第59話4.新たな風が吹くその瞬間に

 彼、いや彼奴との出会いは、衝撃すぎた。


 年は僕と同じくらい。

 なのに彼奴は僕よりはるかに大人びていた。いいや彼の雰囲気からにじませるそのオーラが僕を圧倒させたのかもしれない。


 僕らが『レーヌ・クロード』に持参したあの最高級のバニラビーンズは、オーナーのイレール・ミィシェーレは受け取らなかった。


「確かに、このバニラビーンズは最高級の上質のものだ。しかし、僕はこれを使いたいとは思わない。僕の店には、僕の作品には強すぎる存在のようだ」


 強すぎる存在?

 皇室御用達とまでその名をたなびかせている、この店の商品にには強すぎる。高貴な菓子を名にしているのであれば、使う食材も最高級のものを使うのが、本来の道筋であると僕はそう思っていた。

 しかし……、しかし彼らの考え方は全く違っていた。


 レーヌ・クロードのオーナー、イレール・ミィシェーレは僕の事を見て

「君、日本人?」と声をかけた。

「はい、このパリ支社に配属になってまだ1か月過ぎくらいですけど」

「そうか、もうこの地の水と風と土には慣れたかね」


 水と風と土?

 つまりはこの地の風土になじんたか? ということを、この人は訊いてきたのだろうか?


 それにしてはちょっと意味ありげな聞き方をするものだと思った。

「うちにもね、日本から修行に来ている青年がいるんだよ。歳もちょうど君と同じくらいだと思うんだがね。ちょうど今頃は仕上げに入っている頃合いだろう。厨房をのぞいてみるかい」


「よろしいんですか?」

「ああ、構わないよ。彼の作業の邪魔をしない限りね」

 にこやかにイレーヌは答えた。


 店の厨房に僕らのような業者が入ることなどめったにないことだ。

 厨房には、その店の企業秘密とでも言うべきだろうか、何をどのように使っているのかが一目で目にすることが出来る。そんな隠された店の極意をここのオーナーは惜しげもなく僕に見せようというのだ。


 こじんまりとした外観の表向きの店舗とは違い、厨房の中は広くもなく、そして窮屈さを感じさせるほどの狭さでもない。いわばこの場は作業を行うのにはちょうどいい広さであり、整然と並べられた調理器具が僕の目に即座に入る。

 その中で黙々とその男性の手の中で、まるで妖精たちが今まさにその命を吹きかけられているかのように、鮮やかな菓子たちが生まれつつあった。


 手を止め、ふと見上げる彼の瞳には僕の姿が写し出された。

 そして一言。


「お前、日本人か?」


「はいそうですけど、あなたも日本の方だそうですね」

「ああ、そうだ、俺は神奈川の生まれだ。もうこっちに来て10年は経つな」

「10年? 僕と歳はそんなに変わらないように見えるんですけど」


「ああ、俺高校中退してこっちに来たんだ。もうこの店で働いてそんくらい経っちまったよ。でも珍しいな業者で日本人が来るなんて」

 あの時彼奴は、ニッと笑い僕に握手を求めてきた。


 がっちりとした体つきでいて少しぶっきらぼうなところがあって、それでも彼奴のその手に触れた時、その柔らかさとすっと伸びた綺麗な指のラインが僕の手を包み込んだ。その手はまるで女性の手の様だった。


「俺、三浦政樹みうらまさき

「僕は、笹崎太芽ささざきたいがです。よろしく」


 手を放した時、なぜだろうか。僕はこの人とこれからずっとかかわることになりそうだという予感めいたものが湧き出てきた。

 武者震いのような、それでいて静かに打ち響くこの鼓動が全身を襲うような感覚。

 だが彼奴から出た言葉でその想いは一気に吹っ飛んだ。


「またお前ら、ろくでもない物売込みに来たんだろ」

 ろくでもないもの?

 あの最高級のバニラビーンズが、ろくでもないもなのか?


 支社長や会社のスタッフがどんなに苦労して手に入れたかも知らないのに、まるで粗悪品のような様なことを平然と言う彼奴に、怒りが込み上げてきた。


「ろくでもないものって今日僕たちが持ってきたあのバニラビーンズは、最高級品なんですよ。普通では絶対に手に入らない物なんです」


「そうか、バニラビーンズか。最高級のバニラビーンズねぇ、ここではまず使わんだろうな」

「どうしてですか? 皇室御用達とまで言われているこの店に一番ふさわしい食材の一つではないんですか?」


「だからだよ。わかってねぇなお前!」


「わかってないって……」


 いくら客とはいえ、平然とあんなことを言われて黙っているわけにはいかなくなった。正直頭に来たと言えば本音だろう。これでも日本の本社で品物の品質や価値観くらいはある程度理解しているつもりだった。今回僕らが持ってきた商品は、と言ってもサンプリングとして持ってきたのなんだが……。それでも一目見ればその価値観と品質の高さは最上位のものだと僕も認識している。


「物の価値をわかっていないのは君の方だ!」


「やれやれ、相当重症のようだな。もっとも、それが普通の反応かもな」


 何を言いたいんだコイツは、それが普通の反応? どういうことなんだ。一体。

 この僕らのやり取りをイレーヌはしっかりと聞いていたらしい。


「オッやってるな!」

 彼はそう言いながらにこやかに僕らを見つめていた。


 流石に少し声を荒げた感じで反論したこの僕に先輩がたしなめるように、中に入ろうとした。後味がわるい感じでいっぱいだった。

「客先で何をしているんだ笹崎!」

 先輩に怒られ、せっかく用意してきたあのバニラビーンズは、また僕の元に帰ってきた。


 帰りの車の中でさんざん先輩にどやされ、多分支社に帰ってからも支社長に大目玉を食らうんだろう。重い気持ちで支社に戻り、オフィスのドアを開けた。

 僕のその姿を見て支社長が「おい笹崎お前、一体レーヌ・クロードで何があったんだ!」


 もう連絡が入っていたんだ。こりゃ大事になってしまったようだな。首か? それともよくて日本に帰還されて、そのあと左遷箇所へ配属されるのかもしれないな。


「すみません支社長。すべては僕個人の責任です。どんな処罰も受ける覚悟です」

「ん? 何を言っているんだ。さっきレーヌ・クロードのオーナーから連絡があって、お前を2,3日借りたいと言われたんだが、その理由はあのオーナーは何も言わないし、ただ「面白い青年だ、うちの政樹とも気が合いそうだ」としか言わなかったし、一体お前レーヌ・クロードで何をしてきたんだ」


「え!」


 思わず拍子抜け多声が出てしまった。

「しかしたいしたもんだ、あのレーヌ・クロードのオーナー自らお前を指定してくれるなんて、その政樹とかという従業員と親しくなれれば、レーヌ・クロードとの道も開けるかもしれないな。責任重大だぞ! それにもしうまく取引が出来うようになれば、それはお前の成果だ。2,3日とは言わず毎日でも行ってこい」


 支社長は僕の背中をドンと叩いた。

 同行した先輩も今の話を訊いてポカンとしていた。


 それよりも一番ポカンとしていたのは、この僕自身であったことは言うまでもないだろう。


 この時から僕とレーヌ・クロード、いや、三浦政樹みうらまさきとの付き合いが始まったといってもいいだろう。

 僕の人生を大きく変えた人物。そして、僕の大切な親友となる彼奴のその姿が、今でもこの目に映り出されている。


「今日出会ったあの日本人、笹崎と言ったかな」

「どうしたのマサキ? 久しぶりに同年代の日本人に会って、また日本に帰りたくなったの」


 ユウコ・ミシェーレがそっと俺の耳元でつぶやいた。

「そ、そんなんじゃねぇ―けど。なんだろう、不思議と気が合いそうな感じがするんだ。彼奴と」

「まぁ珍しい、人付き合いの苦手な政樹がそんなこと言うなんて」

 ユーコがにっこりとほほ笑んだ。


 その顔を見ながら、俺は彼奴が自分の運命を大きく変える存在になる奴であることを何となくどこかで、その時感じていたのかもしれない。



 その時隣で、何気なく夕食を口に運ぶミリッツアの顔が、少し赤みを帯びていたのは、まだ俺は気にも留めていなかった。




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