を眺めていると店のドアが開いた。そしてそこには彼奴、
「おーい!
「あ、はい。今行きます」
車を駐車場に移動させ、車を降りてから気を引き締めるようにネクタイをキュッとしめなおす。思いのほか力が入って、ネクタイで首が締まりむせてしまった。
「何緊張してんだ俺は……」
そう独り言をつぶやくが、やっぱり緊張しない方がおかしいくらいの状況であることは、昨日の支社長の雰囲気からも伝わっている。
店の扉を開き、「おはようございます」と、大きな声であいさつをした。が、返ってきたのは。
「挨拶はいいからまずは着替えろや」
「は、え?……」
渡されたのは『レーヌ・クロード』の職人が着るユニフォームだった。
「おお、なかなか似合うじゃねぇか笹崎」
「あ、そう……ですか」
ポカンとしながら着替えを終えて、厨房の
「そこ、シンクの洗い物まずは洗ってくれ」
言われた先のシンクの方を見ると、すでに使われた鍋やらレードルやら、いろんな機材が山のようにあった。
「あのうぉ……」
「いいからいいから早くかたずけてくれ」
彼奴の声はするが決してこっちを見てはいない。
三浦は、ずっと作業台の上で、あの大きな体からは想像もできないほど繊細で彼の手のひらにすっぽりと包まれるくらいの大きさの菓子を細かに装飾。作っていたという表現は、彼のその繊細な手の先から感じる気迫の様なものが言わせなかった。
そう彼は菓子を作っているのではい。
菓子という名の芸術品を仕上げている。いわば芸術家の様に見えた。
「すごい」
その言葉が漏れるほど、その作品は彼が手を加えるほど輝きを増してくる。
それと同時に僕には洗い物がどんどん増えていく。
しかしおかしなものだ。
一商社マンの僕がいきなり菓子屋に呼ばれて、朝からずっと洗い物をさせれているとは。想像もしていなかった。
それでもいやな気はしない。
むしろ楽しい。
ようやく三浦の方の作業が一段落ついたんだろうか。僕の方にやってきて僕が洗った鍋を一つつかみ、じっくりと見つめていた。
「ほう、笹崎。お前意外と仕事丁寧なんだな。まぁ100点はやれないが90点は出してやってもいいぞ」
「すごいね笹崎さんは」
ずっと気になっていたんだけど、ここ『レーヌ・クロード』の厨房にはもう一人しかも年も若い女性のパティシエがいた。
金色の髪を束ね、透き通るような白い肌にマリンブルーの瞳が印象的な
まだ彼女は見習いなんだろう。行っていることは三浦のサポートがメインのようだ。
必要なものを彼のもとに用意をし、使い終わったものは僕の方にどんどん流れてくるように持ってくる。
そして彼女の目もやはり、三浦のあの手先から決して目が離れることはない。
この世界は職人の世界だ。
説明されて、内容を理解しながら、その資料を把握しながら覚えていく仕事ではない。
見てまねて技を盗み。それを自分のものに如何に染み込ませ、アレンジできるようになるのか。
型通りの事が出来たからと言って、それで一人前というものではないという世界なのだ。
そういえば東京にいた時、研修で寿司職人さんと話したことがあった。
「職人は一生涯修行だ」と、言っていたのを思い出す。
まさにその世界に今僕はこのフランスという地で、その現場にいるという不思議な感覚を感じている。
「そういえばまだ紹介していなかったな。ミリッツア」
三浦が彼女を呼んだ。
「ここで修行中のMilitza(ミリッツァ)・Dubois(ジュブワ)だ。今は俺のアシスタントだ。このほかにこの前まで二人ほどいたんだが、二人とも辞めちまったんだ。だから今は俺とコイツ、ミリッツアと二人っきり。まぁ、イレールもいるが今はほとんどの製造を俺が任されている」
「え、今たった二人っきりなんですか?」
「そうなんだよ。だから笹崎が洗い物してくれるから物凄く助かってんだ」
「ありがとうね笹崎さん」
ミリッツアさんがにっこりと僕に礼を言う。
その笑顔は何だろ物凄く可愛らしくて、キュートという言葉がちょうどいい感じに彼女に当てはまるような気がした。
「なんだなんだ、笹崎。お前顔赤いぞ! ああ。ミリッツアも顔赤くしてやんの」
「まったく政樹の意地悪!」
少しプンとした顔もまたいいい。
とにかくかわいい。いい、物凄くいいい……。
一目ぼれか? 心臓の鼓動が波打つような感じがする。
「おいおい、二人ともいい感じのところ悪いんだが、笹崎の洗い物が進まなくなっているぞ」
ハッと我に返り「すみません。頑張ります」と洗い物の山にその身を向かわせた。
ミリッツアさんも洗い物を手伝ってくれたおかげで、ようやく何とかすべての洗い物が終わったようだ。
すでに時計は午後3時近くをさしていた。
「お―い笹崎。腹減っただろ、食事の支度が出来ている。こっちにこいや」
そういえば、朝に軽くバケットを二口と珈琲しか食べていなかったのを思い出した。急に腹が減ってきた。
「ご苦労さん。ほんと頑張ったなお前。あ、それと食事の前にもう一人お前に紹介したい人がいるんだ」
僕に紹介したい人?
「でも今はここには二人だけって聞いたんだけど」
「ああ、違うんだ。俺たちパティシエとは違うんだよ」
厨房の裏口を出ると、店の裏手には二階建ての住居があった。
「ここが俺たちの今の家でもあり、オーナーのイレールの家だ」
その家に入ると、今まで我慢していた空腹感が限界を超えた。
「いきなり来て、大変なお仕事まで手伝ってもらってありがとう。
そこで見た人は、優しい笑みを僕に送り届けてくれた。
なんだろう、自然とその人を見ていると、目が熱くなってくる。
あふれてくる何かが、抑えきれない。
懐かしさが胸いっぱいにあふれてきた。
「こんにちは初めまして、ユウコ・ミシェーレ。イレーヌの妻です」
綺麗な日本語だった。
長い黒髪が似合う清楚な
今生きていれば同じくらいなのだろうか……。
小さい時のあの面影しか僕には母親の記憶は残っていない、しかも成長するにつれ、その面影は陽炎の様に歪み次第に消えていきそうになる。
ここ『レーヌ・クロード』は僕にとって、運命をつかさどる場所なのかもしれない。
今日一日僕はここで、出会った人たちとともに忘れる事の出来ない人生を、わかち合うことになる予感がしていていた。
だがこれはまだ、ほんの始まりであることを今の僕はまだ知らない。
僕らの恋の糸は絡み始めようとしているのを。
フランスで見つけた恋。
L'amour que j'ai trouvé en France.
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