第57話2.新たな風が吹くその瞬間に
春の訪れはこの僕の人生を、一歩前へと踏み出させてくれた。
大学を卒業し、大手商社へ入社を果たした僕は、ようやく社会人としての一歩を踏み出し始めたのだ。
新入社員研修もようやく一段落。入社してからの1年間は、ほとんどが研修の日々のようなものだった。
僕が配属されたのは、食品部。
食品と言っても扱う商品数は無限のようにある。その中でも僕は菓子材をメインとした部門だった。
僕が担当する分野の商品の種別をようやく把握出来たのは、ここに配属されて1年を間近にした頃だ。なにせ扱う商品が多い! いや無限に広がりを見せている。
ようやく覚えたかと思えばそこから新たな分野がめばえ、また一からその分野に取り掛からなければ追いついていけない。
無論、商社というからには販売、いわばバイヤーとしての役割をもこなさなければいけない。最もそのことが一番の仕事であるわけだが。なにせ、この分野はおいそれとは取引をしてくれるユーザーは皆無に等しい。
今まで先輩たちが地道に積み上げて来てくれたその繋がりを、今以上に強固にするためにどうしたらいいのかを模索する日々が続く。
「おい
「はい、課長なんでしょうか?」
「この報告書、やり直し!」
「え、はぁ~。申し訳ありません。すぐに書き直します」
「ああ、要点はお前当てにメールしておくから、それを踏まえて書き直せ」
太芽とは僕の名だ。普通は苗字で呼ばれるものだが、課長だけはいつも僕の事は名前で呼ぶ。
笹崎と呼ばれるのは、同僚や他の部署の人間。太芽と名前で呼ばれるとちょっとドキッとするけれど、課長から呼ばれるときはなぜか安心感がある。安心感という言葉が適切ではないということは言うまでもない。課長は僕の名を気に入ってくれているのかどうかはわからないが、この部署に配属されてからずっとそうだ。
それに課長はとても人情味が厚い。
まして今年は新入社員は配属されなかった。
そう、今も僕はこの部署では一番の下っ端なのだ。
中には厳しい? ……いや、正直言う。嫌みな先輩もいる。
いやそこは我慢だ! 一番下っ端の宿命だ。
そんな僕を課長はよく見てくれている。それは僕自身感じていることだ。
課長からのメールが送られて来ていた。
開いてみると、内容の修正箇所を丁寧に指示してくれていた。
本当は僕のチームの先輩から、指導を受けながら行うべきことだろう。だが課長はあえて僕に直接指示を出す。
決して先輩が無能なわけではない。あえて課長から直々に指示を出すのには訳もある。
とにかく僕らのチームは忙しいのだ。
そんなとてつもなく忙しい僕らのチームに、新人の僕の指導までやらせたら業務に支障をきたしてしまう……。と、そんな風に思うと物凄くプレッシャーを感じてしまうが、課長がその部分をフォローしてくれている。そう思えば有難い気持ちにもなる。
早く一人前になって課長のフォローから卒業しなくてはと、自分では頑張っているが、実際はそう簡単に成果が表に出る訳でもない。
課長からのフォローのメール
その最後に、「今日はこれ書き終えたら上がれ。いつもの焼き鳥屋で待っている」
課長からのお誘い付きだった。
「よし、今日は俺は上がるぞ! お前らも今日は定時終業日だ。どんなに居残ってもあと1時間だぞ。わかったな」
「はい了解です」
みんなが声をそろえて返事をした。
「太芽、出来たら俺のディスクにおいておけ」
そう言い残し課長は自分のディスクを後にした。
「おい笹崎、あとどれくらいで出来そうだ?」
チームの先輩がちょっと心配そうに訊いてきた。
「あと、30分もあれば出来ると思います」
「わかった。俺たちも今日はもう上がるから、あと頼んだぞ」
「はい、わかりました。お疲れ様です」
椅子から立ち上がり先輩たちに頭を下げ、挨拶をして報告書の修正に取り掛かった。
あっという間にあんなにざわついていた室内が静かになった。
気が付けば、ほかのチームのブースには誰もいなくなっていた。
「いらっしゃい!」威勢のいい声と、焼き鳥の香ばしいにおいが僕を包み込んだ。
カウンターの一番奥に見慣れた姿を目にした。
「すみません、遅くなりました」
「ようやく来たか、太芽」すでに課長のカウンターのテーブルの上には、ビールジョッキと焼き鳥が置かれていた。
「ほら、早く座れ。大将コイツにも同じものを」
「あいよ!」と、小気味よい声と共にすぐに生ジョッキが僕の前に置かれた。
「まずはお疲れ」
「お疲れ様です」カチンと軽くジョッキが鳴る。
「すみません遅くなりまして」
「いや、ちゃんとできたんだろ?」
「はい」
「だったらいい」と、課長はグイっとビールをのどに流し込んだ。
そのあと僕も冷えたビールをのどに流し込む。冷たいビールが心地よくのどに流れ込んだ。
課長はよく僕をこうしてこの焼き鳥屋に誘う。
他のメンバーはあまり誘うことは少ないようだ。だからおおやけには出来ない。
課長とこうして僕だけが誘われているのを知ると、いい気がしないのが実際先輩たちから伝わることはわかりきっているからだ。
だから僕と課長がこうして二人っきりで、飲みに行くことは僕たちの秘密みたいになっている。
どうして僕だけを誘うのか? それはよくわからないが、新入社員として今の課長の部署に配属された新人は数少ないと聞いている。だから、気を使ってくれているのかとそう思っていたが、そうでもないらしい。
ある時、課長がぼっそりと僕につぶやいた言葉があった。
「太芽、お前見ていると物凄く懐かしいんだ。俺がこの会社に、この部署に配属された時のことを思い出してな」
まぁ、気遣ってくれていることには変わりはないんだろうが、新入社員として右も左もわからない僕の姿が課長にとっては、とても新鮮味あるんだということらしい。
まして今のメンバーはどちらかというと仲間付き合いが強い。
だから、上司である課長は彼ら、いわば先輩たちの輪に無理にはいろうとはしない。均等を保つと言えば、それまでかもしれないが、上司が無理に親睦を深める時代はもう時代遅れだということを、この課長はよく理解しているようだ。
課長はジョッキのビールを飲み干すと「大将もう一つ」とジョッキを黒光りがする年代を感じるカウンターの上の台に置いた。
こじんまりとした小さな焼き鳥屋。決して綺麗というわけでもないが、長年培った焼き鳥のこの炭の色がカウンターや柱に色濃く出て、それなりの味わいを醸し出している。
この店の大将とも付き合いは長いらしい。お互いにその付き合いは暗黙の了解が通じ合っているかのように、何も言わずに僕にも焼き鳥の皿がカウンターに乗せられる。
「まぁ食え、太芽」
「ありがとうございます」課長と大将に目配りをして、焼き鳥にかぶりつく。
ここの焼き鳥は香ばしく、歯ごたえと共にしっかりとした鳥の味が染みわたる絶品だ。
焼き鳥を口いっぱいにほお張る僕を見ながら。
「うまいか?」
「うまいです」
「そうか、お前にもここの焼き鳥の良さは、十分に知ってもらったようだ。うれしいよ」
なんだかいつもとちょっと違う感じの課長の言葉に、少し戸惑った。だが、その言葉の意味を僕はこの後知ることになる。
そして、僕の運命がこの後大きく変わるきっかけになる事とは、知る由もなかった。
「太芽お前、フランスに行け!」
その言葉を訊いたとき、僕は耳を疑った。
いやあれから、その言葉を聞いたことを疑う余裕さえなかった。
あっという間に、辞令が交付され、僕はフランス支社へ転勤となった。
仕事もまだ満足できないこの僕がフランス支社に転勤?
これは栄転なのか? それとも左遷なのか?
どちらにせよ、会社の意向には背けない。気が付けば、僕は右も左もわからない、フランスの大地に降り立っていた。
大学でフランス語を選択していたのに白羽の矢が立ったのか? まぁフランス語はそれなりに話せると言えば話せていると思っていたが、実際現地に行ってみて僕は今まで何を習ってきたんだろう、という苦悩にさいなまれることになる。
そして菓子の本場ともいえるフランスのレベルの高さに圧倒されてしまった。
日本では桜がようやく満開を迎えるころ。入社2年を過ぎ3年目にして僕はこのフランスで、僕の本当の人生が始まろうとしていた。
そう、新たな風が僕に吹き始めた瞬間だった。
のちに僕は日本に帰国後会社を退職し、自分で菓子食材の輸入業を始めることとなる。
そして運命の出会いがこのフランスの地で僕を待っていた。
運命に翻弄される。これからの時間。
だが、その時間は僕にとって生涯、大切な時なることは今はまだ感じることもない。
運命の時間のはじまり。
Le commencement du temps du destin
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