第58話3.新たな風が吹くその瞬間に

 今、僕の躰に吹き付けるこの風は。

 今、この俺に吹き付けるこの風は。


 新たな世界へと導いてくれる方向を示しているようだ。


 この風に僕らはお互いに引き寄せられたのだろうか。


 このフランスと言う異国で僕らが出会う事は、すでに定められた運命だったのかもしれない。


 パリの郊外ナンテールにあるビルに僕が赴任したオフィスはある。

 さすがに歴史のある国、フランス。街に立ち並ぶ建物は古きフランスの時の流れをそのまま封印したかのような感じだ。


 その中に大分くたびれた? と言う感じをうえ付けられるビルの中に、フランス・パリ支社がある。

 支社と言うっても、東京本社と比べると比較にもならないほどこじんまりとしている。

 菓子の本場フランスの食品菓子材部のイメージはもっと大きく、華やかな活気のある所だと思っていたが、その想像はあくまでも僕の架空の想像であって、現実とのギャップを埋めるのには実際時間がかかった。


 支社長は現地のまっさらのフランス人。日本本社での勤務歴もあり日本語に幾分対応できるのが僕にとっては救いとなった。

 菓子材部のスタッフは支社長を含め6名。そしてこの僕が新たに加わったと言う事になる。


 スタッフも全て現地の採用の社員ばかり。日本語をかたことでも話せる人は支社長以外誰もいない。

 大学でフランス語の教科を取得していたが、実際の現地の言葉は勉強で習う様なあんな型にはまったものではない。


 僕の話すフランス語はまるで通用なんかしない。


 それでも赴任してから一か月目には何とか彼らの言いたい事が、片言の単語や表情から読み取り感じる事は出来るようになりつつあった。


 この一か月間は先輩と共に、ひたすら取引先への同行と、このフランス・パリを中心に地名や場所を覚えるのが、一番の仕事となった。


笹崎ささざき、もうパリには慣れたか?」

 先輩が何気なく問いかけるが「何とか少しづつですけど」と短く返すしか言葉が出てこない。

「そうか、ま、気長にやっていくしかないよな」

 そうは言ってくれているが、実際後数日もすれば僕は一人でこのフランスの地を動き回らなければいけない。


 目的の取引先にちゃんとたどりつけるかどうか? まずはそこからの不安が僕の胃をきゅっとさせる。

 そんなある日、先輩からこんなことを言われた。


「そういえば、年に数回しか注文は来ない所なんだけど、笹崎と同じ日本人が修行に来ている店があるんだ。そこはちょっと特別なところでな。一般ではそこの商品はなかなか手に入れる事が難しい所なんだ」


「一般では手に入りずらいって、どういう事なんですか?」

「まぁ、何だ。普通に庶民が買える様な所じゃない、と言った方がいいのかも知れないな」


「え、庶民が買えないって? 途轍もなく高級店何ですか?」


「んー、確かに高級店ではあるだろうな。なにせ、上流階級の豪族やイギリス王室の御用達になっているくらいだからな」

「そんなに凄いところに、僕と同じ日本人が修行に来ているんですか?」

「ああ、そうだな、年もお前と同じくらいだったと思うよ」


 少しホームシック気味の今の僕に、同じ日本人が近くにいると言う事を聞いただけで、なんだかとても嬉しく感じた。いや、何だろう安心感と言うのか、それとも近親感と言うべきだろうか? その人物に興味がわいた事は言うまでもなかった。


「一度会ってみたいですね」

「だろうな。そう思って今日はそこに納品に行くんだ」


 その時僕はハッと今日オフィスで、支社長が手渡した木の箱を思い出した。

「もしかして今日渡されたあの木箱に入った物を届けるんですか?」

「ご名答! あれはバニラだよ。でも普通のバニラじゃないんだ、ようやく手に入れる事が出来た世界でもほんの数本しかないバニラビーンズ。うちでもようやく落札できた代物だ」


「やっぱりそう言うところは、こんなにも貴重な食材を好んで使うんですね」

「んーまぁ、そうかもしれないな」


 そうかもしれないな? 先輩のその言葉が気になった。

「正直、あのバニラビーンズは、うちからのサンプル品なんだ」


「え、そんなにも貴重なものをサンプル品で出すんですか」


「ああ、そうだ。出来ればあそこと専属的にうちは契約を取りたいからな。なにせ、あの店と専属契約が取れればうちの名はフランス全土はおろか、イギリスまで名が通るからだ」


「つまりは宣伝効果も狙っていると言う事ですか?」

「まぁ簡単に言えばそう言う事になるな。でもな、あそこのオーナーは堅物かたぶつな人でな。おいそれとはいかないんだよ。もう何年もアプローチはしているんだけど、いい返事は一向にもらえていないんだ」


「そうなんですか……。ところで店の名前はなんて言うんですか?」


『レーヌ・クロード』


 その店の名を聞いた時、僕に誰かが囁いたような気がした。




 この扉を開けるのも閉めるのも、それは君次第だ。


 このレーヌ・クロードのオーナー、イレール・ミィシェーレがこの俺にこの言葉を投げかけてもう10年近くになる。まったく時と言うものは、振り返ればその長さを感じさせてくれない。むしろ未だにこのフランスに単身で渡ったあの時、そう、まるで卵からかえったばかりのひな鳥の様に、この世界の広さを知らずに、よちよち歩きをしていたこの俺の姿が鮮明に浮かび上がる。


 この10年の間、真面目にもう日本に帰ろうとしたこともあった。

 イレールに何も告げず、空港に行き日本行きの飛行機に乗り、フランスから逃げ出そうとした。


 目の前に駐機している日本の飛行機の機体を見つめ、いま、一歩踏み出せば俺はあの懐かしい日本に帰る事が出来る。


 空港の屋上で、飛び立つ機体を眺め、自然とわき上がる涙をとめることが出来なかった。


 そんな俺に一つの影がスッと重なった。

「隣いい?」彼女はそう一言いって俺の隣に腰を下ろす。


 ユウコ・ミシェーレ。


 その人はイレーヌの妻。彼女は日本で生まれイレーヌと共にこのフランスの地で暮らしている。

 俺にとっては、フランスでのお袋の様な、それでいて姉貴の様な存在。


「マサキ、日本行きの飛行機行っちゃったね」

 そっと俺の耳元で囁いた。


「どうして乗らなかったの?」


 彼女はそう問いかけたが、俺は泣いている顔を見られるのが恥ずかしくて、ずっと下を俯いていた。

「でも安心した。マサキもきっとここに来てるんだろうなって思っていたから。私もよくここに来ていたんだぁ」


 降り注ぐやわらかな陽の光と、二人をまとう様に吹き抜ける風が俺の心をゆっくりと落ち着かせてくれた。ほのかに香るユウコの甘い香り。

 バニラの様なそれでいて、フルーティーなこのさわやかな甘さの香りが、俺の鼻をくすぐった。


「私もあの人と一緒になった頃よくここに来ていた。日本行きの飛行機が飛び立つたびに、涙が溢れていた。朝からずっと。暗くなってもずっとここにいて飛行機を眺めていた。最終便が飛び立つ頃、何も言わずイレーヌは私を後ろから強く抱きしめてくれた。彼は、イレーヌは私を抱きしめながら、涙を流してくれた。そして一言。『ありがとう』と言ってくれた。僕を一人にさせないでくれてありがとうってね」


 ユウコも本当は日本に帰りたいと言う気持ちがあった。それでも彼女は日本に帰る事は無かった。


「抱きしめながら、イレーヌの温かさが私の躰に伝わった。彼の心の暖かさが私の中に溶け込んだ。いつも私はずるいと思った。こんなにも私の事を愛してくれる彼を私はずるいと思った。だってこんなにも愛してくれている人を一人残して日本に帰る事なんて出来ないでしょ」


 ユウコは俺を抱きしめてくれた。強くそして優しく。彼女のあの香りにまとわれながら。

「あなたも私と同じ。マサキはとても繊細で心優しい子なんだもの。私と同じ、彼から言われた言葉。『君への扉は僕は何時でも開いている。この扉はどんな事があっても決して閉じる事のない扉だから』」


 泣いた。俺は声をあげて泣いた。

 彼女はこの俺をその時、優しくずっと抱きしめてくれていた。


 あれから、たまにユウコと一緒にこの空港の屋上で、飛行機を二人で眺めるようになった。不思議とあれ以来俺は、飛び立つ飛行機をこの目に入れても、日本に帰りたいと言う気持ちにはならなかった。


 ここ、フランスにはこの俺を優しく見守ってくれている家族がいるから。

 こんなにも俺を愛してくれている家族が、このフランスにいるから……。


 この扉を開けるのも閉めるのも、それは君次第だ。


 イレール・ミィシェーレが、この俺に投げかけてくれたこの言葉の意味。

 それは彼の本当の優しさであって、厳しさであることを、俺はこの躰の中に染み込ませている。


 今まで何人もの人がこのレーヌ・クロードの扉を開けた。

 そしてその扉を自ら閉めた人の姿を俺は目にしてきた。それはイレーヌが決めた事でもないし、ましてこの俺がそうさせたわけでもない。


 レーヌ・クロードの扉は何時でも開かれている。そしてその扉を閉めるのも自由に閉める事が出来る。

 いま、この俺のところで一人の女性ひとが修行として俺と一緒に仕事をしている。

 フランスの田舎から家族の反対を押し切って、このレーヌ・クロードの扉をくぐった彼女。


 ミリッツア・バダンテール。


 チーフとなったこの俺に、彼女の事をイレーヌは一任した。

 レーヌ・クロードのほとんどの商品は今やこの俺に託された。そしてイレーヌは少しづつ製造の現場から離れていった。


 レーヌ・クロードは新たな展開をこれから見せようとしていた。

 その矢先、この俺の人生と言う道を新たに描かせてくれると、もうじき出会う事になるとは未だ……。


 この俺は知らなかった。


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